紫陽花の傘

チヌ

紫陽花の傘

 植物園。

 木に囲まれた空間に、ガラスの机と椅子が二脚ある。

 机の上にはマグカップが2つ。

 酒井は椅子に座ってタブレットをいじっている。

 手塚は聴診器を木に当て、バインダーに何かを書き込んでいる。


酒井 どうだ、先生?

手塚 大方、君の言う通りかな。

酒井 …そうか。

手塚 虫とか伝染病じゃなく、これだけ一斉にって言うのは、あんまり見ないね。まるで…。

酒井 まるで?

手塚 …心が弱ってる、って言ったらいいのかな。

酒井 植物にも心があるか。

手塚 議論はまた今度。今は原因と対処を考えたい。

酒井 考察は?

手塚 今の段階じゃ、何も。いろんな可能性がある。

酒井 紫陽花は?

手塚 …咲くよ。でも。

酒井 咲くんだな?

手塚 うん。

酒井 そうか。なら良い。

手塚 …見せてあげたいんだっけ?

酒井 賭けをしている。何色になるか。

手塚 管理人さんは、不正し放題じゃない?

酒井 つまらないことはしない。

手塚 何色に賭けたの?

酒井 赤。相手は青。

手塚 俺は紫にしようかな。

酒井 何を賭ける?

手塚 え、ものがいるの?

酒井 ものでなくとも。

手塚 君は何を賭けたの?

酒井 私が勝ったら、あの子は学校に行く。負けたら、あの子を助手にする。

手塚 …だいぶ、のんびりな賭けだね。俺が入る余地ないし。

酒井 これくらいで良いのさ。人生なんて。

手塚 君が言うの?

酒井 何か問題が?

手塚 良い反面教師には、なるかもしれないけど。

酒井 ほっとけ。

手塚 珍しいね。子どもは嫌いって言ってなかった?

酒井 そこまでガキじゃない。

手塚 確かに。

酒井 責任を負う必要がないくらいは。

手塚 責任?

酒井 私は親でも、ましてや学校の先生でもない。

手塚 そうだね。責任がないから、関わってあげられない。

酒井 …そんなお人好しに見えるなら、眼科に行け。

手塚 言われなくても通ってるよ。


 酒井は左胸を押さえる。


酒井 医者、を、変えるんだな。


 手塚は酒井を見る。


酒井 …何だ?

手塚 …カルテ、出来たよ。詳細はまた、後日になっちゃうけど。

酒井 あぁ。


 手塚は酒井にバインダーを渡す。

 酒井はバインダーをめくる。


手塚 何か飲む?

酒井 ホットココア。

手塚 はいはい。


 手塚はマグカップを持って出て行く。

 手塚とは別の入り口から鈴木が入ってくる。


鈴木 …こんにちは。

酒井 紫陽花はまだ咲かない。

鈴木 そう、ですか。

酒井 ほっとしたな?

鈴木 …少し。

酒井 正直者。

鈴木 手塚さん、いるんですか?

酒井 飲み物を取りに行った。

鈴木 あ。

酒井 気遣われるのは苦手なヤツだ。座って待て。

鈴木 でも。

酒井 良いんだよ。子どもは。


 鈴木、遠慮がちに椅子に座る。


酒井 今日は何をする?

鈴木 宿題を、いい加減、進めないといけなくて。

酒井 何の?

鈴木 数学と日本史と物理です。

酒井 絵は描かないのか。

鈴木 絵は、しばらく、やめようかなって。

酒井 何故?

鈴木 学校に行ってない分、勉強しなきゃいけないから。

酒井 模範解答が聞きたいわけじゃないんだが。


 鈴木は勉強道具を取り出して机に置く。

 酒井はバインダーを閉じ、机に置く。


酒井 絵が嫌いになったか。

鈴木 そんなこと。

酒井 君から絵を奪ったヤツがいるな。お陰で私の楽しみまで奪われた。


 鈴木は勉強を始める。

 鈴木の手は少しも躓くことなく動いている。

 酒井は再びタブレットをいじる。

 手塚が戻ってくる。


手塚 今日は勉強の日?

鈴木 手塚さん。

手塚 こんにちは。何か飲む?

鈴木 えっと…コーヒー、が良いです。

手塚 わかった。ちょっと待っててね。


 手塚はマグカップを2つ机の上に置き、出て行く。

 酒井はココアを一口飲む。


鈴木 ココアですか?

酒井 いつも通り。


 手塚が戻ってくる。

 マグカップを鈴木の近くに置く。


手塚 お待たせ。熱いから気をつけて。

鈴木 ありがとうございます。

酒井 随分早いな?

手塚 そろそろかなと思って、余分に作ったんだ。

酒井 そうか。


 手塚は立ったまま、植物を眺めながら飲む。

 鈴木は手塚を気にしつつ、冷ましながら飲む。

 酒井はゆっくり飲む。


手塚 カルテ、見終わった?

酒井 治療は任せる。必要なものがあれば揃えておく。

鈴木 どこか、悪いんですか?

手塚 植物たちがね。元気がないんだ。


 鈴木、周囲を見回す。


鈴木 そう、なんですか?

手塚 見た目じゃわからなくてもね。今回は特に。

鈴木 紫陽花は?

手塚 大丈夫、咲くよ。賭けをしてるんだって?

鈴木 賭けというか、何色に咲くかなんて、わかるはずないのに。

手塚 あれ、教えてないの?

酒井 聞かれてないからな。

手塚 君は本当…。

鈴木 もしかして、何か法則があるんですか?酒井さんはそれを知ってて。

酒井 不正はしてない。

手塚 紫陽花は、土の成分によって色が変わるんだよ。酸性は青、アルカリ性は赤って感じでね。

鈴木 ここの土は、どっちですか?

手塚 …アルカリが強い、かな…。

鈴木 酒井さん!

酒井 色の変化はデルフィニジンとアルミニウムイオンの化学反応。ある程度偏らせることは出来ても、絶対にその色に咲くわけじゃない。

鈴木 でも、可能性は赤の方が大きいんですよね?

酒井 統計学なら。だが相手は自然だ。イレギュラーは起きる。

手塚 遺伝子が絡むと特にね。授業でやったんじゃない?メンゲルの法則とか。

鈴木 あぁ…でも、教えてほしかったです。

手塚 そりゃそうだ。

酒井 今は何でも調べられるはずだ。

手塚 …疑問を抱かなきゃ、調べようとも思えないんじゃない?

酒井 そうとも言う。

鈴木 …じゃあ、酒井さんは、僕がここに来ることに、疑問を抱いてないってことですか?

酒井 そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。


 酒井はカップを置く。


酒井 話したいことがあるなら聞こう。私から聞くことは何もないが。


 鈴木は手に持ったカップを見つめる。


鈴木 …やっぱり、絵を描きます。

酒井 良い心がけだ。


 酒井はココアを飲んでいる。

 鈴木はカバンからスケッチブックを取り出す。


手塚 何を描くの?

鈴木 紫陽花を。まだ途中なので。


 鈴木は立ち上がり、紫陽花の前に座り込む。

 手塚は鈴木から少し離れた隣に座る。


手塚 その紫陽花は何色?

鈴木 咲いたら、その色にしようと思います。

手塚 そうなんだ。

鈴木 僕は、想像力がないので。あるものしか描けないから。

手塚 あるものが描けるなら、それも才能だよ。

鈴木 誰でも出来ますよ。練習すれば。

手塚 俺は上達しなかったなぁ。ネコを描いたのにコバンザメって言われたし。

鈴木 えっ。

酒井 手塚は相当の画伯だぞ。

手塚 そう言う君はどうなの。

酒井 少なくともネコは描ける。あとネズミ。


 酒井はタブレットの画面を手塚に見せる。

 トムとジェリーが描かれている。


手塚 上手うまっ。

酒井 見直したか?

手塚 植物以外も興味あったんだ。

酒井 私を何だと思ってる。

手塚 知らなかったから。絵が描けるなんて。

酒井 …お前も何か描け。ネコでもコバンザメでも。

手塚 笑わないでよ?


 酒井は手塚にタブレットを預ける。

 手塚はタブレットを真剣に見る。

 酒井はカップに手を伸ばしかけ、自分の左胸を押さえる。

 鈴木はスケッチブックに絵を描き続ける。


鈴木 描けたら僕にも見せてくださいね。

手塚 緊張するなぁ。

酒井 安、心しろ。誰も期待、してない。


 手塚は顔を上げる。

 酒井と目が合う。


手塚 …絵なんて、久々に描くから。

酒井 私も、そうだ。

鈴木 僕だって緊張しますよ。いつも。

手塚 そうなの?あんなに上手なのに。

鈴木 上手くても、これでお金が稼げるわけじゃないし。

酒井 悲しい、ことを言うな。

鈴木 生きていくって、そういうことじゃないですか。

酒井 さあ、ね。ただ生きるだけなら、不要かもしれないが、どう生きるかには、関わるだろう。

手塚 君の絵が素敵だから、辞めちゃうのは、もったいないなって思うよ。

鈴木 そうですかね。

手塚 描けた、ほら、ネコ。


 手塚はタブレットを酒井と鈴木に見せる。

 とてもネコには見えない、強いて言えば魚に見える絵が描かれている。


鈴木 …コバンザメ。

酒井 画伯は健在か。

手塚 ごめん、前言撤回。笑い飛ばしてくれない?

