病室2

「父さん。何故、あなたは僕を捨てたのですか?」

多川の問いに一央は沈黙した。

その代わりに、一央は、右手で掛布団を剥いだ。病衣の紐も解いた。

「亮一。俺の体を見てくれ。病気だからってこんな風になるのか?」

多川は、父の体を見た。むき出しになった腹部が大きく膨らんでいた。そして、両脚も異様なほど太くなっていた。痩せた顔、肋骨の浮き出た胸、棒のように細くなった腕と比較すると、腹部と下肢だけ父の体ではないように思われた。

「腹水が溜まっています。脚にも浮腫が認められます。医者はそう言った。でも、人間の腹も脚もこんなに不自然に膨らむものなのか? 俺はもうすぐ死ぬ。覚悟はできている。でも、こんな体で死にたくない。俺は普通に死にたい」

多川は黙って父の話を聞いた。

「亮一。父さんの最期が、こんなに悲惨なことになったのは、お前を捨てたことへの天罰だと思っているか? だとしたら、お前は勘違いしている。俺と曉子はお前を捨てたんじゃない。俺の実家に預けたんだ」

多川は立ち上がると、父の病衣の紐を結び、布団を体にかけた。

「亮一。お前は優しいなあ。やっぱり、オヤジとオフクロのところに預けて良かった……」

一央は、そう言うと目を閉じて静かになった。

多川は、一瞬、絶命したのかと思った。しかし、呼吸があった。


多川は立ち上がり、病室のカーテンを開けて窓の外を見た。灯りのない街だった。見下ろすと先ほど降りた駅があった。薄暗い駅は、かろうじて闇の中にその姿を見せていた。空には月が出ていた。彼は視線を遠くした。月に照らされて夜の海が見えた。昼間、雉山で登山教室の手伝いをしていた。それが、今、海の見える街にいる。多川は不思議な気がした。それから、彼は記憶を呼び覚ました。彼の定義では記憶には感傷は伴わない。感傷を伴うのは思い出であり、記憶は事実の集積だった。


多川は、母曉子のことを考えた。今、どこで何をしているだろう? あの時、一緒にいた愛人とはどうなったのか? どうせすぐに上手くいかなくなって別れたのだろう。その後も同じことの繰り返しだったのではないか。何故なら、母は気まぐれでわがままな女だからだ。父は祖父の下で大工の修業をしていたが、地道な修業に嫌気が差して、家を飛び出した。父と母は本質的にとても良く似ている。刹那的で即物的だ。だから、父と母は気が合った。


多川の記憶に残っているのは、父と母が派手な生活を送っている頃からだった。父も母も、田舎での地味な生活が嫌で都会に出てきた若者だった。本来なら、希望を持って都会に出てきたものの、安い時給でアルバイトをするだけの現実に敗北し、早々に故郷に帰るはずだった。だが、時代背景が違った。父と母が都会に出てきた頃、この国は、空前の好景気に見舞われていた。父は頭の回転が速く勘が良かった。小さな会社を起こした。簡単に成功した。しかも、信じられない額の金が二人に入ってきた。二人は稼いだ金を全部遊びに使った。亮一が生まれたのを機に二人は入籍した。その後、亮一の成長と反比例する形で景気に翳りが見え始めた。しかし、誰もがそのことを認めようとはせず、もっと働いてもっと遊んだ。そして、ある日、突然、空前の好景気は、泡がはじけるように終わった。一央と曉子に残ったのは借金だけだった。それと、一央と曉子のそれぞれに愛人が残った。借金は必ず返済しなければならない。良くない筋からも金を借りていた。二人の夫婦関係は冷え切っていた。一方で、愛人とは別れたくなかった。そこで、一央と曉子は、新しい人生設計を考えた。借金の返済義務は等分に負う。その約束の上で離婚して新たなパートナーとともに人生をやり直すというプランだった。計画を立ててから、二人は、一人だけ、このプランから外れているものがいることに気づいた。亮一だった。


二人は亮一をプランに組み込むことはしなかった。何故なら、彼らにとって、この人生設計は不可変なものだったからだ。そこで、亮一は父の実家に預けられることになった。但し、亮一を父の実家に無期限に預けるとは父も母も言わなかった。


