第8話

「姉ちゃんただいま」

「おかえりなさい。疲れたでしょ…あら?」


ノアの後ろから顔を覗かせた僕を見て、ノアと同じ茶色の長い髪の女の人が、青い目を丸くして驚いた顔をした。

僕は小さく頭を下げる。

ノアが僕の腕を引いて扉を閉め、部屋の中に進んだ。


「こいつフィルっていうんだけど、泊まる所がなくて困ってたから連れて来た」

「あらあら。あなた一人で旅でもしてるの?こんなに可愛い女の子なのに大丈夫なの?」

「姉ちゃん!」

「なによ」


ノアが怒ったような声を出す。

リコが不思議そうにノアを見る。


「失礼だろ!フィルは男だぞ!」

「えっ!ほんとに?うそ…こんなに可愛いのに?わたしよりも可愛いのに?」

「そうだ!だけど男だ。俺は見てすぐにわかったぞ」

「うそ…」


いつものことだから僕は平気だ。リアムだって僕が女だと思って妻にするって言ってたし。

ノアのように一目見て男だとわかったことの方が驚きなんだ。

すっかり固まってしまったリコに、僕はもう一度頭を下げて挨拶をする。


「突然来てしまって申し訳ありません。僕はフィルと言います。宿が見当たらなくて困っていた所をノアくんに助けてもらったんです。一晩泊めて頂いてもいいですか?」

「…え?あっ、もちろんよ!ごめんなさいね…失礼な態度を取ってしまって。嫌だったでしょう?」

「ふふっ、大丈夫です。慣れてますから。それにすぐに男だとわかってくれたノアくんの方が珍しいんです」

「おい」


ノアがまだ掴んでいた腕を揺らして僕を睨む。


「なに?」

「ノアでいい。それに間違えられたら怒れよ」

「ノアは優しいね。…わかった。これからはそうするよ」

「ん…」


僕がそう言うと、ノアは満足気に頷いて手を離した。

その日、暖かい夕餉をご馳走になり、僕にベッドを譲り椅子で眠るというノアを説き伏せて、ノアのベッドに並んで眠った。

ノアもリコも、僕がどこから来たのか、なぜ一人で旅をしているのか、疑問に思うことがあっただろうに何も聞いてこなかった。

血の繋がった親にさえ優しくされたことが無かったし部下のラズール以外に親しい人がいなかったから知らなかったけど、人は他人に無条件でこんなにも優しくできるのかと感動した。そして仲良く話すノアとリコを見ていると、姉上のことを思い出した。

僕も姉上とはもっと話をしたかった。一緒に出かけたりもしたかった。でもそれはもう叶わない夢だ。元気になった姉上の傍に、僕は不要なのだから。

翌朝、お礼のお金を渡して出発しようとすると、ノアとリコに怒られた。なぜ怒るのかわからなくて首を傾げている僕の手に、渡したお金が戻ってきた。


「え…どうして?」

「おまえなぁ、俺達はお金が欲しくて泊めた訳じゃねぇぞ。困ってる人がいたら損得関係なく助けるんだよ。なのにそんな物渡されたら、俺達が卑しくなっちまうだろうがっ」

「よく…わからない」

「はあっ」


ノアが大きな息を吐いて頭を掻く。

僕は掌のお金を見つめて更に首を傾げた。


「聞かなかったけどさ、おまえ金持ちの家の子供だろ。まあ、その銀髪からして高貴な出だってわかってたけど。世間のことがよくわかってねぇ。そんなんでこの先の旅、大丈夫か?」