酒井 待て、わかった、ここが耳だな。そうだろ?

手塚 それは前足。

酒井 …どうやら探偵にはなれないらしい。

手塚 ちなみに耳はこれね。

酒井 空間が歪んでる。

手塚 そうかな?

酒井 これが目で、ひげで、尻尾ということだろ?

手塚 そうそう!

鈴木 何でわかるんですか?

酒井 考えたら負けだ。

手塚 これを踏まえて。

酒井 踏まえて?

手塚 鈴木くんの自信に繋がってくれたら、良いんだけど。

酒井 …だ、そうだが。

鈴木 えっと、ありがとう、ございます?

酒井 正直に言って良いんだぞ。


 酒井は笑いを堪えている。


手塚 笑いすぎ。

鈴木 あの、励ましていただいてるのは、伝わってるので。

酒井 写真にとって壁紙にすると良い。きっと見るたびに元気が出る。

手塚 あっそう。


 手塚は酒井のタブレットをいじる。


手塚 お望み通り。


 タブレットの壁紙が手塚の絵になっている。

 酒井は笑いを堪えている。


酒井 馬鹿、本当にするやつがあるか。

鈴木 …写真、撮っても良いですか?

手塚 え、本当に?いいけど…。


 鈴木、スマホで写真を撮る。


鈴木 ありがとうございます。

酒井 はぁ、ダメだ、半年分は笑った。

鈴木 酒井さんが笑ったの、初めて見たかもしれないです。

酒井 そうか?

鈴木 いつもは、何て言うか、微笑んでるって感じで。

酒井 加減しないと笑い死ぬからな。

手塚 笑えないって。

鈴木 実は、ツボが浅かったりしますか?

酒井 どうかな。誰を基準にするか。

手塚 一回ツボると長いよね。今みたいに。

酒井 悪かったよ。君に苦手なことがあると安心するんだ。

手塚 …そう。紫陽花は描けた?

鈴木 きりがいいところまで進みました。

酒井 見ても?

鈴木 どうぞ。下書きですけど。


 鈴木は酒井にスケッチブックを渡す。


酒井 …雨が降っている。

手塚 雨?


 酒井は空を見上げる。

 手塚と鈴木もつられて上を見る。


鈴木 本当だ。気づきませんでした。

酒井 鉢植えはどうした?

手塚 いけない、出しっぱなしだ。

鈴木 手伝います。

手塚 ありがとう。

酒井 転ぶなよ。


 手塚は慌てて出ていく。

 鈴木は手塚の後を追う。

 酒井はゆっくり立ち上がり、紫陽花に近づく。

 酒井は紫陽花に手を伸ばすが、触れる前に倒れる。


 回想。

 大学の構内にあるビニールハウス。

 学生時代の手塚は紫陽花の鉢植えを観察している。

 酒井がやってくる。


酒井 やあ、グリーンハンド。

手塚 お疲れ様。


 酒井は壁にもたれかかるようにしている。


手塚 丁寧にお世話してきたみたいだけど、鉢植えはそろそろ限界かな。できるなら、植え替えてあげた方がいい。

酒井 君に頼んで良かった。

手塚 大げさだよ。ここまで育てたのは酒井さんでしょ。

酒井 この子とは長い付き合いなんだ。

手塚 どのくらい?

酒井 …今年で八年目。

手塚 柿が実るね。尚更、植え替えてあげなよ。

酒井 場所がない。

手塚 植物園は?

酒井 耳が早いな。

手塚 酒井さん、有名人だから。

酒井 君も大概だと思うが。

手塚 俺はほら、好きなことがたまたま得意なことでもあっただけだから。

酒井 世間はそれを才能と呼ぶ。

手塚 そうかもね。でも…。


 手塚は酒井の方を見る。


手塚 …。

酒井 …何だ?

手塚 …いや。紫陽花は自分で買ったの?

