じいちゃん(後編)





 

「りおちゃん!」



 

 叫ぶような声と肩を揺らされている感触で、私は目を覚ましました。重い瞼を開けると、目の前には母が、心配そうに此方を見つめている姿がありました。

 


「どうしたの、汗びっしょりじゃない」


 

「熱でもあるの?」と額を触る母に、私は先程の言いようのない恐怖や不快感が、スッと抜けるような気持ちになりました。そして夢から覚めたことへの安心感が、私を包み込みます。


 

「熱はなさそうね……とりあえず、お風呂入っちゃいなさい。母さん、もう寝るからね」

「……うん、分かった」


 

 私はトボトボとお風呂に入った後、電気を付けたまま、ベッドへ再び潜りました。しかし、先程の夢をまた見るのではないかと、恐怖で寝付けられませんでした。



 やることもなく、スマホで動画配信サイトを漁っているうちに、カーテンから朝日が差し込んでいました。眠たいけれど眠れない、瞼を擦りながら1階に降り、キッチンに向かったら、私はいつものように朝ごはんのシリアルをシャカシャカお皿に入れました。すると、母が私の顔を見て「あんた、隈が酷いよ?」と心配そうに声をかけてきました。私は、昨日見た夢のことを話そうかと思いましたが、やめました。


 

 祖父のことをよく思っていない母に、こんな話をしても、顔を顰めて「ただの夢でしょ」と吐き捨てられるだけだと思ったからです。


 

 しかし、夢の中の祖父は、毎夜必ず現れました。そして変わらず「ぴぴっ」という不快な甲高い声をあげながら、此方に向かってくるのです。気持ち悪くて、とにかく離れようと必死に逃げても、やはり距離は変わらず、私の息が上がるまで、躓くまでの鬼ごっこが延々と続くのです。


 

「言いたいことあるなら、はっきり言えよ……!」


 

 私は息が上がりながらも、悪態を吐きます。

祖父には聞こえていないようでした。そして、相変わらずぴっぴっと鳴きながら追いかけてきます。何処かで聞いたことがあるような音、私は走りながら耳を塞ぎ「うるさいうるさいうるさい!!」と叫びます。その際に両腕を使わずに走ったため、案の定躓き、そして


 


「ぴぴっ ぴっぴっぴっぴっぴっ」



 

 とても歪な笑みで、私を見つめている姿を最後に、また夢から覚めました。

 

 

 

 ゆっくりと眠ることが出来ない日々が続く中で、皮肉にも祖父の四十九日がやってきました祖父がいた頃は閑散としていた実家が、今では親戚一同が集まり笑い合っています。従姉妹の子どもたちがキーキーと子ども特有の声を上げながら、机にシールをペタペタと貼っています。それに対し怒鳴りながら怒る従姉妹に、お母さんになったな、と一抹の寂しさを感じながらも、急須にお茶を注ぎ、親戚に配っていると、母が「あんたは2階で寝て来なさい」と私のお盆を奪い取りました。それを聞いていた親戚の叔母たちが「やだ、寝不足?」「よく見たら隈が浮かんでるじゃない」と心配そうに声を掛けていきます。


 

「あはは、夢見が悪くって…」

「どんな夢なの?」

「……えーと、」


 

 私はチラッと母を見て、様子を伺いました。くどいようですが、母は祖父に対して良い思いは抱いていません。そのため、夢の話でも、あまり聞かせたくなかったのです。けれど、母はいとこの子どもたちに飲ませるジュースがないと慌てて出掛けようとしていました。これはチャンスだと、私は叔母たちに祖父の夢の話をしました。



 

「だから最近、全然寝れてなくて……」


 


 私は真剣に祖父の話をしました。真っ白な世界、甲高い声で鳴きながら追いかけてくる祖父について、一生懸命伝えました。



 けれど……私の話し方が悪かったのでしょうか?皆の反応は、思っているものと違ったものでした。



 

「えー、何その、ぴぴっ、て!あれみたい、何だっけ?尺八様?」

「ちょっと、その話は、ぽぽぽって奴でしょ?確か、背の高い女の話よね?」

「尺八だっけ?何か違うんじゃない?」

「即尺?笑」

「ちょっと、やめてよー!」


 

 笑い声が居間に響きました。何だ何だとタバコ休憩をしていた親戚の叔父たちも、話に混ざろうとしています。

 私は引き攣った笑みを浮かべながらも、何となく、こうなる事は分かっていました。血は争えない、此処にいる人たちは、祖父の血縁者たちでした。あまり、こんなことを言うのは嫌なのですが、なんというか…心の機敏に、疎いと言うのでしょうか?まあ、要は良くも悪くも、人の顔色を伺えないのです。自己中心的な祖父と同じように。



 私は輪からそっと抜け出し、仏間に避難しました。あまり、祖父の遺影を見たくはありませんでしたが、それ以上に、話したい人物がいたからです。線香の独特な匂いが漂う中、座布団の上で数珠を持ちながら手を合わせ、ただ1人、祖父のために祈り続けるその人は、私を見て「何か、あったのかい?」と顔を皺くちゃにしながら笑いかけてきました。


