麓5

夏休みに入ると連日、『雉山山荘』は登山客でいっぱいになった。そのため、多川亮一は、登山教室を手伝うどころか、見に行くことさえできなかった。彼がようやく宇都木祥三の登山教室の様子を見に行けたのは七月の終わりだった。この日は午後から客が少なかった。


五月の大型連休のトラブルについては、多川に代わって河辺が宇都木と話し合ってくれた。それ以降、多川は、わだかまりなく宇都木と話すことができるようになった。しかし、実際には、多川も宇都木も仕事が忙しく、僅かしか話をする機会はなかった。宇都木独自の登山教室は、具体的にはどんな活動をするのか。開催までに、宇都木から詳しく聞くはずだった。だが、宇都木は本業の農業に、多川は山荘の仕事と村の家々の修理の両方に忙しく、その機会は得られないまま夏休みに入った。


多川は麓への山道を登った。途中、山道を降りて来る登山客と何度かすれ違った。皆、羽織っていた上着を手にして降りて来た。朝は肌寒い山も日中になると気温が上がる。多川が山道を登っている午後は日差しが照りつけ暑かった。多川は額に汗をかいていた。それでも、彼は、鼠色の作業服を着ていた。自己の属性を示すためではなかった。もっと積極的な意味だった。村の家々の修理をするうちに彼は祖父の跡を継いだ気がしていた。今の彼は、その証の意味で作業服を着ていた。


山の麓の売店についた。多川は売店の前から雉山を見上げた。山の中腹の左側に尾崖が見えた。彼はしばらく尾崖を見つめた。彼は山全体を見渡した。雉山そのものは平坦な山だった。しかし、山は鮮やかな緑に覆われ、夏山の美しさと生命の息吹を感じさせた。秋は山全体が深い紅葉に覆われる。季節の移ろいをはっきりと感じられるのが、この山の大きな魅力だった。


多川は雉山から視線を宇都木の山小屋のほうに移した。山小屋の前にある自然の広場に、小学生、中学生、そして、彼らの保護者の姿が見えた。子ども達の声も聞こえた。宇都木祥三の姿も見えた。多川は山小屋に向かい、参加者に挨拶をした。時刻は二時近くになっていた。この日の参加者は三十人だった。ポトフやカレーなど、各自が持参したクッカーセットで作った昼食を食べていた。食べ終えた参加者はキャンプ用のシートの上で昼寝をしていた。皆、ゆったりとした時間を過ごしていた。


山の憩いのひと時を感じさせる風景だった。だが、そこに異質なものが二つあった。一つはテントだった。登山用のテント、あるいは、タープの下で親子が一緒に食事を取っているのなら、より相応しい風景になっていた。しかし、皆が日差しから身を隠しているテントは、運動会の時、校長や来賓などの待機場所に設営するあの大きなテントだった。白い天幕をスチール製の長い脚が支えていた。天幕には、「寄贈 創立50周年記念 雉山分校」と大きく書かれていた。

「宇都木さん。このテントは?」

多川は宇都木に挨拶をするのも忘れて訊いた。

「山小屋の修理をお願いした時に、山小屋の中に置いてあったんですが、気づきませんでしたか?」

「もちろん、気づきました。でも、そういうことじゃなくて、このテントは、雉山分校のテントですよね? 何故、このテントを登山教室に使っているんですか?」

宇都木は黙ったまま天幕の文字を見上げた。

多川は更に言った。もう一つの異質なものだった。

「このオルガンも、山小屋の中に置いてあるのを見ましたが、登山教室で、合唱でもするのですか?」

テントの下にはオルガンがあった。台座の上にとても古い足踏み式のオルガンが置かれていた。

宇都木は驚いた表情をして言った。

「多川さんは、案外、物事はかくあるべしと考える人なんですね」

その言葉に多川は、いつの間にか、詰問口調になっている自分に気づかされた。登山教室に使うテントに、特にこれといった決まりはない。宇都木がオルガンを演奏して、皆で合唱をしたとしても、何の問題もない。多川は、自分が必要以上に、常識的でなければならないと考える傾向があることを思い出した。そして、それは身勝手な両親への反発心だとすぐに気づいた。

「宇都木さん。すみません。登山教室のことを何も知らないのに」

「いえ。そんなこと気にしないでください。それより、これから、今日の登山教室のまとめの時間です。多川さんも、是非、参加してください」

宇都木は笑顔で言った。

いつもは見せない明るい笑顔だった。それに、動作も機敏だった。元々、年齢に比して若く健康的な宇都木だったが、今日の彼には、それに喜びが加わっている。多川は、宇都木を見てそう感じた。


「皆さん。もう一度、山に登りましょう!」

昼食を食べ終え、少し休んだ参加者に宇都木は言った。

「もういいよ。疲れたし、山登りはあんまり面白くなかった」

「私も同じです」

小学生からも中学生からも、否定的な意見が出た。

「宇都木さん。午前中にも山に登って、午後からも登るんですか? 小学生の参加者には無理なんじゃないですか?」

多川は宇都木に言った。

「大丈夫です。今度は山には登りません。今度は、みんなに山を好きになってもらうんです」

宇都木は笑顔で子ども達を見た。

それから、保護者にも説明した。「今度は、山登りではなく山歩きに利用されている低地にある森に行って、山と一体になるのです」。保護者も子どもも全員、その言葉に惹かれ、宇都木とともに再び山に向かった。多川は、宇都木が説明した山歩きのコースは、自分が、以前、訪れていたコースだと分かった。特に神秘性があるようなコースでもなかったのだがと思いながら、彼も山に向かった。


