第2話
1. この曲は
中3になったばかりの頃、個人面談を待つ廊下は静かだった、隣に座っている母親も黙っている。教室の中から時折聞こえる笑い声が妙に大きく聞こえるのは静かすぎるせいだろう。
「お待たせしました」
そう言って尾崎先生が教室の入り口を開けて声をかけてきた。それと同時に今まで面談をしていたクラスメートの親子が入れ替わりに出て行った。
「よろしくお願いします」
母親は入り口で先生に一礼して教室に入っていった。俺は自分の教室に入るのに礼なんかはしない。
尾崎先生は俺と健に担任で、教師になって10年の男の先生だ、教科は数学で、俺は得意教科なので尾崎先生との関係に問題はない。
「3年生になって1ヶ月くらいだが、どうだ?」
尾崎先生は俺に聞いてきた。
「どうって・・・慣れました」
「そうか、慣れたか」
「はい」
俺はなんとも意味のない会話を、と思いながら返事をした。
「クラスにも、勉強にも?」
尾崎先生の質問には“何かに不具合を感じているのでは?”というニュアンスがあった。
「は・・・い」
尾崎先生が何かを聞きたいと思っているかも、と思ったが正直に言って、クラスにも勉強も2年の時とあまり変化らしいものは感じていない、もちろんクラス替えがあったのだから、不安もあったが、健が同じクラスだし、小学校の時からの友達も何人か同じクラスになった。そのせいか数日もしたら新しいクラスの雰囲気にも“慣れた”と思っている。
「そうか、それで奏は誰と仲が良いのかな?」
「バスケ部で一緒なのは千田君で、健は前から友達です」
「そうか、そういえば健とはよく一緒にいるな」
「はい」
尾崎先生は個人カードを確認し、
「健とはもしかして保育園からなのか?」
「クラスが別れたのは小学校の3年生と4年生の時だけで、あとはずーと一緒なんです」
隣の母親が説明を加えてきた。
「そうですか、保育園からの友達かぁ」
「健君は昔から活発で、しっかりものだから、末っ子のこの子には心強い存在だと思います」
母親は軽く俺をディスにながら、尾崎先生も同感なのか笑っていた。
健はどうやらあまり尾崎先生が好きではないようで、理由は数学の成績が芳しくないのもあるが、それは付属的なもので、尾崎先生の板書が読みにくい、というのが一番の理由らしい。それを聞いた時に俺は“そんな理由?”と驚いたくらいだったが健らしいな、と思わぬこともなかった。
健は一見すると、野生児のような風貌だが、以外にも小学校のころチェロのレッスンを受けていたようで、健なりにがんばっていたようだ。休みに公園で2人で遊んでいる時に、健のお母さんがチェロを持ってレッスンの時間になると迎えにきて、そのままチェロ教室に行っていた。でも小学校5年で入ったサッカークラブに夢中になり、中学になるとチェロはやめた。きっと健のお母さんは残念に思ったんじゃないかな、と俺は以前聞いたことがあったが、
「妹がバイオリンをやってくれるから、俺はいいんだ、嫌いなことをやるのは苦痛だし、かあさんも6年間もやれば十分だって言ってくれたし」
健も好き嫌いのはっきりした性格だが、おかあさんも似ているのだろう。
「高校はどうする?」
尾崎先生が新学期早々にやったテストの結果表を俺と母親の前に広げた。
「・・・」
俺と母親は顔を見合わせて黙り込んだ。そんな俺たちを見て
「まだ5月だし、これからがんばりましょう」
尾崎先生はさりげなくフォローしてくれた。
「ウチは公立高校が第一希望なので、安心して受験できるところ、と考えています」
母親が遠慮がちに家庭の希望を伝える。
「そうですか、わかりました、そうなると数学や理科に関してはこのままがんばってもらうとして、国語と英語はこれから復習をしていきましょう、文系科目の成績が上がれば、選べる高校はあると思うからな、あと実技教科も疎かにしないこと、特に男子は音楽授業態度が良くないって高岩先生が嘆いていたからな」