 

「ばあちゃん……」


 

 祖母は、私の隈を触りながら「あまり、眠れてないんだね」と心配そうに言いました。その一言に、私の涙腺が決壊し、しゃくりをあげて泣きながら、今までのことを話しました。祖母は黙って、私の話を聞いてくれました。


 

「……ごめんね」


 

 祖母の反応も、想像とはまた違ったものでした。私の手を摩りながら、謝ってきたのです。何度も何度も。


 

「なんで、ばあちゃんが謝るの?」

「…あの人は、いつも死ぬことを恐れていた」


 

 ……それについては、嫌と言うほど知っていました。肺癌が見つかったら、真っ先に煙草をやめた祖父、当たり前だと思うでしょうが、どれほど家計が苦しくても、煙草の税金が跳ね上がっても、あの人は煙草を咥えていました。 だからこそ、癌が見つかっても、変わらず吸い続けると思っていたのです。


 

 しかし、実際は煙草をあっさりとやめました。そして、抗がん剤治療に予約など無視して朝一で赴き、腫瘍マーカーが上がっていないか確認してくれ、採血してくれと、いつも看護師さんに迫っていました。生への執着、死への恐怖心、終末期になっても、延命処置を望んでいるような人でした。

 


「じいちゃんが、死んだら何処に行くんやって言ってた。私、何にも答えてあげなかった……それが、駄目だったのかなぁ……」

「それは、私も答えられないよ」


 

「……生きていたら、誰にも答えられないよ」と、祖母は私の頭を撫でながら、諭すように言いました。


 

「死んだら、何処に行くんだろうね。みんなみんな、何処に行っちゃったんだろうねぇ……」

「……そんなの、分かんないよ」


 


 私は祖母の胸に額を押し寄せながら、呟きました。祖父に言ったことと同じ、けれど、それは、祖父のようにどうでも良いからではありません。祖母には、まだ、其処には行かないで欲しいという、一種の祈りでした。


 

「ばあさんはね、蓮が沢山咲いている場所に行きたいんだよ。それで、蓮の上で釣りしたり、池の中を覗いて、りおちゃんたちが成長して行く姿を見ていたい」

「……上から見るよりも、横から見た方が楽しいよ?」

「ふふ、そうねぇ」


 


 そんなこと言わないでよ、と言いたい気持ちを押し殺し、私は懸命に笑いました。祖母はきっと、全て分かっているでしょうが、何も言いませんでした。ただ「今日は一緒に寝ようか?」と尋ねて来ました。私は俯きながらも、黙って頷きました。そして、母が仏間に来るまでずっと、祖母の隣にいました。祖母からは線香の匂いがしました。「まんまんちゃんあーんしようね」と、夜ご飯を食べる前は祖母と必ず仏間で手を合わせた思い出。祖母に抱きついたら、いつも線香の匂いがしていました。その安心した匂いが、今では苦しくて仕方ない。線香の匂いと共に祖母から漂う、何とも言えない臭いが、祖母の命の期限を知らしめるのです。


 

 コンビニから帰ってきた母に、突如、今日は此処に泊まりたいと言うと、驚きながらも、何かを察したのか「じゃあ、母さんも泊まろうかな。あ、泊まり道具を持って来なくちゃね」と言いながら、買ってきたジュースをコップに注いでいました。


 

祖母と一緒に寝るなんて、いつ振りだろう?と思いながらも、私は電気を消しました。…電気を消すなんて、いつ振りだろうかと思いながら、私はチラッと祖母の顔を見ました。祖母は疲れていたのか、直ぐに寝息を立てて寝ていました私も、今までの寝不足と祖母が隣にいる安心感からか、いつの間にか重い瞼を閉じて、眠りに落ちていました。


 

 目覚めると、もう何度も見た真っ白な世界が目の前にありました。遠くには祖父が居て「おーい!」と叫んでいます。ああ、やっぱり来てしまった。私は拳をぎゅっと握りしめた後、無言で走り出しました。どうせ、逃げても意味ないけれど……夢の中で捕まったらどうなるか、想像しただけでも恐ろしかったのです。


 

 祖父は、私が逃げたと同時に「ぴぴっ」と不快な声で鳴き、追いかけて来ます。いつもの望んでいない鬼ごっこ、決して、私が勝つことのない遊び、それでも、息が上がっても、脚が疲れてきても走り続けました。



 けれど、ふと思ってしまったのです。私はずっと、この夢を見続けるのだろうか、いつまでもいつまでも、この気持ち悪い笑みを浮かべる祖父に、会って、追いかけられて、捕まったらどうしようと、震えながら日々を送らなければ、いけないの?と。

 



 込み上げて来たのは、恐怖ではなく怒りでした。


 

 

「いい加減にしてよ!いつまでも追いかけて!!」



 

 吐き捨てるように言った言葉。私は脚を止めて祖父に向き合いました。祖父は歩みを止め、笑みを浮かべたまま、じっと此方を見つめています。


 

