初恋の人と、心を守る盾

第10話

 馬鹿みたいだ。何でこんな寒い日に走らなければいけないんだろうか。容赦ないぜ、先生。内心不満を漏らした私は、かじかんだ両手に自分の息を吹きかけながら走る。


 予想通り、ちっとも温まらない。冷たい風をもろに受けている顔は凄く痛くて、耳はちぎれそうで、手足の感覚は既に麻痺してきている。


 来月に開催される持久走大会に向けて、体育の授業でその練習がとうとう始まってしまったのだ。


 元々、体育の授業でスポーツをしている時に楽しいと感じたことはないけれど、持久走の練習は特に体育教師を睨みつけたくなるぐらい、地獄のような時間だ。練習の今は、校庭の外周をぐるぐる走らされているけれど、本番の時は陸上競技場で走る。


 どうしよう。早くも、既に一周目の途中で、足がもうやめてと悲鳴を上げている。これ、絶対今日の夜か明日の朝には筋肉痛になってる。運動不足にも程があるなあと思う。


 ただ、私はどうしても、持久走大会を、運動音痴に恥をかかせるために開催している行事としか思えない。こんな行事は、今年から廃止するか、走りたい人だけ走る参加希望制にして欲しい。心の底からそう願っている。


 こんなことを願うのはわがままなのだろうか。


 小五の私が玖璃たちにいじめられるようになった主な原因は、運動音痴だ。だから私は、体育の授業も、体育教師も、体育祭も、持久走大会も、スポーツ大会も、スポーツをしている人をテレビで見るのも、自分がスポーツをするのも、スポーツができてスポーツができない人たちを馬鹿にして笑う人間も。全部大嫌いだ。


 それにしても、何で二時間目から走らなければいけないんだろう、と憂鬱な気持ちに支配されながら鼻をすする。慢性鼻炎持ちの私は鼻水が一度出るとなかなか止まらない。


 半ズボンのポケットの中に予め入れておいたポケットティッシュは、残念ながら使い切ってしまった。もう使えない、鼻水でびちょびちょになった、丸まったティッシュのみがポケットの中に入っている。


 と、鼻水が出てきそうになったので慌ててすすり上げる。鼻をすすることは耳によくないらしいから、本当はすすりたくない。


 中一の時に、鼻をすすりすぎて耳が痛くなって、耳鼻科の先生から薬をもらったことがある。一応薬剤師さんから言われた通りちゃんと飲んだけど、薬が効いていたのかどうかは正直分からない。


 鼻水がまた出そうになって鼻をすする。とにかく、ティッシュはもうないんだから仕方がないと諦めてすすりながら走り続ける。


 走り続けること数秒後、持久走の練習と鼻水が止まらないという今日と同じような状況下で起きた、あるトラウマをふと思い出した。


 小学三年生の時の体育の時間。あの日は今日よりも気温が低かったし、凍てつくような強風を受けて身体が冷え切ったのだろう。鼻水が止まらなくなってしまった。


 私はすぐに体操服のズボンのポケットの中に手を突っ込んだけれど、何も入っていなかった。


 少し考えて、そういえば、ポケットティッシュは制服のスカートのポケットの中に入れたままであることを思い出す。


 しまったと後悔しつつ、取りに行くしかないと思った。ただし、勝手に走るのをやめて取りに行くと先生に怒鳴られるかもしれない。それだけは絶対に嫌だ。


 そう思った私は、面倒くさいけど許可を得てから取りに行こうと決めた。


 しかし、担任の先生は男の人だったから先生の前で鼻水と口に出すことすら恥ずかしく感じて、どうしようか悩んだ。


 だけど、このまま鼻水をすすり続けながら走るのは大変だと思い、勇気を振り絞ってティッシュを取りに行ってもいいかと許可を求めた。


 すると、先生はきょとんとした顔をして、ややあって大爆笑し始めた。先生は快諾してくれたけど、にやにやと笑っていて完全に面白がってることが伝わり、笑い事じゃないと本当に腹が立った。


 それに、顔から火が出るほど恥ずかしくて、急いで先生に背を向けると早足で歩き始めた。向かった先は、タイヤの遊具が設置されている場所だ。


 到着するとすぐに、走る前に脱いでテキトーに畳んだ自分の制服が置いてある、タイヤを必死に探した。時間がかかったけど、ようやく発見して安堵しながらタイヤの前に近づいたその瞬間だった。


『あれ、もう女子全員走り終わったの?』


 神代くんが現れて質問してきたのは。


 ううん、まだ走り終わってないし、私も走り終わってない。神代くんたちみたいに走り終わってここに休憩しにきたわけじゃなくて、ティッシュを取りにきただけなの。


 私がそんなふうに答える間すら与えてくれずに、神代くんは『じゃあ、もう授業終わりじゃね?』と友達に言いつつ、私に近づいてきた。

 そして、私の顔を見てすぐに気づいてしまったのだろう。


 うえっ、と声を上げて嫌そうに顔をしかめたまま、『鼻水出てんじゃんっ!!』と大声で指摘した。


 すると、後ろに立っていた神代くんの友達が神代くんに少し顔を近づけて。『やめろ、可哀想だろ。……ほら、すげぇブルブル震えてんじゃん。寒いんだよ、多分』と囁く。


 その途端、神代くんはハッとした表情を浮かべて真顔になり、深く俯いて黙り込んだ。

 友達の言葉を聞いて、私の身になって考えて罪悪感に駆られたからなのか。


 理由は分からなかったし今も分からないけれど、神代くんが私にそれ以上何も言ってくることはなかった。


 その後、ポケットティッシュを無事に手に入れた私は鼻をしっかりかんで、その場は事なきを得た。


 実は、私にとって、神代くんは初恋の人であり私のヒーローでもあるのだ。


 神代くんは、クラスの地味で根暗ないじめっこだった私のことを見て見ぬ振りせずに助けてくれるぐらい、心優しい性格の持ち主だから。


 でも、神代くんの方は、鼻水を垂らしている私の顔を見て、キモい、汚いと思っただろうと思う。九歳の私は、失恋したことにショックを受けて、完全に嫌われたと絶望して、今すぐここから逃げ出したいと思った。


 今起きた出来事の記憶を神代くんの頭の中から跡形もなく消去したいとも思った。でも、消去することはできないと理解していたからこそ、落ち込んだ。


 今でも、神代くんの顔を見る度に思い出して落ち込んでるから、未だに立ち直れていないのかもしれない。


 きっと神代くんの私に対するイメージは、『鼻水垂らしてた奴』のままだろうし、あの出来事は死ぬまでトラウマのままだ。


 私はまだ過去のトラウマに囚われ続けているみたいだ。情けなくて悲しくて虚しくて、目尻から滲み出た涙を体育服の袖で拭き取る。


 別にトラウマを思い出して辛い気持ちになったから泣いたわけではない。決して感情的な涙ではなく、冷たい風を目に受けたことが原因の、生理的な涙だ。


「ひすい!!」

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