病室

登山教室の最中に、父の危篤の連絡を受けた多川亮一は、ひどく混乱した。混乱が治まった時には、登山教室に参加している家族が、皆、遠い存在になっていた。身近に感じていたはずの家族の姿が遠景になっていた。多川は、自分は現実に戻ったのだと思った。彼にとっての現実とは失踪同然にいなくなっていた父の消息が、ようやく明らかになったことだった。しかも、もうすぐ死ぬ。この場合、彼でなくても、目の前にいる親子連れの参加者が、遠い存在に思えたかもしれない。


正気を取り戻した多川は、A病院に電話をした。父の病気については病院についてから詳しく説明するとのことだった。病院の場所は駅のすぐ近くにある。だから、電車を利用すると早く到着すると教えられた。

多川は電話を切ってから、宇都木に急用ができたと言った。宇都木は、突然のことに驚き、オルガンを弾く手を止めた。参加者も驚いて多川のほうを見た。

「多川さん。急にどうしたんですか? 何かあったんですか?」

戸惑いながら尋ねる宇都木に、「すみません」とだけ言って、多川は、その場を走り去った。そして、麓を降りて山荘に戻った。


自分の部屋で、カバンに着替えなどを入れると、彼は、河辺夫婦のところに行った。河辺夫婦は客のいなくなった広い食事の間で茶を飲んでいた。

多川は、二人のところに行き正座をした。

「実は、今、父が危篤だから、すぐに面会に来てくれという連絡が、僕の携帯電話にありました。河辺さん。数日、休ませて欲しいのですが?」

「登山教室から急に帰って来て、どうしたのかと思っていたら、そんな大変なことが……。すぐに行ってあげてください。仕事のことは気にせずに、必要なだけ休んでください。ところで、お父さんの入院先の病院はどこにあるんですか?」

「D県です」

「それは遠いですね」

「はい。でも、今すぐ出て、電車に乗れば夜遅くなりますが、今日中にはつきます。病院も駅からすぐのところにあるそうです」

それを聞くと河辺八蔵は、急に立ち上がり外に出ていった。

「あの人、車で街まで多川さんを送るつもりだから、乗っていきなさい。雉山村の駅から各駅停車の電車で行くより、車で行ったほうが、ずっと早いから」

妻の善枝の話を聞いている間に、山荘の玄関前に車がとまった。

「多川さん。私が街まで送るから、乗っていきなさい!」

八蔵が運転席の窓から顔を出して叫んだ。

多川は、善枝に「ありがとうございます。そうさせてもらいます」と礼を言ってから、玄関を出て急いで八蔵の車に乗った。車は白の軽トラックだった。荷台には農機具が載っていた。助手席に多川が乗るとすぐ河辺が車を発進させた。多川は街まで送ってもらい、駅から電車に乗った。


在来線から特急に乗り換え再び在来線に乗り、ようやく多川はD県内に入っていた。電車はA病院の近くの駅に向かっていた。夜の九時になっていた。電車の窓からは暗闇に時々灯りが見えた。彼は、その風景を見ながら、考えていた。何故、父がD県内の病院に入院しているかということだった。直接の理由は、父がD県内で生活をしているからだろう。それよりも、多川が疑問なのは、何故、父がD県で暮らしているかということだった。父はずっと都会で生きてきたはずだった。それが、どのような理由で、これほど遠いところに移り住むようになったのか? D県に知り合いがいて、仕事でも紹介してもらったのだろうか? 考えたが、答えは出なかった。多川が父と別れたのは、二十年以上前になる。その間の長い歳月に父に何があったかなど、多川に分かるはずがなかった。


窓の外を眺めながら、ずっと父のことを考えているうちに、電車が駅についていた。車内に流れたアナウンスで、この駅が目的の駅だと多川は気づいた。彼は荷物を手にして急いで電車を降りた。そして、誰もいない夜のホームを歩いた。彼は羽織っていた薄手のジャケットを脱いだ。山の涼しさに慣れた彼にとって、平地の暑さは不快だった。特に湿度の高さに彼は閉口した。歩きながら、彼は、夜気に僅かに潮の香りが含まれていることに気づいた。海が近い。D県は大きく海に接していた。彼は改札を出た。目の前にA病院が見えた。小さく古い病院だった。多川は建物を見ただけで、もの哀しさを感じた。彼は一つため息をついてから病院に向かった。