そう言って念押しをするように尾崎先生は俺の方を見た。
「は・・・い、がんばります」
この時期の俺にはそう言うしかなかった。尾崎先生の言う通りで、俺は文系科目がとにかく苦手で、英語はどうしても好きになれない教科で成績は苦戦していた。そして音楽なんてのはもはや授業ではなく、息抜きの時間にすぎなかった。
面談を終えると僕は母親と少しばかり距離を置いて学校を出ようとしていた。母親が帰りに買い物に行くからと、僕を誘ってきたが、制服のまま親の買い物に付き合うのは嫌だったので、即決で断った。母親に部室に寄って帰るから、と言ってその場で別れて、僕は西門から出て帰ることにした。
西門は1階に工作室、2階に音楽室がある通称芸術校舎の横を通っていく、裏門のため、登下校の時間以外は使われない。部室に用なんかない、でもこのまま正門に向かえば結局、母親と一緒になる。西門は正門とは真逆だから、ここから出れば学校を一回りして正門まで行けば良い、そのころには母親はすっかり学校から離れているだろう。
ちょうど音楽室の真下に近づいた時に、音楽室からピアノが聞こえてきた。俺は思わず立ち止まった。どこかで聞いたことのある曲、でも曲名は思い出せない、いわゆるクラッシクと言われるジャンルなのは間違いないけど、曲名は全くわからない。考え込んでいたらピアノの音は止まった。俺はしばらく曲名を思い出そうとがんばったが、どうにも思い出せず、あきらめて西門へ向かって歩き始めた。
家に帰ってからも、ピアノの音が頭の中を巡っていた、お風呂でそのメロディを口ずさんでみたが、やはり思い出すことはできない、CMなんかでもよく聞くのだけど・・・
「奏、早く上がってちょうだい、洗濯が始められないでしょ」
母親の大きな声が扉を閉めているはずの洗面所を通して、お風呂場まではっきり聞こえてきた。
「わかった」
俺は答えてみたが、おそらく俺の声は全く母親には届いていないのだろう、俺の返事を聞くか聞かないかのタイミングで母親が洗面所の前から離れていく足音が聞こえた。
俺がお風呂から上がると、母親は入れ替わりの洗面所に入り、せっせと洗濯をする準備を始めた。リビングに行くと姉が帰ってきていた。
「やっと出た、もう!待ちくたびれたんだから」
不機嫌そうな顔でそういって姉が俺と入れ替わりに洗面所に入って行った。洗面所にいた母親に姉は一言二言話しをして、少しすると母親は洗面所から出てきた。
「ごはん、食べるでしょ、準備するわね」
「お姉ちゃんは?」
「ああ、お友達と食べてきたみたいで、いらないって」
「そうなんだ・・・」
母親は少しばかり不機嫌そうではあるが、姉が部活帰りに空腹に耐えかねて、腹の虫を黙らせるために何かしら食べてくるのはしょっちゅうあるのだ。女子とは言っても食べ盛りの高校生に空腹がきついのは理解できる。
「いただきます」
早々に準備された食卓に座り、黙々と食べ始めた。
母も向かいに座って食べ始めたが、父も姉もいない食卓は静かだった。でも俺はそのくらいの方が良い、姉の一日の報告や、父のおもしろくない話を聞きながら食べるよりよほど落ち着いているからだ。毎日がこんな静かな食卓だとどんなに良いだろう。
「まったく!教師があんな下手な字を書いて許されるのか?」
健は5時間目の数学が終わると、俺に駆け寄ってきて、黒板の書き取りができなかったから、と俺の横に来て当然のようにノートを写しはじめた。
「まぁ、上手いとはいえないと思うけど、数学なんだから数字が読めればさ」
俺がそう言うと
「おい、数学だから字が下手でも良いなんて、全く教育的でないね、じゃあ美術や音楽の先生は字を知らなくてもいいのか?」
