崖2

宇都木祥三に会いに行かないまま、夏の終わりになった。その間、多川は、山荘の仕事をしていた。何故、宇都木に会いにいかないのかを考えているうちに、宇都木ではなく登山教室を避けていることに多川は気づいた。父が死の間際についた嘘が、彼の心を混乱させていた。何故、あんな嘘をついたのかが分からない。それに、最期まで、父が自分を裏切ったという失望感が、時間の経過とともに「家族の否定」という意識にまで発展していた。これまでも登山教室に参加する親子連れを遠景に感じていた。それが今は、参加者の親子の笑顔を想像するだけで、彼は混乱するまでになっていた。何故、混乱するかの根本的な理由は、父の嘘以上に、彼が、家族-父母-の愛情を知らないからだった。


河辺に訊くと何でも知っている。河辺は村の誰かから聞いて知っている。ということは村人全員が全ての情報を共有している。村だからと一括りにして考えるのは、偏見に繋がる危険があり、慎重にならなければならない。それにしても、やはり、この緻密なネットワークは特殊だと彼は思った。北杉澄江のことだった。

多川は何気なく河辺に訊いた。

「この前、尾崖で北杉の家の澄江という女性に会ったのですが、何故、村にいるのでしょうか? 村に帰って来たのでしょうか?」

河辺八蔵は、声をひそめて言った。

「澄江さんは、多川さんと同じ歳ぐらいだと思うけど、一度、離婚してるんですよ。子どもが一人います。それで、ここからが、何故、村にいるかの理由なんですが、子どもを実家に預けたいらしいんです」

「預けるとは? 一時的に? それとも、半永久的に?」

多川は、念のため訊いた。

「離別ということです。というのも、澄江は新しい男と再婚したいらしいのですが、その男が子どもを連れて来るな。実家に置いてこいと言っているそうです」


その話を聞いた頃から、村に頻繁にオフロード車が出入りするようになった。山道の走行にぴったりの車だが、傷一つ付いていない車体を見ると、あくまでもファッションとして乗っているのが分かった。その車に北杉澄江が乗り込む。すると、車は村の共有地に大きな弧を描いて走り去った。運転席の男は、サングラスをかけていることしか分からなかった。


昼から村の家の修理に行った帰りだった。まだ二時過ぎだった。勝手口のドアの不具合を直した。ドアの蝶番を交換しただけだった。すぐに終わった。夏の終わりを惜しむように、山荘は登山客で賑わっていた。八月の中頃から、山荘に手伝いに来る村人の数が増えたため、多川の仕事の負担が減った。家の修理の依頼は、そう沢山あるわけではないので、全体的に時間に余裕ができた。多川は、ふと登山教室に行ってみようと思った。参加している親子連れを見たいわけではなかった。ただ、どんな様子か確かめたかった。


山道を登って、久しぶりに麓についた。売店があり、向こうに運動会用の大きなテントが見えた。多川はテントに向かった。参加者の姿が見えた。親子の触れ合いと笑顔があった。多川には理解し得ない世界だった。しかし、それは、以前から同じなのだから、動揺しないよう自分に言い聞かせた。宇都木祥三の姿も見えた。彼も笑顔で話をしていた。変わらない光景だった。そして、たとえ自分には、無縁の世界であったとしても、今年は、もうこの光景も見られなくなるのだと思うと、彼は一種の感慨を覚えた。そこから、彼は、自らが、こういう親子の触れ合いに対して、嫌悪を抱いているわけではないのだと思った。やはり、親子の愛情交流が自分には分からないということなのだと考えた。


そして、この光景の中に、多川は、場違いとでもいうべきものを見た。テントから少し離れたところにキャンプ用のビニールシートを敷いて一人で寝ている女がいた。北杉澄江だった。ショッキングピンクのTシャツを着て、デニム地のショートパンツを穿いて素足で寝転んでいた。更に、サングラスをかけていた。彼女は砂浜で日光浴をしている海水浴客にしか見えなかった。