A病院の正面の入り口から中に入ると、薄暗い待合の奥に受付が見えた。男が一人座っていた。彼と同年代の男だった。机に向かって何か書類を書いていた。多川の存在には気づいていなかった。多川は受付まで行ってカウンター越しに、「多川と言います。面会に来ました」と男に言った。

男は多川の言葉にはっとして顔を上げた。

「多川一央さんのご家族の方ですね。お待ちしていました」

そう言いながら、内線で医師と看護師に連絡をした。


すぐに医師と看護師が駆けつけた。二人は多川を、「多川一央さんの病気と病状について説明しますので」と診察室に連れていこうとした。多川も、二人の後について診察室に行こうとした。

すると、受付にいる男が、

「先生! 入院の書類のことで、どうしても確認することがありますので、それだけ先にさせてください」

と叫んだ。

「では、すぐに済ませて。我々は診察室で待っている」

医師は、そう言い残して、受付に近い診察室に入っていった。


男は受付の中から出て来て、多川に挨拶をした。当直の事務員だった。多川も挨拶をした。多川一央の長男で、昼間、電話で父が危篤だと言われ、急いで病院まで来たと言った。

男は、多川を待合の椅子に座らせ自分も隣に座った。そして、手にした一枚の紙を見せながら説明した。

「これは、多川一央さんの入院誓約書なのですが、この保証人のFという人を、亮一さんはご存知ですか?」

多川は言った。

「事情があって、父とは二十年以上会っていないので、父のことについては何も知りません。父がD県にいるのも、今日、知ったぐらいなんです」

「入院した時に、多川一央さんも、そう言っていました。身内で保証人になるものはいない。息子が一人いるけど、ずっと会っていないから、どうしているかも分からない。そこで、このFという人に、保証人になってもらったんですが、書かれている電話番号に電話をしても出ないし、保証人として疑問があります」

多川は、男が医師の説明まで制して何の話をするのかと思っていたが、今の説明で理解した。要は、入院費の取りっぱぐれを懸念しているのだ。病院にとって、治療費の未回収は深刻な問題だ。患者の病気と同じか、それ以上に重要な問題かもしれない。多川一央の死後、治療費の取りっぱぐれの懸念があることは医師も教えられて知っているのだ。だから、患者の病状説明より保証人の説明を優先させた。病院経営はシビアだ。こんな小さな病院なら尚更だ。そして、そのことから、多川にとって辛い事実が理解された。父多川一央は、入院費を支払うだけの経済的な余裕のない生活をしているということだった。所謂、生活困窮者だった。

「私が保証人になるので安心してください」

多川の言葉に、

「すみません。では、Fさんの署名の下の空欄で構いませんので、サインをお願いします」

と男は言った。

多川は、ボールペンで空欄に名前を書きながら、この男の仕事も、辛い仕事だと思った。


駆けつけた医師は、父の主治医だった。診察室で、多川一央の病気について説明した。病気は末期の肝臓がんだった。他の臓器にも転移しているとのことだった。明日まで保つかどうかという状態だと主治医は言った。そして、ここまでの説明を主治医は急いでした。理由は、夜になって、一時的に、多川一央が意識を回復しているからだった。つまり、今なら、多川は、父と話ができるということだった。これが最後の機会になると医師ははっきりと言った。


父のいる三階の病室に向かった。エレベーターの中には主治医、看護師、多川の三人がいた。沈黙がエレベーターの中を支配していた。その時、多川は、主治医と看護師の両方に訴えかけるように言った。

