お触りは禁止でお願いします③
別に社長がどうというわけじゃない。
男性経験が元婚約者だけだった穂乃香は一夜の過ちなど犯したこともなく、どうすればいいかがわからないのだ。
「し、仕事中に困りますっ」
そのせいで即座に返した言葉は蚊の鳴くような頼りないものとなってしまった。
それなのに、穂乃香の心情など手に取るように理解しているとばかりに、くすっと微笑を漏らした社長はなおも甘い囁きで穂乃香の心を惑わせる。
「今は移動中だから許してほしい。いつも仕事モードで武装している穂乃香が隙なんて見せるからいけないんだよ。責任とって穂乃香の香りを堪能させてほしい。そうしないともう限界だ。こんな状態じゃ会議に集中できそうにないよ」
穂乃香が第二秘書として社長に付き従うようになってからというもの、こんなこと一度もなかった。
だから油断していたのだ。
けれどもしっかりと腕に包囲されて、こんなにも切実に熱のこもった甘い美声で乞うように囁かれてしまっては、振りほどきたくとも身動きさえもままならない。
元彼にも交際前に好意を告げられたが、こんな風にあからさまにアプローチされたことなどなかった。
こんなにもハイスペックな男性と縁がなかったのだから尚更だ。
オマケに美声という魅惑のオプションまで付いている。
心理学では、声はその人の印象を決定づける重大な要素で、低い声ほど安心感を与えやすいとされているらしい。
大企業を背負う社長の声には他者を惹きつける威力と説得力がある。
そのうえ、色香まで孕んでいるのだから敵わない。
それらを駆使したハイスペックな極上のイケメンに、不意打ちでこんなにも熱烈に迫られてしまっては、恋愛ごとに長けてなどいない穂乃香に太刀打ちできるはずがない。
初夏の陽光が燦々と降り注ぐ四角い箱は、オフィス同様にぐるりとガラスの壁で囲われている。
特殊な加工を施されているため紫外線はカットされ外部からも見えない構造になっているらしい。
見た目は開放的だが閉鎖された空間。すなわち完全な密室だ。
――何をされるかわかったもんじゃない!
穂乃香があたふたと慌てふためいていると、頭上からくっくと笑みを零す音が降ってきた。
密接している社長の身体からは、甘やかな香りだけでなく微かに震える振動までが伝わってくる。
穂乃香がゆっくりと顔を上げた先には、口元に拳を当てて何かを堪えている社長の顔が待ち受けていた。
必死になって笑いを堪えているようだ。
穂乃香が狼狽える様がおかしくて笑ってでもいるのだろう。
そう思うと無性に腹立たしくなってくる。
さっきまでの羞恥も忘れ、穂乃香は早口で捲し立て社長の身体を思いっきり突き飛ばしていた。
「いい加減にしてください。いくら移動中でも仕事中です。お触りはおやめくださいっ!」
社長の腕からようやく解放された穂乃香は、手にしていたタブレット端末を胸にぎゅっと抱きしめふうと大息をついた。
社長はといえば、「これは失礼」と両手を軽く挙げて謝罪すると、ガラス壁に背中を預けて楽しそうに眇めた瞳でこちらを見つめてくる。
「……仕事中じゃなければ、お触りOKってわけだ」
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