第15話

 突然小四の頃の話を持ち出してきたことに動揺を隠しきれなくて返答が遅れたけど、「うん」と肯定した。

「まだ……今も俺に消えて欲しくないって思ってるか?」

「うん消えて欲しくないに決まってる!!」

 その問いには即答して思わず優の右手を取って消えてしまわないように両手で強く強く握りしめた。

「絶対消えちゃ駄目だから!! 私の……、お母さんも悲しむと思うし」

「お、お母さん?」

「うん。私のお母さん優にぞっこんだから」

「ぞっ、ぞっこん!?」

「うん」

 私が優の話をすると母親は物凄く喜ぶ。優くんは本当に優しい子なのね、とぽつりと言った時の母親の顔は恋する乙女にしか見えなくて、驚きを通り越して呆れた。

 娘の幼馴染だし、あんたには決して逆らわない、貴方にぞっこんな旦那さんがいるだろうが、と言いたくなったけど堪えたのは、もし言えば家の外に出されるからだ。

「一日でいいから私と優を交換したいって。いい子だから手がかからなさそうだしってよく言ってるよ」

 あの時、母親は笑いながら言ったけど氷のように冷え切った目をしていた。正直悲しかったけど優が私より手がかからなくていい子なのは事実だから曖昧に笑うことしかできなかった。

「そっか……。まあ、俺の母親も似たようなもんだから大丈夫だ」

「似たようなもんって?」

 苦々しい表情で首の後ろに左手をあてた優を見て不安に襲われた私はすぐに聞き返した。

「俺……、お母さんから産まなきゃよかったって言われたことがあって」

 あっ、と聞き覚えのある言葉に私が思わず声を上げると優が顔を上げた。泣きそうに歪んだその顔を見た瞬間、私は胸が張り裂けそうになって、「私も言われたことあるよ」と小さな声で返した。

「そっか……。その時のお母さんの顔、怖かったか?」

「うん凄く……。思い出したくないけど思い出しちゃう。忘れたいのに」

「俺も……。忘れたいし凄く怖かったし寝る前によく思い出す。多分あれは……小二の時だったと思う。……お母さんはいつも冷たい目で見てくるから怖いんだ。でも。産まなきゃよかったって言ってきた時はいつにも増して怖かった。あのな……。そう言ってきた後、お母さんが俺の首に手を伸ばして絞めてきたんだ。徐々に絞める力が強くなってきて、俺は途切れ途切れにやめてって言った。そしたらお母さんは絞めるのをやめて手を離してくれたけど、正気を失っている血走った瞳で俺を睨みつけていた。頭頂部から足の爪先までの全ての熱を目の前のお母さんに奪い取られるような感覚に襲われた。……俺は怖くてたまらなくて、どもりながらごめんなさいって必死に謝ると、泣きながら自分の部屋に逃げ込んだ。それから一時間半後、我慢できなくて仕方なくトイレに行った直後にお母さんと廊下で会ってしまった。恐れていた事態が起こってパニックになって、殺されるって確信した俺は立ちすくんだ……」

 そこで優は静かに口を閉じた。ごくりという音が聞こえて目を向けると喉仏が動いていたから、溜まった唾を飲み込んだのだと分かった。

 話している時の声が、ずっと助けてと泣きじゃくっているかのようで、また普段より顔が幼く怯えているように見えた。

 いや、実際、優は八歳のこの日、必死に助けを求めていたに違いない。それから、私に教えるためにトラウマを思い出しているから過去にタイムスリップしたみたいに幼くなるのはあり得ない話ではない。そして、今の優が怯えている相手は過去のお母さんだ。

 聴いているだけの私がこれだけ苦しいんだから優はもっと苦しいはずだ。優の気持ちを考えたら気が狂いそうになって、気づかれて気を遣われないように静かに息を整えると、私もいつの間にか溜まっていた唾を飲み込んだ。

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