「大丈夫だ…と、思う」

「おいおい、心配だなぁ。うーん…」

「ノア、デネスの国境まで送ってあげなさいよ。心配だわ」

「そうだなぁ」


僕は慌てて首を振る。泊めてもらっただけで感謝なのに、それ以上は申し訳なさ過ぎる。


「大丈夫だよ!僕は剣も持ってるし魔法も使える」

「でも不安だなぁ。仕方ねぇ、国境までついて行くよ」

「ノア…っ」

「ま、国境までは今日中には着くから、着いたら俺はすぐに戻る」

「…ありがとう。リコもごめんね」

「いいのよ。その代わり帰りも家に寄ってね」

「うん」


明るく笑うリコに僕は小さく頷く。

帰りか…。帰りは寄れないと思う。今は幸い見つかっていないけど、たぶん王は僕を捜してる。きっと世界のどこに行ったって、必ず僕を捜し出して殺すだろう。今から行くデネスにもすでに捜索の手が回っているかもしれない。

ぼんやりとそんなことを考えていると、早々に自分の馬を引っ張って来たノアに「行くぞ」と声をかけられた。

ノアの馬は足が遅かった。走るように調教されていないらしいから仕方がない。でもノアと話しながら進むのは楽しかった。余計なことを考えなくて済む。

僕一人なら昼も食べずに進んだのだが、ノアが腹が減ったと言うから道を逸れて街に入った。

その街はノアの家がある街よりも大きな街だった。昼間だからか人通りも多い。でも人が多いところでは特に注意が必要だ。

僕の銀髪が珍しいとノアに指摘された。でもノアに指摘される前から、僕は常にマントについたフードを深く被り顔を隠している。追いかけては来てないだろうが、イヴァルの者やリアムに見つからない為だ。

ある店の道に面した席に座って料理が出てくるのを待っている間に、僕は気になっていたことをノアに聞いた。


「ねぇ、そういえばノアの街の人はどうしてまだ日も暮れてないのに誰も歩いてなかったの?」

「え?ああ。いつもは賑やかだぞ?二日前にさ、街に偉そうな騎士が来たんだ。俺と歳が近そうなのに偉そうだった。そいつが逃げた悪い奴を捜してるって」

「悪い奴?怖いね…。じゃあ家にリコを一人にしない方がよかったんじゃ…」

「大丈夫だ。その悪い奴?どこに逃げたかよくわからないらしいぞ。背の高い偉そうな騎士が『こんな遠くまで来てないと思うが』って言ってたしな」

「ふーん」


だから街の人達は用心して早くに戸締りをしていたのか。

僕は運ばれてきた鳥肉を美味しそうに齧るノアを見て、呆れながら言う。


「それなのにノアは出歩いてたの?危ないよ?」

「大丈夫だって。それに俺が出歩いてたからフィルは俺ん家に泊まれただろ?」

「ふふっ、そうだね」


僕も鶏肉をフォークに刺して口に入れる。すごく好みの味で美味しい。

肉を咀嚼していると視線を感じて顔を上げた。

ノアがこちらをジッと見ている。


「なに?」

「いや…おまえ、もっと笑えばいいのに。笑った方が可愛いぞ」

「可愛いって…なに。僕は男だよ」

「そうだけど。うーん…かっこいいとも違うんだよな。とにかく笑え。笑うと幸せが寄ってくるんだぜ」

「ほんとに?」

「おう!姉ちゃんがそう言ってたし」

「そう…」


幸せか。幸せってどういうことを言うんだろう。僕は今、幸せなのだろうか。城を出されて、殺されるはずだったのに助けられてまだ生きてる。この先どうなるかわからないけど、食べ物は美味しいしノアと話してると楽しい。ここにリアムがいればもっと…。