「あんた自己中なんだよ!生きてからも死んでからも、自分勝手のろくでなし野郎が!大人しく死ねよ!五月蝿いんだよずっとずっと!!」


 

「うるさいうるさいうるさい!」と私は頭を掻きむしりながら叫び続けました。生きてからも死んでからも私を蝕み続ける祖父、痛い苦しい痒いと五月蠅かった祖父、なのに決して、死にたいは言わなかった祖父、全てが煩わしくて鬱陶しくて仕方がなかったのです。

 


 暫くの沈黙と、私の荒い吐息だけが聞こえる空間、あまりにも静かな祖父と、いつまでも覚めない夢に何かがおかしいと思い視線を上げると


 

 


祖父は笑っていました。

それはそれは嬉しそうに、笑っていました。




 

 ……そうか、返事をしてはいけなかったんだ。祖父は、ずっと待っていたんだ、私が返事をするのを、だから、追いかけていたんだ。


 

 

 夢は覚めません。祖父は笑っています。口を開けて笑っています。いつもの鳴き声ではなく、ただ笑っています。



 

 祖父の枯れ枝のような腕が、私の頭を鷲掴みます。昔は直ぐに振り解けたのに、今はどんなに力を入れても、ピクリとも動きません。嫌だ、怖い、誰か助けて……叫びたいのに、恐怖で喉元が引き攣り出来ないのです。




 冷たい手の感触が、私の中に入ってくる。入ってくる。入ってくる。やだ、入ってくる。やだやだ入ってこないで、入らないで、入らないで、入らないで入らないで


 

 

「おやめなさい」


 


 ぴしゃりと、子どもを叱るような声が聞こえました。

目の前には、此処にいる筈のない、祖母の姿がありました。何故、と考える暇もなく祖母は淡々と、しかし怒りを滲ませた声で祖父に話し続けます。



「こんなところにいないで、早くいきますよ。ほら、早く」

「……ばあ、ちゃん?」

「ごめんねぇ、りおちゃん。大丈夫、もう大丈夫だから」

「…何を、しようとしてるの?」


 

「ばあちゃん…?」と、震える声で尋ねますが、祖母は何も言いません。ただ、私の頭にあった祖父の腕を掴んで、歩き出しました。祖父は何も言わず、なすがままでした。とても嫌な予感がした私は、追いかけようとしますが、腰が抜けたのか思うように身体が動きません。


 

「っ!ばあちゃん……!!」


 

 せめてと精一杯叫びますが、祖母は振り返り笑いかけてくれるだけで、何も答えてはくれません。満足気な瞳、これで良かったのだと言ってるような視線に、私は目に涙を浮かべながら2人が去って行くのを、黙って見ることしか出来ませんでした。真っ白な世界が、暗闇に侵食されていき、2人は何処に繋がっているかも分からない道を歩いていきました。何処に行くのかなんて、きっと、2人も知らない筈なのに。


 


「ばあちゃん!」




 目が覚めると、朝日が昇っていました。

良かった、夢から覚めたんだ、という安心感。額の汗を拭いながら、そうだ、ばあちゃんは?と隣を見ると、祖母は安らかな顔をして眠っていました。



 

 良かった、やっぱりただの夢だよね、と息を撫で下ろすと、下から「ご飯出来たよー!」と母が私たちを呼ぶ声が聞こえました。ああ、もうそんな時間なんだ、と私は祖母の肩を揺らしながら「ばあちゃん、ご飯だって」と起こそうとしました。けれど、どんなに肩を揺らしても祖母は起きてくれません。



 

 祖母は、息をしていませんでした。



 

 その後のことは、本当に記憶が抜け落ちたように、何も覚えていません。ただ、周りが酷く煩くて、かといったら段々と静かになって、そう、後は、みんな、泣いていました。



 

 祖母の御葬式は、とても華やかなものでした。家族や友人、近所の人たちの供花で彩られた祭壇の前で、御坊さんたちがお経を唱えています。祖父とは正反対の御葬式。

 思わず笑ってしまいました。息を吐きながら変な笑い方をした私を見て、気が触れたと思ったのでしょうか?母が私に退席するように促します。けれど、そんなことはどうでも良かった。あの時の、祖父への答えが分かってしまったから。

 



「結局、何も変わらないんだ」



 

 誰よりも嫌われていた祖父と、誰からも愛されていた祖母、けれど、逝くべき場所は変わらなかった。どんなに悪いことをして独りぼっちで死んでいっても、どんなに愛され惜しまれ死んでいっても、結局は同じ場所へ逝くんだ。




 私は手で顔を覆いながら笑いました。不思議と涙も出て来て、なんだか私、ぐちゃぐちゃだなって思いながら、自分の感情の整理も出来ないまま、笑っていました。



 

 最後に、祖母の顔を見ながら私は少し枯れた百合の花を添えて「ごめんね」と謝りました。そして、祖母の顔が見えなくなるまで、ずっと見つめていました。




 

 

 あれから、私は夢を見なくなりました。






 

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