第9話

 倉ノ下くんは私の声に反応して無視せずに立ち止まってくれた。自動ドアが倉ノ下くんの身体と顔の前で、ゆっくりと閉まっていく。


「……なんだよ?」


 倉ノ下くんは振り返って私の前まで戻ってくると見下ろす。しかし、呼び止めたのは私なのに、呼び止めた理由が自分でもよく分からなくて言葉に詰まる。


「えっと……その、」


 狼を思わせるような鋭い眼光を向けられれると、ますます何も言えなくなってしまう。


「……褒めてくれて、ありがとう。お父さんに福耳だって褒められたことはあるけど、私は私の耳、無駄に大きいし可愛くなくて好きじゃなかった。でも、褒めてもらえて凄く嬉しい……」


 日常生活を過ごすうえで必要な音だけではなく、自分が苦手な音まで、キャッチする耳なんか、要らない。引きちぎってしまいたいと、本気で思っていた。でも、そんな、自分にさえ嫌われている耳を他人が褒めてくれて、嬉しかった。


「あと。あとさ、そっちこそ、綺麗な目を持ってて羨ましい」


 とりあえず、今の率直な気持ちと前々から思っていたことを伝えたけど、大丈夫だろうか。伝えた後で、倉ノ下くんの目を褒めたということにハッと気づく。いや、褒められたから褒め返した。別におかしくはないはずだ。


「……綺麗な目、か」


 倉ノ下くんはふっと鼻で笑った。今度は悲しそうではなく、心なしか嬉しそうに見えて、ほっとした私はつられて笑う。


「そんなこと初めて言われたわ。当然自分で思ったこともないけどてめぇが綺麗だと言うなら信じるし、これからはもっと大事にしようと思う。さんきゅー……」


「……えっと、どういたしまして」


 私が何て返そうか迷いながら言うと、倉ノ下くんは頭を軽く掻いた。ひょっとして、照れくさいのだろうか。


 私は倉ノ下くんのことを怖い人だと思っていた。それは、倉ノ下くんが時折授業をサボり教師に反抗的な態度を取っているナリヤンだからだ。また、転校してきた小六の頃にヤバい自己紹介をしたヤバい人という認識を持っているからでもある。


 でも、今日ちゃんと話してみて全然怖い人でもヤバい人でもないことが分かったし、勝手に決めつけていたことを恥ずかしく思った。


「まぁ、てめぇの耳の綺麗さには敵わないと思うけどな」


 言いつつ倉ノ下くんはつい先程と同じように左手を伸ばしてきた。予測不能な行動に驚愕して変な声が出そうになったけど、何とか堪える。


 指と指で軽く挟んだ程度で痛みは感じなかったしすぐに離した。人に触られた感触がまだ残っているけど、夢かもしれない。確認するために左腕をつねってみた。痛い。ってことはこれは現実だ。


 倉ノ下くんは意地悪そうに笑っている。相手の隙を突いたことで悪戯が成功して喜ぶ小学生男児のようにしか見えない。


 完全に油断していた。やっぱり、倉ノ下くんは何を考えてるか分からない怖くてヤバい人だと思う。


「じゃあな」


 大きな衝撃を受けて呆然と立ち尽くしたままの私を、倉ノ下くんは意地悪にも放置して素早く背を向けた。


「ああ、そうそう。てめぇはもう俺のダチだからな」


 倉ノ下くんが数歩ほど歩くとこちらを振り返ってそんなことを言ってきた。うっかり言い忘れたことを伝えるような口調だ。


「ダ、ダチ?」


 私は戸惑いながら訊き返す。


「いつ、ダチになったの?」


「はぁ?」


 倉ノ下くんが怪訝そうな声を出した。顔には何でそんな当たり前のことを聞くんだ? とはっきり書かれているような気がする。


「俺がスーパーで話しかけた瞬間に決まってるだろが。俺にとって。今日。八月十七日はてめぇとダチになりたくて、ようやく話しかけることに成功した記念すべき日なんだぞ。おっと、まずい。口が滑っちまった。……とりあえず、ちゃんとダチにならなきゃだな。こういうのって正式に頼むものなのかよく分かんねーけど。

 多原翡翠。今日から俺のダチになってくれ。ついでに下の名前で呼ぶことを許可してくれ。幸雨だけ当然のように呼んでんのがムカつくし、ズルいからな」


 ムカつく? ズルい? 内心首を傾げる。理由がよく分からない発言があって少しだけモヤモヤするけど、別に全然大丈夫だと思う。ううん。大丈夫を通り越して嬉しい。


 友達──じゃなくて、倉ノ下くんのダチになれるなんてものすごく嬉しい。なりたいと思ったことは何度もある。でも、一生なれないと諦めてたから。


「うん。分かった。ダチになるし、翡翠って呼んでもいいよ。私、苗字嫌いだからむしろ下の名前で呼んで欲しい」


 私がそう返事すると、倉ノ下くんは「おう」と頷いた。


「じゃあ、これからはダチとしてよろしくな。翡翠」


 下の名前で初めて呼ばれたその瞬間、あり得ないぐらいドキッとした。倉ノ下くんが笑っている。心底嬉しそうな、満足しているように見える、そんな笑顔だ。


 どうしよう。言葉が発せそうにない。


 私がどきどきしながらこくりと頷くと、倉ノ下くんは再び背を向け、そのまますたすたと歩いて自動ドアからカート置き場に出ていった。


 左右に軽く振られた倉ノ下くんの左手を見て、あの手に触られたのかと自分の右耳を触る。左耳は既に熱を持っていて、触られていない左耳さえ熱い。耳だけではなく、顔も身体も急速に熱くなってきた。


 友達に手を握られた時や頭を撫でられた時は、緊張はしたけどそんなにどきどきしなかった。今、こんなにも胸がどきどきしているのは、多分男性から触れられることに慣れてないからだと思う。


 いざ思い返してみれば、私に触れた男性は、頭を撫でてくれた母方の祖父ぐらいではないだろうか。

 逆に私が触れたのは、クラスメイトの男子にプリントを手渡した時に偶然手が触れた中二以来だ。

 それにしても……駄目だ。ホントに恥ずかしい。他のお客さんや店員さんがいなければ、その場に座り込んでもおかしくない。店内の床に私の身体がすっぽり入るぐらいの、真っ暗な穴が出現する様子を想像して、穴があったら入りたい、と心底願った。






 倉ノ下くんとおしゃべりしている間に売り切れのだろう。元々数が少ない卵は私が到着した時にはもうなかった。けれども、一応牛乳とマヨネーズは購入できたので自分を褒めながら家に帰る。


 向かい風が顔面に直撃して思わず目を瞑る。いつもの私なら確実に、悲劇のヒロインぶってどうして私だけ、と嘆いていたに違いない。でも、それはいつも私なら、の話だ。


 倉ノ下くんに褒められたばかりの今の私は何だか無敵になったような気がした。風なんかに負けるわけがない。


 お母さん。無能な私にもいいところがあったよ。一つだけしかないではなく、一つもある、だ。一つあれば充分じゃないか。


 私のことを否定せずに耳を褒めて、失っていた自信を取り戻させてくれた倉ノ下くんにありがとうと心の底から感謝した。ああ。倉ノ下くんのお陰で、死にたかった今日も、一生来ないで欲しかった明日も、生きていけそうだ。

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もう泣きたくないナリヤンたちはうるせぇと吐き捨てるように言った 虎島沙風(とらじまさふう) @hikari153

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