何故、多川亮一が、これほど多く両親についてのことを知っているのか? 決して、想像ではない。簡単なことだった。一央も曉子も、亮一が子どもだからと油断して、彼の前で何でも喋ったからだった。離婚のこと、借金のこと、愛人のことなど、あたかもそこに彼がいないかの如く喋った。彼のいる目の前で、あるいは、電話で。子どもだった多川は、玩具で遊びながら、父と母の話を聞き、その内容を概ね理解した。一央も曉子も、子どもは小さな大人だという認識を微塵も持たなかった。だから、記憶は事実だった。


多川は、窓の外の暗闇を見つめながら、呼び覚ました記憶を繋ぎ合わせた。但し、一つだけ確信の持てない記憶があった。祖父母の家に預けられた時のことだった。祖父母の家に預けられたことは疑う余地のない事実だった。多川は祖父母に育てられて大人になったのだから。問題は、祖父母の家に預けられたその時の記憶が彼の中にないことだった。謂わば、父から祖父母へ亮一が、“引き渡された瞬間”の記憶が欠落していた。但し、前後の記憶はあった。


暗い夜道を父の車で走っていた。途中にドライブインがあった。両親と多川の三人はそこで休憩した。多川はハンバーガーを食べた。冷めて味のしないハンバーガーだった。

「あんた。それ美味しい?」

母が訊いた。多川が首を横に振ると母が笑った。

父は黙って煙草を吸っていた。

ドライブインを出て、再び夜道を走ると、ようやく祖父母の家についた。

ここで多川の記憶が途絶え、次は、村の小学校に転校した場面まで記憶は飛んでいた。祖父母が慌てて転校の手続きをしたが、村の学校で使っている教科書は、まだ多川の手元になかった。隣の席の生徒の教科書を見せてもらっているところから記憶がはっきりする。机をくっつけて並んで一つの教科書を読んでいた。そして、その生徒が村での最初の友だちになった。


多川は、その友だちの顔を暗闇の中に思い出した。だが、欠落している部分の記憶は、やはり蘇らないことにため息をついた。そして、窓の外を見るのをやめて、再び、ベッドの傍の椅子に座った。父の様子は変わらなかった。しかし、この状態は寝ているのだろうか? 昏睡状態なのか? 一瞬、多川は父と二人きりでいることに不安を感じた。しかし、異変があれば、医師と看護師がすぐに駆けつけると思い、そのまま父の傍にいた。


その時、父の目が開いた。

「ずっと考えていたんだ。こんなどうしようもない父親のために、駆けつけてくれるなんて、亮一は、本当に良く育ってくれたんだと。あの時、オヤジもオフクロも、自分たちの子どもは自分たちで育てろ。それが親としての責任だって怒った。でも、俺も曉子も、それが無理だと思ったから、座敷でオヤジとオフクロに土下座をして頼んだんだ。やっぱり、これで良かった。死ぬ前にお前を見て、そう思えた。亮一。来てくれてありがとう……」

父は多川を見つめて言った。

そして、父は静かに目を閉じた。彼はじっと父の顔を見ていた。知らぬ間に、医師と看護師が病室に入って来ていた。気づくと、心電図は心拍を刻まなくなっていた。医師は死亡確認を行った。父は事切れていた。

「十一時五十三分。ご臨終です」という医師の声が聞こえた。

今、多川を見つめて話をしていた父が、突然、死んだ。多川は動揺した。そして、動揺があまりに激しいため、彼は座っている椅子から立てなくなった。看護師が多川の傍に来て言った。

「動揺されていると思います。でも、一央さんは多川さんに看取ってもらえて幸せだったと思います。沢山、お話もできたようですね。お父様は安らかな顔をされています」

多川は、看護師の言葉に異論はなかった。


だが、違うのだ。そんなことではないのだと、多川は思わず叫びそうになった。彼を動揺させているのは、父が死の間際についた決定的な嘘だった。多川は、父があまりにも大きな嘘をついたため、その衝撃により欠落していた記憶が蘇った。それは、過酷すぎる記憶のため、彼が無意識の内に封印していた記憶だった。


