崖
多川亮一は、A病院から村に帰ると寝込んだ。A病院で、精一杯、常識的な振る舞いをした疲れが出た。父のついた大きな嘘に動揺した自分を隠すために、ある意味で、彼も大きな嘘の振る舞いをした。帰りの電車の中で感じた苛立ちは、そのことへの徒労感だったと、寝込んでから彼は気づいた。多川は雉山村に夜遅くに帰って来た。河辺夫婦は、既に山荘の裏の建物で寝ていたので、翌朝、挨拶をした。詳しいことは話さなかった。河辺夫婦も何も訊かなかった。証券会社を辞めて山荘で働くことは、珍しいことではあったとしても多川の自由だ。ただ、そのことが自由に行える彼には、妻子や両親といった、場合によっては、足かせになる存在の気配すら伝わってこない。そのことに河辺夫婦は以前から気づいていた。
河辺夫婦に挨拶をした後、多川はその場に倒れた。座敷の畳の上だったので怪我はなかった。疲労と睡眠不足だった。彼は意識が朦朧としていた。それでも、自分より体の大きい多川を軽々と背負って部屋まで運んだ河辺の力には驚いた。先日、河辺は来年で八十になると言っていた。多川は、八蔵の力は山に鍛えられた人の強さだと思った。部屋に入ると、妻の善枝が布団を敷いてくれていた。彼は作業服はまだ着ていなかった。Tシャツにジャージ姿だった。すぐに横になって眠った。次の日の夜まで眠り続けた。夢も見なかった。目が覚めると暗闇の中だった。最初、どこにいるのか分からなかった。しばらくして、状況を理解した。
「どれくらい眠ったんだろう?」
多川はズボンのポケットに入れたままになっていた携帯電話を取り出し画面を見た。
「一日半経っている……」
彼は立ち上がると、暗い部屋を歩いた。そして、障子と窓を開けた。星空が見えた。星の明かりが部屋に差し込んだ。部屋が少し明るくなった。外の空気は真夏でも夜は涼しかった。多川は深呼吸をして新鮮な空気を吸った。気分が良くなった。そのまま窓際に立って、彼は星空を見ながら考えた。
自分がこの村に移り住んだのは、この星空を見るためだった。そして、父と母のことを忘れるためだった。それが、父に関しては全く違う結果になった。D県にあるA病院で父は死んだ。
『父が病没したことは、圧倒的な事実だ。その事実を体験した今、星空を眺めて父と母を忘れるという俺の発想はファンタジーだとしか思えない。そのために、会社まで辞めたなんて、俺はロマンチストすぎる』
多川には、もはやこの村に自分がいる理由はないように思われた。現実の父の死に接した自分には、二度と幻想は抱けないと思ったからだ。彼は漠然とだが、これからのことを考えた。
翌日、体調も良くなったので、多川は、宇都木祥三に会いにいくことにした。本当は、河辺夫婦に挨拶をした後、すぐに宇都木のところにいくつもりだった。突然、登山教室を抜け出した非礼を詫び、父の最期を看取ったことを話す予定だった。しかし、彼は疲労で倒れた。
多川は、麓までの山道を登った。この日は、登山教室が開催されているので、宇都木は家ではなく麓にいた。山道を登りながら、数日前、A病院に向かうため、この道を駆け降りたことを思い出した。彼には、もっと以前の出来事のような気がした。麓につくと運動会に使う大きなテントが見えた。参加者の親子連れと宇都木祥三の姿が見えた。宇都木は、この前と同じく参加者に明るく接していた。その姿を見ていて、多川は、ある考えが浮かんだ。
宇都木の長男の死は、村人の間では自殺と信じられている。でも、警察は事故死と判断した。ということは、事故死である可能性も大きい。というより、自殺だと信じているのは村人だけであり、多川も河辺から教えられたため、自殺だと信じている。宇都木の長男は雉山が嫌いだった。にもかかわらず、尾崖まで登ったのは理屈に合わない。自殺するために登ったと村人が考えるのも、不自然ではない。問題は、長男が尾崖から転落したその瞬間を誰も見ていないことだった。見ていないからこそ憶測が生じた。自殺説には一定の信憑性がある。しかし、それはあくまでも憶測だ。多川は、宇都木が、妻と子どもを疎んじていたという事実に惑わされた。そして、実は、彼は心の中で、宇都木祥三を父多川一央に見立てていた。その上で、宇都木を観察していれば、父、そして、母の影を消し去る答えが見つかるかもしれないと考えた。『宇都木と自分を“不幸仲間”だと捉えたのは、本心だ。しかし、宇都木が妻子を疎んじていた、特に長男を疎んじていたという事実に着目して、自分は、彼を父と同一視したのではないか』と多川は思った。彼は、生きているのかどうかも分からない父と母の存在に悩まされ続けてきた。観念の中の両親であり、二人に実体は無かった。河辺八蔵から宇都木の過去を教えられた多川は、観念の中の父が実体を伴って目の前に現れた気がしたのだった。しかし、A病院で父の最期を看取ったことにより、多川亮一は、現実的-リアル-な考えを持つようになった。そして、今、登山教室を開催している宇都木祥三を見ながら、多川は、彼に過剰な思い入れを抱いている自分に気づいた。『宇都木が、雉山村を離れずに、今に至ったのにも、実は、深い理由はなかったのかもしれない。真相とは案外そういうものだ』
宇都木が雉山村を離れなかったことへの見解は真剣なものではなかった。それでも、登山教室で明るく元気に振る舞う宇都木を見ているうちに、多川は恥ずかしくなった。あるいは、宇都木に申し訳ない気がした。
『俺の勝手なストーリーを彼に押しつけて、死んだ父と重ね合わせていた。俺は相当に思い込みが強いらしい……』
多川は宇都木に見つからないように、麓から山道に戻って、再び登り始めた。彼は尾崖に行こうと思った。自分の目で尾崖を見ようと思った。十五分ほど歩いて多川は尾崖についた。以前より、山道を登るのが速くなった。自分も河辺のように山に鍛えられているのだろうかと思った。彼はこの日も、鼠色の作業服を着ていた。八月に入っていた。山の生活とはいえ、彼の服装では暑かった。だが、彼はこの服装を変える気はなかった。父は最期まで不誠実だった。大きな嘘をついて死んだ。そのため、彼は作業服を着ていた。父母ではなく、自分は誠実な祖父母により育てられたのだという拠り所を彼は求めたのだった。尾崖についた時には、彼は汗だくになっていた。既に登山客が何人かいた。彼が山歩きをしていた頃はなかった柵が設けられ、観光用の双眼鏡も一台設置されていた。それだけ、この場所からの見晴らしは良かった。多川は、宇都木の長男の死に関して、今更、何か確かめられるとは思っていなかった。とはいえ、柵と双眼鏡が設置されているのを見て、改めて、全ては過去のことなのだと知らされた気がした。
崖の上にいる登山客は、皆、多川と違い、夏の低山に合わせた服装をしていた。速乾性のあるTシャツか長袖シャツを着て、ズボンも夏用のものを穿いていた。日よけ帽子を被ってリュックを背負っていた。
その中に違う格好をした女がいた。赤いTシャツを着て、膝ぐらいまでの丈のジーンズを穿いていた。靴はトレッキングシューズではなく白いスニーカーだった。服装そのものはおかしくはなかった。ただ、登山をする格好ではなかった。彼女の服装は普段着だった。彼女は男の子を連れていた。二人で双眼鏡のところにいた。女は振り返った。多川と目が合うと言った。
「お兄さん。この双眼鏡見えないんだけど。壊れてるの?」
突然、声をかけられて多川は戸惑った。
「分かりません。僕は双眼鏡には詳しくないので」
「あなた。双眼鏡の業者じゃないの? 作業服を着てるから、点検に来たのかと思った」
彼女は笑った。周囲の登山客もつられて笑った。
多川は、自分だってこの場に相応しくない格好をしているじゃないかと思ったが、一応、双眼鏡を調べにいった。女と男の子は、多川が双眼鏡を調べているのを興味深く見ていた。
「双眼鏡は百円玉を入れて五分間見られるようです。お金は入れましたか?」
多川が、双眼鏡の下にある硬貨の投入口を指でさして説明した。
「投入口なんてあるの? それにお金を取るの? 無料だと思ってた」
投入口は小さくて分かりにくかった。それに、多川も無料だと思っていた。だが、
「双眼鏡の設置費とか維持費とかがかかるんでしょう。仕方がないですよ」
と言って、設置した側の立場で話した。すると、女が、
「あなた。誰なのよ? 私は雉山村生まれの女なの。山で生まれ育った私に、山の人間のふりをしてあれこれ言わないで」
と言った。気の強い女だった。彼女の子どもだと思われる男の子は、彼女ではなく多川の傍にいた。
多川は啖呵を切った女の顔を見ていた。気丈なだけにキツい顔はしているが美人だった。結えた髪は豊かで艶があった。
多川亮一は、先ほどから、突然、話しかけてきたり、突然、啖呵を切ったりするこの女に特段の驚きも感じていなかった。むしろ、記憶の中にある誰かと重なることが気になっていた。そして、今、女の顔を見ていて、気づいた。女は多川の母の曉子に似ているのだった。容姿よりも、似たタイプの女だった。曉子も美人で強気な女であり、それは生来の性分に加えて、美人であることが、彼女に自信を与え、時に、尊大な振る舞いさえさせた。そのことを思い出した多川は、穏やかな口調で言った。
「雉山村の方でしたか。失礼しました。僕は、今、河辺さんの雉山山荘で働いている多川亮一と言います。あなたは、村のどの家の人ですか?」
「あら、そうなの。河辺さんのところで。私は、北杉澄江。この子は和道。北杉の家は知ってる? 村の奥になるんだけど?」
女は北杉澄江といった。すっかり笑顔になっていた。多川は母で経験している。母はプライドが高い。少年の頃の多川は、ほとんど本能的に母のプライドを尊重することが、母の機嫌を保つ秘訣であることに気づいていた。
「僕は山荘の仕事とは別に家の修理の仕事もしています。一度、北杉さんのお宅にも伺いました。でも、僕では取り寄せられない高級な木材が使われているので、専門の大工さんに依頼するようお話ししたことがあります」
但し、これは澄江のプライドを満足させるために言ったのではなかった。事実だった。この時に、多川は北杉家は、かなり裕福な家であることを知った。
多川の話を聞いた北杉澄江は、特に興味を示さず、
「多川さん。山を降りましょう。暑くなってきたし、和道も疲れてきたみたいだから」
と言って急に山道を降り始めた。
北杉澄江は他人の話を聞かなかった。だが、多川は驚かず、一緒に山道を降りた。澄江は、雉山村で生まれ育った人間だけあって、苦もなく山道を降りていった。それよりも、多川が驚いたのは和道だった。小学校の三、四年ぐらいの子どもにしては、山道を降りるのが速い。しかも、足取りが慣れている。多川は、北杉澄江が、山登りが好きで、いつも、和道を同行させている。そのために、彼も山道を歩くのに慣れているのだとは思わなかった。澄江は、確かに、山に慣れているが、それは雉山に限られている。山全般に慣れているなら、普段着で尾崖まで登ったりはしない。尾崖は、確かに、危険性は低い。でも、山の天候は変わりやすい。それなりの服装で登るべき場所だ。彼女は、子どもの頃から慣れ親しんでいるから、そこを思い違いしている。つまり、山全般を知っているのではない。雉山だけを知っているのだ。だとすれば、和道は、澄江に連れられて頻繁に尾崖に登っているから、慣れているということになる。北杉澄江も和道も、今、雉山村には住んでいない。時々、実家の北杉家を訪れているのだろうか? それと、澄江は離婚しているのだろうか? 北杉姓で子どもがいる。夫を婿養子に迎えているのならば、自分の推察は当たらない。それ以前に、離婚していたとしても、自分には何の関係もない。だが、多川は和道を見て、ふと思った。多川は和道と同じ歳の頃、両親から要らないと捨てられた。そして、それは両親の離婚と深く関係していた。彼の頭にそのことが浮かんでいた。和道は澄江に遅れまいと懸命に山道を降りていた。しかし、多川の目には、その姿が健気ではなく悲愴に映っていた。
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