お触りは禁止でお願いします④
だが揶揄うような口調で揚げ足をとられてしまっては、穂乃香だって黙ってはいられない。
これ見よがしにツンとした口調で冷たく言い放った。
「ええ、そうですね。ですが社長とはプライベートでご一緒することなどあり得ませんので」
「……手厳しいな。俺の仕事ぶりを見て少しは見直してくれていると思ったが、まだまだだな。わかったよ。君には今後一切触れないと約束するよ」
「ご、ご理解いただき、ありがとうございます」
どこまでも平行線を辿るかと思われたが、社長は不服そうな口振りながらも意外にもあっさりと了承してもらえ、心底ほっとした穂乃香は胸を撫で下ろした。
しかし安堵したのも束の間。
エレベーターが目的の階に到着する寸前、背後から社長の腕が回され再び抱きしめられてしまう。
……そう思われたのだが、穂乃香の身体には触れずに腕で囲い込んできた。
たちまち社長の甘やかな香りと温かな体温とに包み込まれて頭がクラクラする。
穂乃香の言いつけを守ってはくれているが、これでは身動きがとれない。
すかさず文句を口にしようとした穂乃香よりも先に、社長の落ち着き払った低音ボイスが耳元で甘く囁きかけてくる。
「約束通り、君には指一本触れてはいないよ。これから役員の加齢臭と格闘するんだから、これくらいは許してほしいな」
確かに穂乃香の身体には指一本触れてはいない。
だが触れるか触れないかのすれすれの至近距離。しかも穂乃香より高い社長の体温と香りとに包まれてしまっているのだ。
こんな状態では否が応でも意識してしまう。
おそらく、穂乃香を意識させようとしているのだろう。
社長の好みだという穂乃香の香りを嗅ぐにしたって、嗅覚が秀でている社長ならこんなにも密着する必要なんてないのだから。
ーー思い通りになんかならないんだから!
などと抗おうにも、ドクドクと高鳴ってしまう鼓動を自分では制御できない。焦れば焦るほど羞恥に襲われ顔どころか全身に熱が及んでしまう。
きっと耳まで真っ赤になっているに違いない。その事に社長が気づいていないはずがない。
絶対にまた揶揄ってくるに決まってる。そう思うとふつふつと怒りが込み上げてくる。
そんなタイミングで穂乃香の耳を社長の熱い吐息が掠める。知らず穂乃香は甘い声を零してしまっていた。
「やっ、あん……ちょっ、耳に息吹きかけるのやめてくださいっ!」
社長の言動に右往左往する穂乃香の様子を実に愉しそうな表情で今一度見遣った社長は、小憎らしいほどに端正な相貌をふっと綻ばせた。
「真っ赤になって恥じらう穂乃香が可愛くて……つい。悪かった」
悪戯っぽくも甘い眼差しと柔和な笑みを向けられただけで、胸がドキンと高鳴ってしまう。
「……へ? い、いえ」
声が裏返ったもののどうにか謝罪を受け入れた穂乃香は、意図せず高鳴ってしまった鼓動の音が社長に聞こえやしないかと案じていた。
対して社長は、穂乃香に赦してもらえたのが嬉しいのか、とびきりの笑顔を湛えて甘い声音を弾ませる。
「穂乃香のおかげで会議も気の重い会食も頑張れそうだよ、ありがとう」
外から差し込んでいる陽光のせいか、ただでさえ優美な微笑がキラキラと煌めいて見える。
「じゃあ、行こうか」
「あっ、はい」
不覚にも穂乃香が見目麗しい社長の微笑に見蕩れてしまっている隙に、社長はさっさと扉を開閉させるとフロアに降り立ち颯爽と歩みを進めていく。
上質なオーダーメイドのクラシカルなネイビースーツに身を包んだその後ろ姿には、貫禄もあるが、色香と気品が漂っていて、実に様になっている。
あたかもこれから『仕事のデキる大人の男』をテーマにしたファッション雑誌の撮影にでも臨むメンズモデルのよう。
出遅れてしまった穂乃香は、高鳴ってしまった胸を鎮めるような暇も与えられぬまま、慌てて社長の背中を追いかけた。
ーー今夜は取引先との会食だってあるんだから、しっかりしなきゃ。
会議室までの道中。穂乃香は仕事に頭を切り替えるため、心の中で自身にそう言って何度も言い聞かせていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます