じいちゃん
辰砂
じいちゃん(前編)
「死んだら、何処に行くんや?」
真っ白な病室で、祖父は私に話しかけてきました。
夏の蒸し暑さなど感じられない空調の部屋は、何処か無機質さを感じさせました。日常生活と切り離されているような部屋の中で、スマホに夢中になっていた私は、祖父の話を右から左へと聞いていたため「んー?」と間延びした返事をしてしまいました。暫くの沈黙の後、祖父を見ると、鼻に酸素チューブを付けながら、はあはあと息をしていました。
余命1ヶ月、末期の肺癌でした。枯れ枝のようなか細い腕には、点滴が繋がれていました。あまり詳しくは知りませんが、痛み止めの薬を入れているそうです。なんでも、医療で使われている麻薬だとか。麻薬を使わないと、祖父の息苦しさは改善しないとのことでした。
こんな屑な人に使わなくても良いのに、と思いながら、私の答えを待つ祖父を見ながら、先ほどの問いについて考えました。けれど、すぐに止めました。
死んだら何処に行くかなんて、死んでみないと分からないじゃん。
「何処に行くんだろーね」
周りから見た私は、きっと酷い孫でしょう。いつ死ぬかも分からない祖父相手に、こんな適当な対応をして、すぐにスマホのゲームで頭が一杯になるのだから。
けれど因果応報とはまさに、この祖父の人生を表す四字熟語でした。浮気、賭博、言葉の暴力、家族に行った悪行は数知れず、誰もが祖父を嫌っていました。私の母親を含め、兄弟たちは誰も近付くことはおろか、実家にも寄りつきません。母親もよく「母さん、何で離婚しないの?」と祖母と話していました。そんな祖父の最期が、煙草の吸いすぎによる肺癌とは、何とも呆れたものでした。当たり前ですが、誰も見舞いには行きたがらず、かといって放っておいたら、夜中に「おーい!おーい!」と叫ぶ始末、その事情を看護師さんから聞いた時は、頭を抱えました。
初めは、祖母が病院に泊まると言いました。しかし、祖母も膵臓癌で抗がん剤治療をしていました。私はおばあちゃんっ子だったため、そんな祖母に無茶をさせる訳にはいかないと決意し、私が行くと挙手しました。
けれど、この我儘な祖父は、やれ「背中が痒い」だの、やれ「息が苦しい」だのと五月蝿いのです。確かに、肺癌で苦しいことは重々承知しています。けれど、やはり微塵も愛情のない相手の我儘は、殺意しか湧きません。
「息が苦しい、りお。苦しい」
「……今、看護師さん呼ぶから待って」
「早くしてくれ、苦しい」
「はいはい」
私は祖父の手元にあったナースコールを押しました。しかし、中々来てはくれません。忙しいんだろうな、とナースコースを待ちながらも、スマホのパズルゲームをしていた私に、祖父は今にも折れそうな手で、私の腕を掴み叫びます。
「早くしてくれ!」
「ナースコール押したって!」
胃がムカムカするのを抑えながら、祖父の腕を振り解きます。なんで私、こんなことしてるんだろ、SNSを見ると、みんな何処かに行っています。夏休みを満喫しているのです。なんで私だけ、季節を感じられない部屋で、好きでもない祖父と2人きり……馬鹿みたい。
私たちの言い争いを聞いていたのか、コンコンコンと、控えめなノックが部屋に響きました。そして、私たちの返事も待たずにドアが開きました。
今日、祖父を担当する看護師さんでした。ぺこぺことパソコンを運びながら入ってきた看護師さんは、いかにも気が弱そうな新人さんでした。大方、お局様に面倒臭い患者を押し付けられたんだろうな、という事が嫌でも分かりました。
「すいません、忙しいのに…ちょっと、祖父が息が苦しいらしくって」
「あ、そ、そうですよね、あの、痛み止めの量、上げますね。えっと……」
「ありがとうございます」
看護師さんはそう言って、パソコンを見ながらぶつぶつと「呼吸困難感がある場合の指示は…」と何度も確認しながら、祖父に繋がれている点滴の機械を設定し直します。それを見ながら、へえ、そうやって量を上げるんだと、横目に見ながら「じいちゃん、痛み止め増えるよー」と祖父に話しかけました。
「まだ苦しい、まだ」
「痛み止めがすぐ効くわけないじゃん。ちょっと待ちなよ」
「早くどうにかしてくれ!」
思わず舌打ちしそうになりそうなのを、ぐっと拳を握り我慢しました。一部始終を見ていた看護師さんが「すいません、医師の指示では、これが限界なんです。すいません」とペコペコしながら謝り倒し、逃げるように何処かへ行ってしまった。……ということは、これ以上は麻薬が使えないってこと?じゃあ、ずっと祖父は五月蝿いままではないか、と私は、慌てて看護師さんの後を追いました。
「すいません、これ以上増やせないんですか?痛み止め……」
「あ、その、すいません。今使っている薬は、ええと」
そう言って、看護師さんは、ぱんぱんに詰まったポケットからメモ帳を取り出し、パラパラと捲り出しました。
「あ、あった。えっと、今使ってる麻薬は、呼吸困難感を抑える薬なんですけど、使い過ぎたら逆に呼吸回数が減って、息が止まる可能性があって…」
