音楽室
第1話
俺と
「
「ああ、今日帰って親にサインしてもらって提出だ」
「まぁ、奏は大学、理系だろ?あとはどこにするかって話題で」
「そうだけど、学部が・・・ね、理系にするか、迷ってる」
「あー憂鬱だ、つい最近、入学したばかりなのに、もう3年で、将来を決めろってか?」
健は目の前に積まれた、大学案内の雑誌を”ドン”と叩いた。
「でも、柳田さんは15歳で将来を決めたんだよな」
「ああ・・・」
俺はその名前に中学時代の光景が頭に蘇ってきた。
「彼女、ずっと向こうに行ってるらしいね」
「ああ、らしい」
俺は生返事をしながら、健に頼まれたノートを出した。
「これ、この間頼まれたノート」
「お、やったー、じゃあさっそく写すから」
健は大学案内の雑誌も、希望調査票も乱雑に押しのけて俺のノートを広げて、自分のノートをバッグから取り出した。
「彼女、よく音楽室で弾いてた」
書き写し始め健の横で俺はなんとなく話しかけてみた。
「そうだっけ?覚えてないなぁ」
答えながらも明らかに興味は無さそうだった。
「合唱部の活動のない日」
「俺は聴いことないなぁ、音楽室って完全防音ではないけど、扉がけっこう厚くて音漏れ程度にしか聞こえないと思うし、というか気にしてなかったんだと思うけどな」
「家にも立派なレッスン室があるのに、なんで音楽室なのかなぁって」
「あんだけ上手けりゃ人前で弾きたくなるんじゃないの?」
「俺も最初はそうかなって思ったけど・・・」
「違うのか?」
健は書き写すのに忙しそうだが、俺の話にも適当とはいえ付き合ってくれる。
「きっと、違ったと思う」
「ふ~ん」
俺はもう一度バッグから進路調査票を出して眺めてみた。
①進学・就職
②四年制大学・短期大学・専門専修学校
③第一志望・第二志望・第三志望
この3つの項目だけで、自分の将来を計画する、確かに迷うというより困る。例えば、柳田さんのような人の選択肢はこの中にない。もし彼女がこの用紙に記入するとしたらどう書くだろうか。
「つまんないから選ばない」
とでも言うだろうか。
「結構な量だなぁ、奏のノートはまとまっているから非常に嬉しいが、これじゃあ、いつまでかかるか」
健はノートをペラペラとめくりながらぼやいた。
「でもコピーして貼り付けるわけいかないだろう、提出なんだから」
「そうだよ、だから慌ててるんだ、これで赤点なんかになったら、進路相談どころじゃない!」
「赤点は大げさだろ、健の成績なら」
「そう思うか?」
「ああ、健こそ、どこの学校にするかってのを決めるだけだろ」
「まあな・・・」
「あーでも、この量はまずい、まずいぞ」
そう言いつつも、健はちゃっかりノート横に落書きをしている。
「おい、落ち着けよ、大丈夫、明日まで貸してやるからさ」
俺は、健の描いた落書きを指さした。
「そうなのか?」
「ああ、今日明日は使わないし」
「やったー、持つべきものは奏だな」
「調子いいな」
「じゃあ俺、写しは夜にして、これから部活いくわ」
「そういや、さっきの話、柳田さんで思い出したけど、合唱部の部長がお前のこと探してた」
「ああ、それさっき後藤からも聞いた」
「後藤が売り込んだらしい、お前が中学の時に指揮のレッスンを受けてたって」
「ひどい誤解だ、いや嘘になるだろ、それは」
俺は健に言ってしかたのない苦情を言った。
「でも、まんざら嘘ではないだろ?」
「いや、立派な嘘だ」
「まぁ、嘘でも誤解でもどっちにしろ、お前はやらないと思うよって、言っといた」
「・・・」
「あれ?やるつもりがあった?」
「いや」
「だろうな、お前、あれっきりだって言ってたしな」
「ああ・・・」
「合唱部も人がいなくて、困ってはいるみたいだけど、俺もお前がもうやるとは思わない」
健は椅子にかけていた制服の上着を手に取り、
「じゃな」
俺に手を振った。
「そういえば」
俺も手を振り替えそうをした時、何か思い出したのか、健は俺の方を振り返った。
「昔の歌に、“放課後の校庭を走る君を教室から眺めていた”っていう歌詞があったな、タイトルは忘れたけど、音楽室でピアノを弾く君を見つめていたって、なんか似てるな」
そう言った健は俺の反応を見ることもなく、図書室を出ていった。
なぜ彼女が家のレッスン室ではなく、学校の音楽室を使っていたのか。特別な自分に悩んでいたから、学校の音楽室でないとダメだったんだ。
たった数か月、俺は今ではもしかしてあの時間は夢だったんじゃないか、と思うくらい現実感のない思い出だ。でも、間違いなく俺はあの夏にいろんな事を知ってしまった。知りたくなかった事も知りたかった事も、大人の世界、大人になるということの意味を。
自分の気持ちに蓋をして、日々を過ごしていた彼女、その気持ちをトレースすること、それがあの時の俺にできる精一杯だった。
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