多川は知らぬ間に、北杉澄江に近づいていた。何かを言おうとしていた。自分でも何を言おうとしていたのかは分からなかった。だが、彼が苦言を述べると解釈した宇都木が飛んできた。

「多川さん。登山教室に来てくれたんですね。ずっと待っていました。ところで、ここにいる北杉澄江君は、私の教え子なんです。分校最後の卒業生です。私に会いにここまで来てくれたんです。嬉しい限りです」

宇都木にそう言われて、多川は、確かに、今、澄江に何か注意をしようとしていたことに気づいた。でも、宇都木の教え子と言われてしまうと、それはできなくなった。

「宇都木さん。ご無沙汰してすみません。登山教室も手伝えなくて」

「いえ。河辺さんから、聞きました。この度は、お気の毒様でした。私から声をかけようかとも思ったのですが、多川さんには気持ちを整理する時間が必要だと思いまして、待っていました」

「お気遣いありがとうございます」

北杉澄江は、二人のやりとりを聞いていたが、何も言わなかった。


多川は、和道はいるのだろうかとテントのほうを見た。

北杉和道は、テントの下で一組の親子連れの参加者に混じってビニールシートの上に座っていた。和道と同じ歳ぐらいの女の子と並んで座っていた。彼女の父親が持参した小型のバーナーの火で炙ったマシュマロを食べていた。多川は、和道のところに行った。和道は、細長い木の枝に刺したマシュマロを手にしていた。

「和道君。僕のこと覚えている?」

和道は頷いた。そして、木の枝の先のマシュマロを口に入れた。

寡黙な子どもだった。多川は、子どもの頃の自分を見ている気がした。彼は特に子どもに関心はない。それなのに、和道に会いに来たのは、そういう理由からだった。女の子の両親から、「どうぞ一緒に食べませんか?」と言われ、多川は和道の隣に座った。炙ったマシュマロは甘い香りがして美味しかった。女の子は亜未といった。和道と同じ歳で、小学五年だと言った。明るく健康的な笑顔を見せた。両親は、亜未の笑顔を愛おしげに見つめていた。多川は、これが親子の愛情交流なのだと思った。そして、その愛情交流が健全になされている証が、彼女の笑顔なのだと思った。自分には、こういう笑顔はない。和道も、今のまま成長するとこういう笑顔を浮かべることのない人間になると思った。亜未という少女の笑顔に多川は、羨望を覚えた。しかし、羨望の本当の相手は亜未ではなかった。彼が恋をして、結婚を諦めた女性の笑顔だった。多川は思った。彼女への恋は、自分が持ち得なかった全てを持つ人への憧れだったのかもしれない。それが、結婚という現実的な形になる時、自分は恐れた。何も持たない自分が、彼女と結婚することは不釣り合いである。しかも、結婚したら、その後は、生涯、持たないことの劣等感に苛まれ続けることになる。夢が叶うことと憧れが現実になることは違う。それが、結婚を諦めた本当の理由だ。多川は、今になってそんなことを考えた。


多川は、その場を離れ、雉山を見た。まだ夏の空がその後ろに広がっていた。


「ねえ。尾崖に展望台ができたの、参加者の皆さん。知ってます? 展望台っていうほどじゃないけど、見晴らしがいいんです」

突然、ビニールシートから起き上がった北杉澄江が、参加者に呼びかけた。

「展望台? 行ってみたいな」

「尾崖って、ここから登ればすぐだ。子どもでも大丈夫だ」

参加者の中から、賛同する意見が相次いだ。

多川は、提案としては良いものだ。但し、宇都木の教え子なら、彼の長男が尾崖から自殺していることは知っているはずなのに。と、彼女の配慮の無さを、内心、非難した。

そして、宇都木を見ると、

「良い提案ですね。気がつきませんでした。みんなで、尾崖に登りましょう」

と笑顔で澄江の意見に賛成した。しかし、多川には、宇都木が、狼狽していることが伝わってきた。


この日も三十人の参加者が、麓から尾崖への山道を登った。和道と亜未も一緒に山道を登った。ショッキングピンクのTシャツに短パン姿の北杉澄江も、雉山育ちだけに、軽々と山道を登った。