山の中央にある登山道を登らず、左に向かって歩くと、すぐに森に入る。ここに山歩きに使われるコースがあった。コースをしばらく歩いて、宇都木は道を逸れ、森の中に入った。彼の後に続いていた参加者も、森の中に入った。多川も入った。踏み慣らされた山歩きのコースから森の中に足を踏み入れると、辺りは静寂に包まれていた。森、そして、山が呼吸をしているのが伝わってきた。

宇都木が言った。

「皆さん。裸足になってください。裸足になって山を踏みしめるのです。そして、裸足で歩いてください」

宇都木に言われて、皆、靴と靴下を脱ぎ、素足で立ち、辺りを歩いた。湿り気を帯びた山草を踏む時、その下に揺るぎない大地があることを足裏で感じた。足裏に直に触れる大地を通して全身で山を感じた。大地を踏みしめるごとに山と自分が一体になっていった。その時、

「僕、今、山と一つになっている」

一人の男子小学生が言った。その言葉を聞いた他の参加者も全員、「本当だ。山と一つになっている」と言った。


「みんな、手を繋いで輪になりましょう」

宇都木はそう言って、皆と手を繋ぎ、森の中で輪になった。多川も手を繋いだ。

「皆さんは、今、こう考えていると思います。素足で山を直に感じられているから、山との一体感が得られている。でも、それは少し違います。素足になったから、というのはきっかけです。私たちが山と一つになっていると感じるのは、私たち人間が自然の一部だからです」

「私たちが、森の木や川の水と一緒だということですか?」

一人の女子中学生が宇都木に尋ねた。

「そうです。私たちは、自然と不可分な存在なだけでなく、自然そのものです。その証拠に私たち人間が自然を破壊し続けた結果、自然も人間も滅びる危機にあります。人間は自然そのものです。そのことを忘れた人間のおごりが、地球環境と人間の危機を招いているのです。皆さん。覚えておいてください。自然を大切にすることは、自分自身を大切にすることです」

宇都木は、以前に見た時と同じ教師の顔になっていた。

皆、神妙な面持ちで彼の話を聞いた。


山小屋の前に戻った時には、四時になっていた。この日の登山教室の終了が近づいていた。最後に宇都木祥三は、皆で合唱することを提案した。そして、オルガンの椅子に座った。

「このオルガンは、テントと同じで、私が教師として勤めていた雉山村の分校で使われていたものです。分校が廃校になる時、捨てられるのが、残念で譲り受けました。そして、今、登山教室で活躍してくれています」

宇都木はそう説明して、オルガンを弾き始めた。それから、皆で、『夏は来ぬ』『われは海の子』『ふじの山』などの童謡と唱歌を歌った。宇都木は参加者から、「先生」と呼ばれていた。しかし、先ほどまでは、登山教室の先生という意味で、そう呼ばれていたのが、森の中で皆に話をしてから、小学校教諭という意味での「先生」に変わった。オルガンを弾く宇都木と彼の周りを取り囲む参加者を見ていて、多川は、そのことに気づいた。それはとても自然な変化だった。


宇都木は、生き生きとオルガンを弾いていた。その様子を見て、多川は思った。登山教室とは、宇都木にとって廃校になってしまった分校の続きなのだと。彼は長男常基の死後も村に残って教師を続けた。さぞかし、肩身の狭い思いをしただろう。村人から面と向かって、「村から出て行ってくれ」と言われたぐらいなのだから。どこでも構わないから、他の小学校に異動できたはずだ。分校が廃校になった時は、それ以外に道はなかったはずだった。しかし、彼は教師を辞めるという道を選んだ。でも、教師を辞めたことを悔いているのは、今の生き生きとした彼を見れば分かる。彼にとって教師とは天職だったはずだ。他者から見た客観的な評価ではなく、彼にとって仕事とは教師以外にはなかった。しかし、それを辞めてまで、彼は雉山村に残った。何故だろう? 多川は宇都木を見ながら考えていた。


その時だった。多川の作業服のズボンのポケットに入れてあった携帯電話が鳴った。電話は河辺からだと思った。家の修理の依頼が入った知らせだと思った。彼は電話をポケットから取り出して見た。河辺ではなかった。携帯電話の表示には、辞めた証券会社の先輩社員の名前があった。会社を辞めて一年以上になる。多川は何事かと疑問に思いながら、携帯電話の通話ボタンを押した。

すると、

「多川。すぐD県にあるA病院に電話しろ。電話番号は……」

電話の向こうから、先輩社員の声が聞こえた。緊張した声だった。

「ご無沙汰しています。急にどうしたんですか?」

「すまない。先に説明をしなければならなかった。お前の連絡先が分からないから、A病院から前の勤め先のうちの会社に電話があったんだ。多川さんの連絡先が分かれば、至急、連絡してくださいって」

「何があったんですか?」

「お前のお父さんが、危ないらしい。すぐに面会に来て欲しいということだ」

「危ないって、危篤っていうことですか?」

「おそらく、そういうことだと思う……」


多川は電話を切った。本当はこの後すぐに病院に電話をしなければならなかった。だが、多川はぼんやり考えていた。『父が俺の前の勤め先を知っていた。それをA病院の職員に伝えたから、先輩から電話があった。ということは、俺が就職した頃は、まだ祖父母と父は連絡が取れていたのか。一体、いつ、父はどこへ行ったのかも分からなくなったのか?』。彼の中では、父は心の中にのみ棲んでいた。現実の父については、実感を伴って考えることはなかった。その現実の父の存在を突然聞かされた。しかも、もうすぐ死ぬのだと聞かされた。彼はひどく混乱した。彼は電話で話をするためにテントから離れた場所にいた。しかし、参加者の歌声は彼のところにまで届いていた。そして、宇都木の弾くオルガンの音が、頭の中で幾重にも反響しているような奇妙な感覚に陥っていた。

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