多川一央と曉子は、座敷で祖父母に土下座などしていないのだった。あの晩、一央と曉子は、祖父母に直接会ってもいないのだ。六月の蒸し暑い夜だった。ドライブインを出て再び夜道を走り、一央の車は祖父母の家の近くについた。一央は車をそこで停めると、曉子とともに車を降りた。亮一も降ろされた。しばらく歩くと祖父母の家についた。窓から灯りが漏れていた。自分の生家にもかかわらず、一央は家に上がろうとはしなかった。家の裏に回った。一央と曉子は、亮一を裏の出入り口の前に立たせた。

「亮一。ここにじっとしてろ。ジイサンとバアサンが、気づくまで、絶対に動くな」

一央は押し殺した声で言った。

それから、一央と曉子は、亮一をそこに置いたまま、立ち去ろうとした。それに気づいた亮一は、二人を追いかけた。

「お父さん、お母さん!」

亮一は叫びながら追いかけた。

一央が振り返って、亮一のところに来た。そして、亮一を突き飛ばした。亮一は倒れた。シャツにもズボンにも土がついた。

「亮一。お前はついて来るな! 計画に入ってないんだ。お前は要らないんだ」

一央はそう言うと、右手で犬や猫を追い払うように、シッシッという仕草をした。

亮一は、その時、両親に捨てられたことが分かった。

祖父母が人の気配を感じて裏の出入り口に現れるまでの間、暗闇の中に亮一はずっと立ち尽くしていた。


記憶の蘇った多川は、父への怒りのため、青ざめた顔になっていた。

『お前を捨てたなんて言えるはずがない。だったら、言わないまま死んでいけば良かったじゃないか。何故、最期の瞬間にまで嘘をつくんだ? 現実の父と死別することにより、心の中に棲む父とも決別できる。甘い考えだった。父は裏切りの人だった。父さん。最期まで、あなたは僕を裏切り続けました。そして、逃げ切った』


「多川さん。気分が悪いんですか?」

看護師が声をかけた。

多川は体中が怒りで震えていた。しかし、彼は、

「ええ。父の最期が、こんなに早く訪れるとは思わなかったので。ショックで少し気分が悪くなりました」

と、冷静に言った。更に、

「今、気づいたんですが、急いで病院に駆けつけたため、僕は葬儀社に連絡をしていませんでした。父の遺体をこのまま病院で預かってもらうことはできませんよね。すぐに葬儀社に連絡をして遺体を引き取ってもらうようにします」

と、すっかり落ち着いたように話した。

看護師は、多川の様子に安堵した。それから、一階にいる事務員が葬儀社について知っているから尋ねてくれと言った。多川一央の遺体は、その間、霊安室に安置すると言った。

多川は静かに立ち上がると、医師と看護師に礼を言って一階に向かった。全てが理性的な振る舞いだった。


多川亮一は、必要以上に常識的でなければならないと考える人間だった。それは、父と母のように好き勝手に生きることへの反発に由来していた。この時もそうだった。感情のままに振る舞ってはならない。怒りも悲しみも表に出してはならない。しかし、父の亡骸の前で取り乱すことは、人間として非常識なことではない。好き勝手な振る舞いでもない。でも、彼はそれを自分に許さなかった。彼は自己の感情を抑制することにストイシズムにも似た価値さえ見出していた。多川は、父の大きな嘘も、こうやって常識的に振る舞えば、必ず、乗り切れると信じていた。しかし、その意に反して、彼の心の乱れは一向に沈静化しなかった。


二日後のことだった。彼は駅のホームにいた。カバンの中には、小さな骨つぼが入っていた。火葬場で父は骨になった。父の骨は、大病を患っていた人とは思えない太い骨だった。父はまだ若かった。そのためではないかと多川は思った。


彼は電車に乗って街を離れた。晴れた日だった。電車の右側の窓から海が見えた。夏の日の光に照らされ、乱反射する海の眩しさが彼は好きだった。でも、この時の彼は眩しさに苛立ちを感じた。彼はひどく疲れていたため、かえって覚醒していた。気持ちを休められないジレンマに陥っていた。彼は海を見るのをやめて、目を閉じた。


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