尾崖につくと、見晴らしが良いことに、皆、喜んだ。亜未が背負っていたリュックを和道に預けた。アニメのキャラクターが描かれた小さなリュックだった。特に登山に関係するものが入っているわけではなかった。背負って尾崖までの山道を登っている間に重くなった。そこで、少しの間、和道に預けた。亜未の両親は、当たり前のように、双眼鏡に百円玉を入れると、亜未と和道に双眼鏡を覗かせた。多川はその様子を見て、双眼鏡が無料だと思っていた自分を思い出し思わず苦笑した。

その時、澄江の声がした。

「その双眼鏡に百円入れたんですか? もったいない。私は無料じゃないと使わない」

亜未の両親に確信を持って話す澄江を、和道が呆れた顔で見ていた。

それ以外にも、参加者は、尾崖の上で記念写真を撮るなどして楽しく時間を過ごしていた。一時間以上を過ごした。宇都木は、尾崖にいることだけで、委縮していた。そのため、尾崖を降りるように皆に呼びかけられなかった。彼は三十分ほどで、降りるつもりだった。やはり、一時間は長かった。天候が一転したのだ。突然、雨が降ってきた。皆、動揺した。ようやく、宇都木が気を取り直し、リーダーシップを発揮した。

「即、尾崖から降りること。このまま、ここにいることは危険です。雨が強くなる可能性があります。今なら、子どもも含めて、皆で山道を降りられます。私に続いて落ち着いて山道を降りること」

宇都木が力強くそう呼びかけると、参加者は、落ち着きを取り戻した。そして、宇都木を先頭に多川を後尾に山道を降りた。北杉澄江は大声で歌を歌っていた。彼女によると、士気を下げないためだということだった。ポップスから童謡まで何でも歌った。参加者も一緒に歌った。やはり、山育ちの人だと多川は彼女を見直した。それに対して、多川は、作業服が雨を吸って重くなり、ズック靴で歩いているので、ぬかるんできた山道で何度も足を滑らし転倒しそうになった。山を甘く見ていたと反省した。和道と亜未は二人で慎重に山道を降りていた。転ばないように和道が亜未の手を取って、彼女を助けていた。寡黙な和道は、行動で親愛の情を表していた。多川はその姿を見て、気持ちが和んだ。


無事に麓に降りた。全員が、宇都木の山小屋に入った。

宇都木は、すぐに常備しているタオルを皆に配り、参加者も、着替えをして落ち着いた。

宇都木は湯を沸かして、温かい飲み物を皆に配った。参加者は、ようやく生きた心地がした。


そうやって山小屋の中にくつろぎが生まれたその時だった。

亜未の声がした。

「リュックがない!」

参加者は、何事かと亜未のほうを見た。

亜未の母親が釈明した。

「娘がリュックを尾崖に忘れてきたんです。でも、貴重品などは入っていませんので、お気になさらないでください」


雨は強くなっていた。

亜未は、窓から雉山を見ていた。大人には大したものでなくても、子どもには大切なものであることは、よくある。例えば、小さな熊のぬいぐるみやおもちゃのペンダントなど。

和道は亜未の両親に言った。

「僕が悪いんです。亜未ちゃんからリュックを預かったのに、双眼鏡を見る時に、その下に置いてしまったんです。そして、そのまま忘れてしまった。僕の責任です」

そう言い終わると、和道は山小屋の扉を開けて雨の中に飛び出していった。

「和道君! 戻ってきなさい」

亜未の両親の声も無視した。

和道は、雉山に向かって走っていった。足が速かった。あっという間に、雨の中にその姿が消えた。

宇都木、多川、亜未の父親が、山小屋を飛び出して和道を追いかけた。そして、北杉澄江も和道を追いかけた。

目の前に見える雉山は、爽やかな夏山から、暗く危険な山に変わっていた。

「和道。戻ってきなさい!」

澄江の声が雨の降る麓に大きく響いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る