酒井 もらったんだ。

手塚 …そう。

酒井 だから、君を頼った。私は緑の手を持っていないから。

手塚 俺だって、上手くいかないときもあるよ。

酒井 わかってる。その上で縋ってみたくなったんだ。

手塚 どうして?

酒井 良い、目と、直感に、賭けた。


 酒井は立っていられなくなり、その場に座り込む。

 手塚は酒井を支える。


手塚 …薬は。

酒井 ない。

手塚 …。


 手塚はゆっくり酒井を座らせる。


手塚 …本当は、医者になりたかったんだ。

酒井 そう、か。

手塚 でも、緑の手じゃ、人の病気は治せない。治せなかった。

酒井 …すまない、ことをした。

手塚 君が謝ることじゃないよ、別に、誰にも言ってないし。でも、これは、八つ当たりなんだけど、怖いんだ、ずっと。俺の手から、命が、零れていくのが。それを、見ることしか出来ないのが。今もね、気づかなきゃ、見ないふりでも何でもすれば良かったって思ってるよ。本当、申し訳ないんだけど。

酒井 …あの紫陽花は、同じ病室の子にもらった。その子が退院するときに。

手塚 退院、ね。

酒井 優しい嘘だ。彼女はもう、どこにもいない。

手塚 …そう。

酒井 紫陽花が枯れなければ、彼女も生きていられるはずだった。

手塚 好きな花だったの?

酒井 病室から見えた。すぐ近くに。淡い水色の綺麗な球体。手まり咲きのハイドランジア。同じ景色が、私も好きだった。

手塚 長く一緒にいたんだ。

酒井 二年と、少し。あの時から、紫陽花は私の命になった。

手塚 命。

酒井 だから、私はまだ、死ねない。


 酒井は立ち上がり、紫陽花の鉢植えに向かって歩く。

 手塚は酒井の様子を少し後ろから見ている。


酒井 この子が、生きている限り。

手塚 …。


 酒井は鉢植えを抱きかかえる。


酒井 植え替えは検討する。ありがとう。

手塚 …その時は、手伝うよ。


 手塚は酒井から鉢植えをもらい受ける。


手塚 どこに持って行くの?

酒井 …お節介だと言われないか?

手塚 最初に俺を頼ったのは君だよ。世話を焼かれる覚悟はいい?

酒井 はぁ…気が済むまで付き合ってやる。

手塚 お互い様。


 手塚は酒井の前を歩いていく。

 酒井は手塚の後をゆっくりついていく。

 回想終了。


 酒井の夢。

 雨が降っている。

 酒井は大きな樹の下に立っている。

 酒井の隣には薄水色の患者衣を着た少女がいる。


少女 雨の日は好き?

酒井 …嫌いじゃない。

少女 私は好き。晴れの日より、紫陽花が綺麗に見えるから。

酒井 それって、紫陽花が好きなんじゃない?

少女 紫陽花はもちろん好き。雨の日はもっと好き。

酒井 ふぅん。

少女 あなたが描いてくれる絵も、同じくらい好き。

酒井 …何?お願い事?

少女 違うよ。いつも思ってること。

酒井 もっと違うこと考えなよ。

少女 だって、これしかないんだもん。病院の中と、窓から見える外だけ。だからあなたが来てくれて嬉しかったの。不謹慎かもしれないけど。

酒井 外に出たことはないんだっけ。

少女 中庭まで。空の青さは知ってるけど、海の広さは知らない。

酒井 知りたかった?

少女 どうかな。知らなかったから幸せでいられたのかも。知ってしまったらきっと、もっとほしくなっちゃうから。人間ってそうでしょ?

酒井 そうだね。

少女 ねえ、あなたのことがほしかったって言ったら、どうする?

酒井 …どうにも出来ないよ。

少女 私、あなたを通して、世界を見ていたの。あなたが教えてくれたり、描いてくれたりするもの全部、私の世界じゃ生まれないものだったの。

酒井 それは、私が外にいたからでしょ。病室から見えないことを知ってたから。

少女 あなたは外にいたけど、心はずっと部屋の中にいた。あなたの隣にはいつも死神がいて、心が少しでも外に出たら、たちまち大きな鎌が振り下ろされるの。あのね、知らないでしょ?死神に怯えながら生きてる人なんて、外の世界にはいないんだよ。

酒井 …あなたの隣にはいないの。

少女 いるけど、少し違う。私、死神のことは怖くないもの。

酒井 怖くないの?

