星空

多川亮一が雉山村を離れてから、季節が流れ、冬になっていた。

もう年の瀬だった。多川は、マンションのベランダから夜空を眺めていた。彼は、再び、証券会社に勤めていた。以前の会社より規模は小さいが、内実の良い会社だった。配属された支店のある街に住んでいる。知らない街だった。マンションに部屋を借りる時、ベランダに出て外の様子を確かめた。向かいにマンションが立ちはだかって、夜、男が煙草を吸う光景を見せられる可能性はないと分かった。そして、彼は部屋を借りた。


夜空を眺めていた。冬の夜空は空気が澄んで、星の瞬く様がはっきりと見えた。多川はベランダに出ていた。空気は冷え、気温は下がっていたが、彼は気にせず星空を眺めていた。


雉山村のことを考えていた。

宇都木祥三は村を離れただろうか? 彼の中に村を離れたいという気持ちはずっとあった。しかし、移り住む場所があるのか? 仕事はどうする? 現実的な問題から、村を離れられないかもしれない。それならば、仕方がない。しかし、これまでとは違う村の生活になっているはずだ。彼のことを村人は敬遠していた。それは事実だ。しかし、宇都木が村人を寄せつけなかった面もある。亡くなった長男への贖罪意識に加え、村人からの疎外を自己への罰と捉える、ある種の「独善性」が、村人を寄せつけなかった。尾崖で泣いた時、宇都木はそのことに気づいた。彼はもう、これまでの彼とは変わった。村人との間にも自然に交流が生まれているはずだ。


北杉澄江に、和道が藤代の養子になりたいと思っていると言ったことには、何の根拠もない。もしかしたら、和道が心のどこかでそう思っていたとしても、それは、居心地の悪い今の生活から逃げたいという漠然とした思いだろう。しかも、多川は和道のことを深く知らないし、確かめてもいない。そして、何より、多川が祖父母に引き取られた時、友だちの家の養子になりたいと話したことは、全くの嘘だった。彼は祖父母の元で、ようやく、落ち着いた暮らしができることに安堵したのだ。他家へ養子にいきたいなどと思うはずがなかった。


では何故、澄江にあんな話をしたのか? あの時、多川は北杉澄江を見ていて、彼女が、母の曉子と同じ心の有り様であることに、改めて、気づいた。澄江は母と同様、勝ち気で、強気なことばかりを口にする。しかし、実際には、その心は脆く、ちょっとしたことにも狼狽える。だから、多川は、あんな嘘をついた。案の定、澄江は、和道が自分を嫌って、藤代の養子になりたいのかもしれないと動揺した。


多川は、あのまま村にいても、北杉澄江と和道のことに深く関わることはしなかった。問題は、澄江がどうするか? 北杉家の人たちがどうするか? なのだから。多川は、澄江を見ていて思い出した。彼が祖父母の家の裏に置き去りにされる直前、ドライブインに寄った時のことを。

母は、多川にハンバーガーの味を訊いた。

「あんた。それ美味しい?」

そして、彼が首を横に振ると無邪気に笑った。


母は、これから数十分後に、自分の子どもを祖父母の家の裏に置き去りにして逃げる。そのことを父から聞かされてはいた。しかし、それがどれだけ深刻なことなのかについて、考えていなかった。母は、恐ろしく迂闊だった。きっと後になって、犯した罪の大きさに気づいて慄いていたはずだ。北杉澄江も同じなのだ。彼女も、和道が自分にとってどれほどの意味と価値を持つ存在なのかを忘れていた。和道を雉山村の実家に引き取らせた上で、再婚した場合、それが現実に、和道の心に、そして、澄江自身の心に何をもたらすのか? 彼女は全く考えていなかった。彼にはそれが分かった。だから、澄江に“揺さぶり”をかけたのだ。その結果、澄江は和道という存在の意味をようやく理解した。当事者ではない彼にできることはそこまでだった。しかし、母に似た澄江の性格をよく知る自分だからこそ、できたことだと思った。この後のことは、上手くいくことを信じるしかないと思った。


母の曉子のことを改めて考えた。どこにいるかは分からないが、母は生きている。彼の記憶の中の母は、若く美しかった。母はそれが自慢だった。あれから長い歳月が流れた。随分と変わったのだろうと彼は思った。しかし、母の記憶が、あの日で止まっているため、今の母を想像することが彼にはできなかった。それから、彼は思った。これから後、母に再会する機会が訪れる場合、それは父と同じく母が最期を迎える時になるのだろうか? 多川は、ふと寂しくなった。


多川は、父のことを考えた。A病院で父の死後、看護師から教えられた。父の状態が悪くなった時、誰か連絡の取れる親族はいないかを尋ねると、父はすぐに、「ここが一人息子の勤め先だから、電話番号を調べて欲しい」と証券会社の名前を言ったということだった。かつて、父は祖父から聞いたのだ。それにしても、よく忘れずに覚えていたと多川は思った。


その時、父が最期についた嘘について、ある考えが、頭をよぎった。父は多川を突き飛ばして逃げたことを後悔していたということだった。あの時のことを過ちだと思っていたからこそ、父は、嘘で過去を塗り替えた。せめて、祖父母に母とともに頭を下げて、多川を預かってもらったことにしたかった。父は、あの日以降、ずっと後悔していたのかもしれない。犯した過ちを忘れるほど嘘を自分に言い聞かせてきた。その結果、最期を迎えるあの時、突き飛ばされた多川にさえ、嘘を語って死んでいった。だとしたら、父の中では、もう嘘が真実になっていたということだ。多川は、父を憐れに思った。愚かに思った。それから、激しい怒りが湧いてきた。思わず、大声を出しそうになった。しかし、彼はその衝動を抑えた。


彼は常に感情を抑制する。父の嘘に直面した時、そして、尾崖でもそうだったと彼は思った。そして、それはストイシズムとは別のもう一つの自己規律だった。雨に打たれて、高熱を発している時、その体調に抗ってまで、彼は宇都木と北杉澄江を説得した。結果的に、彼自身の危機的な状況が、切迫感となり、二人を説得するための効果を増したかもしれない。しかし、冷静に考えれば、二人を説得するよりも、山を降りて体調を改善すべきであった。だが、多川は、そうしなかった。発熱したと告白することは、彼の中では、弱音を吐くことを意味した。多川にとって全ての弱さは、抑制される、あるいは、克服される対象だった。健全な思考とは言えない。しかし、子どもの頃から、孤独に生きてきた彼にとって、弱い自己に打ち克つということは、普通に生育した人に比し、遥かに切実なことだった。誤謬があろうとも、彼は、それを「克己心」として捉えていた。尾崖でも、その克己心により、あのような振る舞いになったと彼は思っていた。しかし、父の心の中にあった後悔の念に気づいた、今、彼は、それは、ただ、やせ我慢を繰り返してきただけだったのではないかと思った。自分を捨てた両親に負けたくないという、その思いだけで、生きてきたことに気づいたのだった。そして、それは、とても窮屈な生き方だったということにも気づいた。


もう少し、肩の力を抜こう。

もう少し、喜びを感じられる生き方をしよう。

多川亮一は、冬の澄んだ星空を眺めながらそう思った。 



ご愛読いただきありがとうございました。

本作品にて今年の作品公開は終了させていただきます。

来年は一月中の再開を予定しています。

引き続きよろしくお願いします。

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星空の下の物語 三上芳紀(みかみよしき) @packman12

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