「正確には二十五年経っているんです。十歳の時以来会っていないんだから、父が僕を見ても分かるわけがない。これじゃあ、面会にならないですよ」

主治医は黙って多川を見た。

看護師が、多川に言った。

「多川さんを先ほどから拝見していて思ったのですが、お父様とよく似ています。だから、一央さんも、多川さんを見て、すぐに分かると思います」

主治医も、看護師の言葉に頷いて、「私もそう思います。大丈夫ですよ」と言った。

「そうでしょうか? それならいいのですが……」

多川亮一は、常に冷静な男だった。

だが、彼はこの時、緊張と興奮で取り乱した。但し、父に会えるから、そうなっていたわけではない。彼が緊張と興奮に襲われていたのは、これで心の中に棲む父、もしかしたら、母とも決別できるかもしれないと思ったからだった。彼の思考は普通ではなかった。彼は、今から、現実の父と死別することになる。にもかかわらず、彼は、現実よりも、観念の中の父との決別にリアリティを感じていた。しかし、父と母に遺棄されたも同然のまま二十五年という歳月を生きてきた多川亮一にとっては、その長い歳月を会わずに過ごした両親よりも、心の中に棲む両親のほうがリアルな存在になってしまっていたのだ。そう考える時、彼の普通ではない思考にこそ、彼の孤独と悲しみが凝縮されていることが分かる。


エレベーターを降りると、医師と看護師は廊下を歩いて奥にある個室の前で立ち止まった。多川も二人の後をついて部屋の前で立ち止まった。そして、先ほどの事務員とのやり取りを思い出した。入院費を払えるかどうかも危ぶまれている父が、大部屋でなく個室にいるのは、大部屋にいられないほど悪い病態に父があることを示している。多川は、その時、ようやく現実の父が、間もなく死ぬのだということを理解した。同時に、二十五年前、自分を捨てた現実の父に会うのだという複雑な思いが込み上げてきた。多川は、知らぬ間に険しい表情になっていた。

それを見た主治医が、

「多川さん。お辛いと思いますが、お父様の気持ちを和らげるために、できるだけ笑顔で接してあげてください」

と言った。

多川は、その言葉に諭された気がして気持ちを鎮めた。


ドアを小さくノックして主治医が部屋の中に入った。看護師に促されて、次に多川が入った。最後に看護師が入ってドアを閉めた。個室は狭かった。部屋には心電図の音だけが聞こえていた。ベッドに横たわる父の顔が見えた。頬が痩けていた。黄疸が出ていた。多川が最後に見た時、彼の父は四十歳だった。今、六十五歳だった。父の顔には病気と年齢による変化があった。しかし、多川には、すぐに父だと分かった。影のある表情に変わりはなかった。

「多川さん。息子さんが来てくれました。亮一さんが遠方から駆けつけてくれましたよ」

主治医の声に反応して父は目を開けた。そして、多川を見て言った。

「亮一か。大きくなったなあ。仕事が忙しいだろう。それなのに、こんな遠いところまで、俺の見舞いになんて来なくて良かったのに」

父の声に力は無かった。しかし、想像していた以上に、意識がはっきりしていることに多川は驚いた。

主治医と看護師が、「お二人でゆっくり話をしてください」と言って部屋から出ていった。


父と二人きりになった多川はベッドの傍にある椅子に腰かけた。

多川は、数年前、祖父と祖母を看取った。今と同じ状況だった。病院の個室で最期を看取った。その時のことが、頭をよぎった。三人に共通することがあった。部屋に死の匂いが漂っていることだった。実際に、匂いとして存在するのではない。感覚的なものだ。だが、祖父母の死の直前に多川は死の匂いを感じた。そして、祖父母は死んだ。多川は父の病室にも死の匂いが漂っていることを感じて焦った。死を間近にした現実の父から話を聞き、観念の中の父に終止符を打たなければならないからだった。そのために残されている時間は僅かしかない。

彼は病に伏せる父にすぐに核心を訊いた。

「父さん。何故、あなたは僕を捨てたのですか?」

その問いに、彼の父は多川の顔をじっと見た。その目は黄疸のために黄色く濁っていた。

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