少女 死神の鎌に触れたことがある人なら、怖いのは当然。私はね、そんなあなたの目に映る世界の話が好きなの。

酒井 こんな話のどこが好きなの。

少女 他人を信じて、私のことも、信じてくれるところ。

酒井 誰だってそうでしょ?

少女 あなたほど純粋じゃないよ。みんな少しは疑ってる。

酒井 そんなこと、いちいち考えてるの?

少女 驚きだよね。そういうことをしても疲れないくらい、外の人たちの体は元気なんだよ。

酒井 怖くないのは、少し、羨ましいかな。

少女 死にたいわけじゃないんでしょ?不思議。怖い怖いって言いながら、死神が隣にいることを許してる。

酒井 いなくならないもの。私がどうこう出来るものじゃない。

少女 じゃあ、ずっと怖いまま生きていくの?

酒井 …怖い時間も、他人より短くて済むから。

少女 面倒を見るなら、最後まで見なきゃ。


 鈴木が遠くから絵を描いている。


少女 私は嬉しいけどね。あなたがいたら退屈しないし。でもダメ。来るのはもうちょっと後でね。

酒井 …どうして。

少女 紫陽花はまだ枯れてないから。


 少女は樹を見上げる。

 酒井もつられて上を見る。

 それはとても大きな紫陽花の樹。

 鈴木は紫陽花を描いている。


少女 育ててくれてありがとう。こんなに大きくなるなんて、予想してなかった。

酒井 …あなたのベッドが空っぽになるのを、ただ見ているのが嫌だったの。紫陽花を引き取った理由は、それだけ。育て方も手入れの仕方も、何も知らなかった。

少女 でも、今のあなたに育てられない子はいない。

酒井 必死だったの。あなたを、私の中から消したくなくて。

少女 消えると思ってたの?

酒井 あなたの名前しか知らなかったから。

少女 そっか。どうだった?

酒井 …こうして夢に見るくらい、かな。

少女 どうだった?

酒井 …本音を言えば。

少女 うん。

酒井 忘れてても、意外と平気だった。

少女 うん。そうでしょ。

酒井 怒らない?

少女 怒らないよ。成長するのに、枯れ葉は持っていけないでしょ。

酒井 置いて行けって言うの?

少女 どっちでもいいよ。綺麗な花を咲かせてくれるなら。

酒井 …綺麗に咲くと思う?

少女 あなたの隣には、緑の手を持ってる人がいる。あなたのことを綺麗に描いてくれる子もいる。不安なら、頼ってみても良いんじゃない?

酒井 それって…すごく、難しい、かも。

少女 私を生き返らせるより簡単だよ。

酒井 …そうかもね。

少女 雨が上がるよ。虹が出るかも。

酒井 虹か。

少女 良いことが起きるよ、これから。今までの悪いこと、全部帳消しになるくらいの。

酒井 大きく出たね。

少女 夢だもん、自由じゃなくちゃ。

酒井 ひかるちゃん。

少女 なあに?

酒井 …待っててくれる?

少女 いつまでも待つよ。だから、ゆっくりおいで。


 少女は足取り軽やかに雨の中を通り過ぎていく。

 酒井は少女を眺めている。

 鈴木が樹の下にやってくる。


鈴木 ここにいても良いですか。絵を描いてもいいですか。親には黙っててくれますか。学校に伝えないでくれますか。明日も、来ていいですか。

酒井 ここに、君を拒むものはいないよ。


 鈴木はスケッチブックを酒井に渡す。


鈴木 生まれ変わったら、植物になりたいんです。

酒井 私もだ。

鈴木 紫陽花は、何色になりますか?

酒井 さあ、そうだな。


 酒井は樹を見上げる。


酒井 きっと、雨に良く似合う色だ。


 夢から覚める。

 酒井は植物園の椅子に座り、机に突っ伏して寝ている。

 隣の椅子には手塚が座っている。

 手塚の前には本が積み重ねられている。

 植物園は夜のためライトアップされている。


手塚 …おはよう。

酒井 ん。

手塚 平気?

酒井 …今、何時だ?

手塚 夜の八時。

酒井 あの子は?

手塚 帰らせたよ。…心配してた。

酒井 …夢を見た。とても、懐かしい夢。

手塚 …そう。

酒井 …お腹がすいた。

手塚 …何か、作る?

酒井 明日も仕事だろ?

手塚 まだ時間あるから。

酒井 甘いものがいいな。

手塚 ココアもいれる?

酒井 いい考えだ。


 手塚は立ち上がる。


酒井 手塚。

手塚 何?

