第一章 Epilogue Ⅰ 偽物の夜

 三者面談から帰って、夜のこと。

 夕飯を食べて風呂も入り、だらりとしばらく過ごした後にさあ寝るかとベッドに寝転んだまではよかったのだが。


「月凪さんや、なんで俺のベッドに入って来ようとしているんですかね」

「寂しいんです」


 有無を言わさずベッドに潜り込もうとする月凪を目にして、俺はちょっと待てと制止をかける。

 身体を起こし、とりあえず話をしようと開いているベッドのスペースを手で叩くと、月凪は抵抗感もなく自然に座った。


 ……もうちょいこう、緊張的な何かがあっていいと思うんですけど?


「あのなあ、月凪。寂しいからって同じベッドで寝るのは色々まずいだろ」

「大丈夫です。私、寝相だけは無駄にいいので」

「そういうことじゃない。……ほんとに襲われても知らないぞ? ってことだよ」

「本当に襲う気のある人はそんなことを事前に警告しないと思うのですが」

「理性的な問題は別だろ」

「だとしても珀琥が気にすることではありません。そのくらいのリスクは承知の上です。もっとも、リスクにすらなっていないと思っていますけど」


 どういう意味だと思うのも束の間、月凪が空いていた距離感を詰めてくる。

 完全に隣り合った身体が触れ合う。

 パジャマの肌触りのいい質感と、その奥に隠された柔らかさ、そして体温。


 それらが、否応なしに心をかき乱す。


「……私が珀琥に偽装交際を申し出た日、断ろうとしたあなたに言っていたことを覚えていますか?」

「…………ああ。それなら覚えてるさ。確か……」

「もう一度、私の口から言わせてください。――『私はあなたに多くを求めません。期待もしません。これは現状を少しでもよりよい方向へ変えるための、可能性の低い足掻きです。ですので、あなたも私を都合のいいように利用していただいて構いません。期待はしないでいただけると助かりますが、裏切るような真似だけはしないとお約束します』」

「なんで一言一句覚えてるんだよ」

「記憶力には自信がありますから」


 記憶力には自信があるってだけで片付けていいのか?


 実際良いのは知ってるけどさ。


「珀琥はこれを聞いて、偽装交際を引き受けてくれましたよね。あの時はただの予感でしたけど、珀琥は私と同類だと思ったんです。私と同じで周囲に期待せず、諦めているように見えました。だからこそ偽装交際なんていう面倒かつ世間一般の倫理観からは外れた申し出でも、良好な関係性を築けると考えたんです」

「……期待されるのがそんなに嫌だったのか?」

「それもありますが、一番は人付き合いに疲れていたからだと思います。両親は話した通りですし、学校での扱いはご存じかと。なので、気疲れをしない人が欲しかったのでしょう。私を色眼鏡で見ない、優しい人が」


 月凪が口にして、俺の手を握る。

 ほのかに冷たい体温や手の感触は、既に記憶に刻まれていた。


「けれど、私は珀琥に弱みを見せてばかりです。自覚していなかった甘え癖で迷惑をかけているのもわかっているつもりです。……でも、やめられないんですよ。珀琥になら全部を見せてもいいって思ってしまうくらいには、心を許しているんです」

「だからって一緒に寝るのは違うと思うんだが」

「……話聞いてました?」


 正論を言っているはずなのに、どういうわけか月凪は怒った風に尋ねてくる。


 ……いや、見ないふりをしているのは認めよう。

 全部を見せていいと思っている、心を許しているなんて言う理由を考えれば、怒った理由にも察しがつくというもの。


 なのに一歩前に進むための踏ん切りがつかず、鈍いフリをして逃げるのは、経験値の浅さと過去の経験が尾を引いているからだろう。

 俺は多分、まだ心のどこかで月凪に遠慮している。


 過去を話すくらいには信用しているつもりだ。

 月凪が俺を否定しないことも。

 それでも、心にこびりついた思想までは簡単に変えられない。


 だから、見え透いた好意を目の前にちらつかせられても、月凪との約束があるからと言い訳をして手を伸ばせずに引いてしまう。


 本当に好きで堪らないなら、想いを伝えるくらいは出来るはずなのに。

 俺に出来ることがあるとすれば、月凪の願いに応えることだけ。


 馬鹿なことをしようとしているのはわかっているつもりだ。

 それでもいいと思えたこの瞬間の気持ちを優先したい。


 そういう選択を繰り返した先に、今よりもいい未来があると思うから。

 そういう未来を掴むために、俺は月凪との偽装交際を受け入れたはずだ。


「……じゃあ、一緒に寝るか」

「…………言い出したのは私でしたけど、本当にいいんですか?」

「考えてみれば俺の理性が崩壊しなければいいだけの話だし、寂しいって潜り込もうとしてきた彼女を追い返すのは彼氏失格だろ?」


 とはいえ、だ。


 俺と月凪は、偽物の恋人であるからして。

 されど、恋人よりも恋人らしい偽物の彼氏を演じる必要がある。


 それを人目がない家でも続ける必要性は限りなく低いけれど――


「……本当に、珀琥を選んでよかったです」

「そう思ってもらえたならなによりだ」


 心底ほっとした風な月凪を見ていたら、どうでもよく思えてしまう。


「そうと決まれば寝ましょう。さあ、早く」


 一転して就寝を催促する月凪と一緒に、ベッドに横たわる。

 俺は壁側を向いて横になり、背中側に月凪が寝転がった。


「寝ている間も珀琥の顔を見ていたいのですけど」

「……流石に恥ずかしいからこれで勘弁してくれ」

「では、代わりに抱き枕になってもらいますよ」

「え」


 瞬間、背中側からぎゅっと抱きしめられた。


 押し当てられる柔らかな肢体と、二つの膨らみ。

 絡められた脚の先で、やけにすべすべとした月凪の足の指が俺の足をなぞる。

 うなじにかかる温かい吐息で背筋に甘い震えが走った。

 絶対に離さないと言いたげに俺の身体を両腕でしっかりとホールドしていて。


「この温かさ……とてもよく眠れそうです」

「俺は不眠症になりそうだ」

「変な気分になってしまいますか?」

「ちょっとだけな。でも、耐えられないほどじゃない」


 それよりも、さっきからうるさいくらいに高鳴っている鼓動の方が問題だ。


 月凪に……大切な人に抱きしめられて、ドキドキしない方がおかしい。

 想像以上だったけど、それも状況を考えるとやむなし。


「私的には、耐えられなくても良かったんですけどね」


 微かに聞こえた呟きの真意など、探れるわけもなく。


「私、珀琥が偽物の彼氏で本当に良かったと思っています。他の人ではこんな風にはならなかったでしょうから」

「……どうだろうな。もしもの話で、俺にはわからん」

「きっと幻滅されていたと思いますよ。部屋の散らかりようとか、家事の壊滅具合とか、天元突破した不器用さとかで」

「欠点がない人間なんていないだろ? 俺も同じだから気にしなくていい。そうやって補い合うのが、恋人ってやつなんだろうな」

「私たち、偽物ですけどね」


 くすりと笑って告げられるそれで、そういえばと思い出す。


「あのさ、月凪」

「どうしました?」

「俺たちの関係って、結局いつ終わるんだろうな」


 俺と月凪は偽装交際。

 どちらかに好きな人が出来たら終わる、薄氷の上の関係。


「……珀琥は、終わりたいんですか?」


 しかし、俺の疑問には、探るような月凪の言葉が重ねられる。


 自分の意思は明言しない問い。

 とはいえ行動や声音、その他諸々の部分から、おおよその推測くらいは立てられるわけで。


「月凪さえよければ、しばらくは続いてくれると嬉しいな」


 関係を終わらせるための感情には目を瞑って、答えるのだ。


「それはよかったです。私、珀琥がいないと生きていけないので」

「大袈裟……じゃないよな」

「ですから、今度料理とか教えてくださいね。夏休みで時間もありますし」

「怪我をしないように気を付けないとな。あと、皿を割らないようにも」

「……わかっていますよ」


 顔を合わせずとも、むくれた顔で言っているのがわかってしまう。

 けれど、聞こえる声音からして月凪は機嫌を損ねていないどころか、かなりの上機嫌であることが伝わってくる。


 その理由に、察しがつかないわけもなく。


「珀琥」

「ん?」

「ちょっとだけこっちを向いてくれませんか? 寝る前にもう一度だけ、珀琥の顔がみたいです」


 直接求められたら断れず、押しつぶさないようその場で寝返りを打つ。

 すると、目の前に月凪の顔があって、眠気のせいか蕩けた空色の瞳と視線が交わる。


 じーっと、しばらく月凪に眺められてから、頬に手が添えられた。


 瞬間、そういう雰囲気を否応なしに感じ取って。


 うっとりとした表情で近付いてくる月凪の顔……というか唇。

 暗がりでも艶やかなそれが、息もかかるほど近くに迫り。


「――――っ」


 俺の頬と触れ合った。


 柔らかで温かい、途方もない幸福感が脳を満たして、意識が埋め尽くされる。

 実際には数秒、あるいは数瞬の触れ合いだったのかもしれない。

 けれど、過去に味わったことがないほどの充足感を覚えた。


 まだ唐突にキスされたことへの困惑は残っている。

 それでも、月凪はそうすることを選んだわけだ。


 離れていく唇の感触を名残惜しく思ってしまう自分が恨めしい。

 この距離なら長い睫毛も、きめ細やかな肌も、何もかもが見て取れる。

 いっそう愛おしく感じる月凪を、俺も抱きしめ返した。


「……今のは恋人だとか偽装だとか、そういうのは関係のない私のありのままの想いを伝えるための行為ですので。キスだけ――それも頬になら、決まり事にも違反しませんよね?」

「そりゃそうかもしれないけど……随分と重いものを貰った気がするな」

「言っておきますけど、初めてですから。頬でもです。珀琥も……ですよね?」

「家族を除けばそうなるんじゃないか?」

「です、か」


 短い返答。

 月凪は、どこかほっとした風に目元を細めていて。


「これからもずっと、傍にいてくださいね」

「月凪に好きな人が出来るまで、な」

「……ばか。あほ。鈍感」


 不満そうな視線を乗せた文句三連続を聞きながら、俺は思う。

 月凪は本当に俺のことを好きなのでは――と。


 自信過剰な希望的観測かもしれない。

 俺の勘違いの線だってある。


 なのに、それを望んでしまうのは、俺がそうだということに他ならない。


「酷い言われようだな。俺のことは嫌いか?」

「…………意地も悪いみたいです」

「冗談だよ」


 その好きが友情的な親愛か、異性としての性愛かは問題じゃない。

 俺と月凪の関係が偽物でも、この気持ちが嘘ではないのなら、いずれその日が来るだろうから。


「珀琥、おやすみなさい」

「……ああ、おやすみ」


 今しばらくは歪で居心地のいい関係のまま月凪の傍に寄り添えることを願って、結局顔を突き合わせたまま眠りにつくのだった。


 ―――

本編的なエピローグ。ほぼピロートークではある。

明日は月凪視点のエピローグでありプロローグ。

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