「それは極端な例えだろう・・・」
今日返却された小テストのせいもあるのだろう、健はすこぶる機嫌が悪かった。それでもしっかりと俺のノートを写しにくるのは健の真面目さだ。俺はそんな健を尊敬している。少しだらしない印象を人に与えるが、実は努力家のような気がする。
「そういえば、今日、コミック発売日だし、本屋行かないか?」
健にそう言われて俺は思い出した。今日は俺達が愛読している漫画の単行本の出る日だった。
「いいよ、どこで何時に待ち合わせる?」
「そうだなぁ、今日バスケ部は何時に終わる?」
「今日は体育館が使用出来ない日だから、外周走で終わり、サッカーは?」
「ミーティングで終わり、顧問の黒川先生が出張らしい」
「じゃあ、17:00にイルカ公園で」
「ああ、良いよ、じゃあ後でな」
健はそう言うと、急いで鞄に荷物を詰め込んで出て行き、俺も荷物をまとめて教室を出た。
部活を終えて一旦家に帰り、急いで着替えて、健と待ち合わせのイルカ公園に向かった。イルカ公園は住宅街にある公園で、正式な名称は戸山第3公園というが、公園内に通称ジャブジャブ池と言われる小さなプールが整備されていて、そのプール槽の側面いっぱいにイルカのイラストが描かれていることで、住民からは“イルカ公園”と呼ばれている。俺も健も小学校の低学年まではよくイルカ公園のプールで遊んでいた。今はプールこそ使わないが、中学生になった今でもブランコや滑り台で遊ぶことはあるし、待ち合わせや、登下校中にお喋りをする場所として使っている。俺が行くと健はもう公園にいた。健はブランコに乗ってゆっくりと漕いでいた。
「おーい」
俺が入り口から声をかけると健はブランコから飛び降りて、俺の方へ走ってきた。
「待ってたぞ、早く行こう」
俺と健は公園を出ていった。
「買ったら、イルカに戻って読むだろ?」
3階建ての本屋は広く、漫画売り場を目指している途中に健が聞いてきた。
「うん、家より公園のほうが気が楽だし」
「俺んちでもいいけど、今日は妹が友達連れてきてたみたいだし」
取り留めの無い話をしながら2人で売り場を冷やかしながらうろつき、漫画売り場が目の前に近づいた時、俺は思わず立ち止まった。
「おい、奏、どうしたんだよ」
健が俺に話しかけているのはわかったが、それでも俺は動かなかった。
「おい、奏」
「・・・」
「奏!」
「この曲だ・・・」
「はぁ?」
「この曲、なんていう曲なんだ?」
「は?曲って」
要領を得ない俺に健は戸惑っているようで、心配そうに俺の腕をつかんできた。
「今、流れている曲だよ、健、知らないか?」
俺の腕をつかんでいる健の手を握り返した。
「曲って、この曲?」
健は俺に握られている逆の手で天井を指さして聞いてきた。
「そう」
うろたえている俺を横目に健は冷静だった。
「ああ、これ、ショパンだろ、確か、えーと、エオリアンハープだったと…有名じゃないか」
「ハープって?」
「ショパンの有名な曲、確か、えーっと、エチュードだよ、作品25だったと思うけど、奏も聞いたことあるからわかったんだろ?」
「エチュード・・・」
「美奈の発表会で弾いている人がいたな」
ホッとして俺は握っていた健の手を離した、健も掴んでいた俺の腕を離した。
「なんだよ、この曲がどうかしたの?」
「えっと、最近聞いたんだけど、曲名がわからなくて困ってた」
俺の答えを聞くと健はキョトンとした顔をして笑いはじめた。
「なんだよ、おかしなこと言うなぁ、エチュードがわからくても困ることあるか?」
「そうだよな、うん、困ることはないか」
説明が面倒だったし、俺は適当にごまかした。
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