お触りは禁止でお願いします②


 もうすぐゴールデンウィークとあって、いつもは静かで落ち着いた雰囲気を醸し出している秘書室の面々もにわかに浮き足立っている、ように見受けられる。


 職場にもすっかり馴染んでいる穂乃香も例に漏れず、頭の中はゴールデンウィーク一色となっていた。


 普段学業とバイトに勤しんでいる弟の樹に何か美味しいものでも食べさせてあげよう、と密かに計画を練っていたから。


 ――やっぱり焼き肉がいいかしら。


 などと呑気に思案していた穂乃香の思考と耳に、ふいに心地良いバリトンボイスが割り込んでくる。


「穂乃香が仕事中に考え事とは珍しいな。雨でも降るんじゃないか」


 その声で現実に引き戻された穂乃香がハッとし顔を上げると社長の端正な顔が思いの外近くに迫っていて、危うく心停止するところだった。


 午後一で開かれる会議に出席するためエレベーターで社長と一緒に移動中なのだが。


 ガラス張りの壁に背を向け扉の近くに立っていた穂乃香は、正面から迫ってきた奏によって壁に追い込まれていた。


 いわゆる壁ドンの体勢で両手を壁についた社長に包囲されてしまっている。


 驚かないわけがない。


 こんな状況に置かれて平然としていられる人間がいたならお目にかかりたいくらいだ。


 ーーな、なんなの急に。心臓麻痺で死んだら労災で訴えてやるんだから!


 ドクドクと加速する鼓動を何とか鎮めようと心の中で悪態をつきつつ、社長の胸を押し返した穂乃香は謝罪の言葉を紡ぎ出すのが精一杯だった。


「も、申し訳ございませんっ」


 何とか社長から距離をとろうとした穂乃香の抵抗も虚しく、社長の身体が穂乃香の身体に覆い被さるようにしてぐっと眼前に迫ってくる。


 驚いた穂乃香が条件反射で身体をぎゅっと縮こめた時には、社長にふわりと包み込まれてしまっていた。


 途端に、特殊な嗅覚故に香水などつけていないにもかかわらず、社長の纏う甘やかな香りと温かな体温とに包み込まれた穂乃香の鼓動は、もはや尋常ではない速さで騒ぎ始めてしまっている。


 そこにバリトンボイスで奏でられた甘やかな声音が耳朶を擽ってくる。


「謝罪なんて必要ない。代わりに穂乃香を補充させてくれないか?」


 同時に腰をぐっと引き寄せられ、彼の身体と密着した穂乃香の下腹部が甘く切なく疼いてしまう。


 あの夜の記憶はないのに、身体が示す反応が確かにあの夜社長と一夜を共にしたのだと物語っているようで、それがどうにも恥ずかしくて仕方ない。


 またその時の記憶を呼び起こしてしまいそうで、それがなにより怖くて堪らなかった。


 今は記憶がないから社長と普通に接していられるが、思い出してしまったら穂乃香には平静でいられる自信などない。


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