僕は慌てて首を振る。リアムとはもう会うこともない。明るくて眩しくて太陽のような人。そんな人と少しでも一緒に過ごせたことが幸せだというのかもしれない。


「どうした?」

「ううん。僕、笑うのが苦手なんだ。でもなるべく笑うようにするよ」

「笑うのが苦手ってなんだよ。やっぱおまえって変な奴だな」

「…そうだね」


小さく頷いたその時、僕の背後に目を向けたノアが「あっ」と声を上げた。


「どうしたの?」

「…あいつだよ。悪い奴を追いかけて来たっていう偉そうな騎士…」


僕はゆっくりと振り返ってその男の顔を見た。瞬間、即座に顔を戻してフードを引っ張り更に深く顔を隠した。


「どうし…」

「しっ…!」


怪訝な顔をするノアに向かって、僕は人差し指を唇に当てる。

まずい。心音が聞こえるんじゃないかと思うくらいに心臓が激しく鳴ってる。指先も震える。震えを止めようと固く握りしめた掌に汗がにじみ出る。

その時、背後から声をかけられた。


「おい、そこの少年。俺達は咎人を捜している。珍しい銀髪の、おまえと同じ年頃の少年だ。見なかったか?」

「え?」


僕は机の上に置いた両手を更に固く握りしめた。だけどすぐに弛めて、ノアに微笑んだ。

ノアが僕を匿う理由はない。素直に話してくれて構わない。とっくに覚悟はできてたんだから。

ノアは僕の目を見つめると、視線を上げてはっきりと言った。


「見てないです。…そいつ、何したんですか?」

「そうか。だが見かけたらすぐに知らせてくれ。俺は数日この街にいる。理由は知らなくていい」

「わかりました」


ノアが頷くと、数頭の馬の足音が遠ざかり、緊張に包まれていた空間が穏やかになった。

僕は細く長い息を吐き出してノアを見る。


「ノア、ありがとう」

「なにが?」

「僕のこと黙っててくれて…」

「あれってフィルのことだったのか?だって銀髪は珍しいけど他にもいるだろ?」

「ノアは…優しいね。あの男が捜しているのは僕だよ」


ノアは無言で残りの料理を平らげ、お金を置いて僕の腕を引きながら店から離れる。建物と建物の間の人気のない路地に入ると、ようやく足を止めて僕を見た。


「フィルは悪人に見えないけど」

「うん、悪人じゃないよ。自分で言うのもなんだけど」

「じゃああいつはなんでおまえを咎人って言ってるんだ?」

「…僕がまだ生きてることが罪だから」

「はあ?なんだそれ?そもそもおまえとあいつの関係って…」

「悪いな、少年」

「あっ!」


ノアが僕の頭上を見て声を上げる。

突然背後から伸びてきた手にフードを脱がされた。慌てて振り向いた僕の目の前によく知る男が立っている。先程の騎士だ。


「やはりあなたでしたか。捜しましたよ王女様。…いや、王子様だったかな?」

「トラビス…どうしてここに」

「俺の部下があなたの始末に失敗をしましたからね、俺が自らあなたを始末する為に捜してたんですよ。まさか隣国にまで逃げていたとは」

「僕は国には帰らない。何も話さない。だから放っておけばいいだろう」

「王の絶対命令が出ているので無理です。それに俺が!あなたを放っておけない!」

「僕に負けっぱなしだから?」


僕の言葉にトラビスの表情が一瞬で変わる。皮肉るように少し笑っていた顔が、なんの感情も見られない人形のようになった。


「…そうだ。男のくせに女だと騙していたことも許せない。そんなにひ弱な体つきのくせに俺に屈しなかったことも許せない」

「ただの僻みだな」

「うるさい」


トラビスの手が動き僕は素早く剣を抜く。


「くっ…!」

「おや?どうしました?これくらい簡単に弾き飛ばしていらっしゃいましたよね?」

「ノアっ、逃げろっ!トラビス、存分に相手をしてやる…だからノアには手を出すな」

「駄目だ。そいつはあなたを匿って…」

「トラビス!ノアに…手を出すな」


トラビスの動きが止まる。僕が刃を自分の首に当てたからだ。

それを見たトラビスが舌を打つ。


「チッ…わかりましたよ。おいおまえ、早くここから去れ。そして今見たことは忘れろ、いいな?」

「でもっ」

「ノアっ、行って!本当にありがとう。感謝してる」

「フィル…」


ノアはしばらく戸惑っていたけど、唇を噛みしめると踵を返して走り去った。

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