酒井 …私も、一緒に行く。

手塚 手伝ってくれるってこと?

酒井 まさか。

手塚 だと思ったよ。


 酒井は手塚についていく。

 手塚は酒井に合わせて歩く。

 朝になる。

 紫陽花が咲いている。

 鈴木がやってきて紫陽花の絵を描き始める。

 手塚が入ってくる。


手塚 おはよう。今日は早いね。

鈴木 手塚さん、これ。


 手塚は紫陽花を見る。


手塚 紫だ。

鈴木 どっちの勝ちになりますかね。

手塚 俺の勝ち。

鈴木 え?

手塚 紫に賭けてたんだ。

鈴木 そうだったんですか。

手塚 …紫陽花はね、苦手な花だったんだ。

鈴木 苦手、ですか?

手塚 咲いてるうちは綺麗だけど、その後の姿が見てられなくて。桜みたいに散るわけでも、椿みたいに落ちるわけでもないから。


 鈴木は自分のスケッチブックを見る。


手塚 今はもう、慣れたけどね。

鈴木 完成したら、この絵、手塚さんにあげます。

手塚 え、いいの?

鈴木 この紫陽花なら、枯れないでしょ?

手塚 …ありがとう。でも、気持ちだけで大丈夫だよ。

鈴木 そう、ですか?

手塚 その姿も含めた全部が紫陽花だからね。


 酒井がマグカップを片手にやってくる。


酒井 紫。

鈴木 酒井さん。

酒井 賭けは手塚の一人勝ちか。

手塚 残念だったね。

酒井 景品は決めたのか?


 酒井は椅子に座る。


手塚 そういう話だったっけ。何が良いかな。

鈴木 …。

酒井 常識の範囲内で頼む。

手塚 …紫陽花の、株をわけてほしい。

酒井 …。

手塚 ダメかな?

酒井 育てる気になったのか。

手塚 うん。鈴木くんと一緒にね。

鈴木 え。

手塚 だってほら、二人分でしょ?

酒井 良い考えだ。

鈴木 僕、植物を育てるの、小学生以来です。

手塚 水やりさえ忘れなければ大丈夫。最初のうちはね。

酒井 何色に咲くかな。

手塚 何色でも、きっと雨に良く似合うよ。

酒井 …。

手塚 だからそんなに気負わないで。植物は強いんだ。ちょっとやそっとのことじゃ、枯れたりしない。植物の時間は、人間よりずっと緩やかに流れてる。花を咲かせて実を結ぶ、その一瞬のために、長い冬を耐えることが出来るんだから。

酒井 腕のいい樹木医もいることだしな。

手塚 植物園の管理人さんもね。

鈴木 …紫陽花、僕にも、育てられますか?

酒井 できる。私が保障する。そしてまた、絵を描いてくれ。

鈴木 …わかりました。やってみます。

酒井 ま、拒否権はないんだが。

鈴木 え、そんなぁ。

手塚 学校に行くより、気は楽でしょ?

鈴木 …まあ、はい。

酒井 せっかくだ、植え替えもやってもらおうか。

鈴木 え。

手塚 いいね。大丈夫、教えてあげる。

鈴木 わかり、ました。

手塚 スコップと植木鉢を持ってこようか。まだ倉庫にあったはずだから。

鈴木 はい。


 鈴木と手塚は出ていく。

 酒井は立ち上がり、紫陽花に触れる。

 酒井の背後に少女が立っている。


少女 わけてあげるのね。

酒井 …賭けに負けたからね。

少女 優しいんだね。

酒井 …違うよ。そうすれば、例えこの場所がなくなっても、あの子は生きていけるから。

少女 まだそんなこと言ってるの?

酒井 この子たちは、人の手が入らなければ生きていけない。私たちのお節介が、植物たちの持つ強さを奪ってしまった。彼らの方がずっと長生きなのに。

少女 あなたのせいじゃないわ。

酒井 臆病なの。私は、自分が生きた証を、何も残せないから。

少女 あの二人だけじゃ足りない?

酒井 …考えたこともなかった。

少女 私にとっての、あなたみたいに。二人はきっと、あなたのこと忘れないよ。

酒井 …それは、悪くないね。


 少女は酒井に水色の紫陽花を手渡す。


少女 雨が降るよ。虹が出るかも。

酒井 良いことが起こるね。

少女 良いことしか、起きないよ。


 酒井は紫陽花を掲げる。


酒井 ますます綺麗になっちゃうな。


 酒井と少女は紫陽花を見上げる。

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