看護師さんが必死に説明している最中に「芳野君いるー!?」と声が聞こえてきました。看護師さんは肩をビクっと揺らし、慌ててパソコンを運びながら、何処かへ行ってしまいました。
病室に戻ると、祖父は寝ていました。先程までの騒がしさが嘘のように、口を大きく開けて眠っていました。その寝顔に、腹立たしさしか感じませんでした。
大丈夫、少しの我慢、もう直ぐしたらこの人は死ぬ、長く持っても、後1ヶ月の命だから。だから大丈夫。秋になったら、元の日常に戻れるから大丈夫。……疲弊した心を鼓舞し、私は祖父が食べたいと言ったかき氷を買いに、コンビニへ行きました。
けれど、1ヶ月も持ちませんでした。
祖父は1週間後に息を引き取りました。
呆気ない最期、祖父は大きな口を開けて死にました。
私は意外と落ち着いていて、とりあえず看護師さんを呼ばないと、とナースコールを押して、こんな顔で御葬式は可哀想かと、死後硬直が始まる前に口を閉じました。
やって来た看護師さんは、ぺこぺこしながら早足で来てくれました。そして「せ、先生に報告するので、お待ち下さい…!」と震える声で言いました。あまりの慌てように思わず「ゆっくりでいいですよ」と声を掛けてしまう程
でした。
とりあえず、祖母や母、親戚に連絡しましたが、やって来たのは祖母だけでした。祖母はヨタヨタと歩きながら、ゆっくりと祖父に近付き「今までありがとうね」と手を摩っていました。何にもされてこなかったじゃん、と言いたかったですが、どんな形であれ、この2人は夫婦だったんだろうな、と思い何も言いませんでした。
15分程経って、ようやく先生がやって来ました。少し若そうな、主治医ではない先生でした。先生は祖父の繋がった点滴を見て「早く抜いてください」と看護師さんに指示していました。すると、点滴が繋がっている機械を見て、ほんの数十秒でしたが、まるで時が止まったかのように、固まってしまいました。そして、何か言いたそうに看護師さんをチラチラと見ていましたが、気を取り直すかのように咳払いをし、目の状態や胸の音を聞いたりとかして祖父が亡くなっていることを確認していました。
その後のことは、よく覚えていません。事務手続きなどは全て親戚の人たちがやってくれました。通夜や御葬式の準備も、全部してくれました。何か手伝おうかと聞きましたが「今までやってくれたからね、ゆっくり休んで」と座らせられました。彼等なりに、孫娘1人に祖父を押し付けた罪悪感が働いたのでしょう。
御葬式は、とても素朴なものでした。供花が一輪もない、御坊さんも1人しかいない、寂しい御葬式でした。
「あれ、じいちゃんって、こんなに老けてたっけ?」
「あんたが入れ歯入れずに、口閉じちゃったからでしょーが」
「あ」
結構なやらかしをしてしまったのでは?と思いましたが、誰も気に留めてもいませんでした。お坊さんがお経を唱えている時も、供花を入れる時も、誰も泣かない、ただ祖母だけが、祖父が安らかに眠れることを祈っている御葬式でした。
火葬場に赴き、祖父が火葬鈩に入って行き、祖母が扉を閉めるボタンを押しました。重々しい扉は徐々に閉まっていきました。そして、火葬場から出た後、黒い煙がモクモクと天に向かっていました。その時、全てが終わったのだと、肩を撫で下ろしました。
御葬式が終わり、家に帰ると、私はそのままベッドに横になりました。安心感か、私は直ぐに、深い眠りに落ちました。
気付くと私は、真っ白な世界にいました。
何もない、まるで病室が辺り一面に広がっているような世界に、不快感を覚えました。そして、これが夢であることは直ぐに分かりました。遠くで、祖父が「おーい!」と手招きしているからです。
私は一気に嫌になりました。やっと解放されたと思ったのに、と恨みがましく睨みますが、祖父は此方の様子に気付くことなく、延々と私を呼び続けています。息苦しさから解放されているからでしょうか?何にせよ、夢の中にまで現れないでよ、と私は踵を返しました。
すると
「ぴぴっ」
変に甲高い、祖父から聞いたこともないような声が聞こえ、思わず振り返ります。
祖父はニコニコと、生前では見せなかった笑みを浮かべています。口元がやけに上がったまま、また甲高い声で一方的に音を発します。
「ぴっぴっぴっぴっぴっぴっ」
「ぴぴっ」
「ぴっぴっぴっぴっぴっぴっ」
「ぴぴっ」
「ぴっぴっぴっぴっぴっぴっ」
「ぴぴっ」
「ひっ…!」
なんだあれ、なんだあれ!と私は祖父から離れようと必死に逃げます。しかし、一向に祖父との距離は離れませんでした。泣きそうになりながら、これは夢だ、これは夢だ、覚めて、覚めて、覚めろ覚めろと祈りながら、走りますが、一向に夢から覚める気配はなく、恐怖で涙が溢れて来ました。
とうとう私は躓き、転んでしまいました。
痛みなどなく、ああ、やっぱり夢だ、これは夢なんだと、起き上がり、顔を上げると
「ぴぴっ ぴっぴっぴっぴっぴ ぴぴっ」
目の前の祖父は笑っていました。
とても歪な笑みで、じーっ…と、此方を見ていました。
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