麓4

七月に入っていた。明日から夏休みだった。多川亮一は、山の麓にいた。宇都木が登山教室の時に使っている山小屋を見るためだった。雉山村から麓までは山道を歩いて十五分くらいだった。山小屋は登山客用の売店から少し離れたところにあった。

四月の初めに、多川は宇都木から、雉の看板の製作と山小屋の修理を頼まれた。多川はどちらも急いで完成させた。山荘の前には雉の看板を立てた。今、多川は、自分が立てた看板を見ながら、その時のことを思い出していた。そして、その後、山荘の部屋で、河辺八蔵が彼に話したことを思い出していた。


看板は半日でできた。看板を作るとすぐに山小屋の修理に取りかかった。宇都木から聞いて初めて知ったのだが、彼の登山教室は、山に登ることより、山小屋とその周囲に広がる自然を利用して遊ぶことが中心だった。理由を彼に尋ねると、彼の教育理論に基づくかなり難しい話を聞かされた。正式名称も、『山遊びを通じた人間と自然の親和性再獲得のためのプログラム』だった。誰にも覚えてもらえないので、通称として、「登山教室」にしているのだと宇都木は言った。多川は、そう話す宇都木を見て、初めて、彼が、かつて小学校教諭だったことを実感した。そして、多川は山小屋の修理に力を入れた。山小屋は遮るものもなく雨風にさらされている。そのため、事前に調べた時には分からなかった箇所まで腐食していた。だから、予定より日数がかかったが、懸命に努力して三週間で修理を完成させた。彼は、四月の終わりから始まる大型連休に間に合うように修理を完成させたのだった。


だが、その後、意外な事実が発覚した。宇都木祥三が、「今年から、ゴールデンウィークにも登山教室を開催する」と多川に言ったのは、四月の初めだった。それを聞いた多川は、その時点で、既に参加者も集まっていると思っていた。しかし、実際は、多川と山小屋の修理の打ち合わせをしている最中に、宇都木は、そのことを思いついたのだった。そこで、急遽、参加者を募集した。四月の終わりから始まる大型連休は、大部分の人があらかじめ予定を計画して行動する。だから、宿泊先の予約、電車や飛行機など移動手段の予約も早くから済ませている。というようなことは誰でも知っているし、宇都木も知っていた。にもかかわらず、彼は四月に入ってから参加者を募集した。当然、参加者は集まらなかった。宇都木の思いつきの結果だった。多川は、その事実を知ってショックを受けた。宇都木祥三のことも理解できなくなった。


多川亮一は、ひどく落胆した。それから、しばらく、山荘の仕事もせず、自分の部屋でぼんやりしていた。河辺八蔵が心配して様子を見に来た。窓の外を見ていた多川の近くに河辺は正座した。

「三週間も、山小屋の修理にかかりっきりで完成させたのに、登山教室は開催できないと言われれば、ガッカリして当然です。でも、山小屋を修理したことは、今度の夏休みの登山教室のためだったと思えばいい。実際にそうなんですから。だから、そう落ち込まずに」

多川は、河辺に言われて、確かにその通りだと思った。そのことは自分でも分かっていた。それなのに、ここまで落胆するのは、宇都木に協力することで、多川自身の人生に大きな変化が訪れると期待していたからだった。その期待が裏切られたことへの落胆だった。

「僕も頑張り過ぎて、疲れたんだと思います。ご心配をおかけしてすみません」

多川は居ずまいを正して謝った。気持ちが少し楽になった。

「宇都木さんも、ただ思いつきだけで、新しい計画を実行しようとしたのではないと思います。あの人にも、何か事情があったんでしょう。一人で思い詰めてばかりの毎日ですから」

「宇都木さんは、何をそんなに思い詰めているのですか?」

多川の問いに答える前に河辺は訊いた。

「多川さんは、山小屋の修理の他に登山教室そのものにも協力するつもりなのですか?」

「そのつもりだったのですが、分からなくなりました。山小屋を修理してから、連休が始まるまでの間に、宇都木さんとその話をするつもりでした。そして、河辺さんに相談して、了解してもらえたら山荘の仕事の間に手伝いに行こうかと考えていました。でも、連休の登山教室の話が無くなったと知らされて以降、宇都木さんと交流が途絶えてしまっているので」

多川の話を聞いた河辺が言った。

「お互いに気まずいのでしょう。私が、多川さんの代わりに、宇都木さんと登山教室のことを話します。夏休みは、多川さんも知っての通り、山荘は忙しいので、登山教室を手伝う時間はあまりありません。でも、午後からは客が減りますので、少しの時間なら、登山教室を手伝えると思います」

「何から何まですみません」

多川は頭を下げた。

「ただ、登山教室を手伝うようになると、今より遥かに宇都木さんとの交流が深くなるはずです。そこで、宇都木さんについて、私から、あらかじめ知っておくべきことをお話しします。村にいると色んな噂話が耳に入ってきます。噂話の数々に多川さんが、翻弄されないため事実を伝えます」

河辺八蔵から、穏やかな表情が消え、深刻なものに変わっていた。


「雉山に、尾崖という崖があります。細く突き出しているところが、雉の尾に似ているところから、そう呼ばれています。元々、この山に雉山という名がついたのも、尾崖の形が由来だという人もいます」

「河辺さん。僕も山歩きに訪れていた頃、尾崖を歩いたことがあるので知っています。尾崖が、宇都木さんの過去と何か関係があるのですか?」

河辺は静かに言った。

「今から二十年前、宇都木さんの長男常基さんが、尾崖から落ちて死にました。転落事故でした。事故死です。でも、今も村人は、事故死ではなく自殺だと思っています」

「警察が調べて事故死と判断したんだから、事故死のはずでは? それでも、自殺を疑うなら、そう思う何かがあるんですか?」

多川は、尾崖の話が、突然、宇都木の長男の死に繋がったことに動揺しながら訊いた。

「警察としても、遺書がない。自殺の動機がない。そういうことから事故死としましたが、自殺の可能性を明確に否定したわけではありません。尾崖から常基さんが落ちた瞬間を誰も見ていないのですから」

「でも、それは、同じ状況の転落死なら、常基さんに限らず、誰にでも生じる疑いですよね」

「そうです。ですから、問題は、そこではありません。問題は、常基さんの葬儀の日、宇都木さんの妻伊江子さんが、村人の前で宇都木さんを罵った言葉にあります」

「罵った……」

「伊江子さんは、宇都木さんにこう言いました」


『常基は、この村に来てから、村に馴染めず、ずっと悩んでいた。中学から都会の進学校に行きたがっていた。父さんは、何故、こんな山の中の村に引っ越してきたんだ。あの子はいつもそう言っていた。尾崖で、あの子が転落死をするはずなんてない。あの子は雉山が嫌いだった。だから、雉山に登るはずがないし、普通なら、尾崖に行くはずなんてない。何故、尾崖に行ったと思う? 飛び降り自殺をするためよ!』


多川は、河辺から聞かされた、伊江子の言葉に説得力を感じた。自殺だったのではないかと彼も考えた。だが一方で、彼は河辺にこう尋ねた。

「仮に、自殺だったとして、どうしようもない部分もあったのではないでしょうか? 伊江子さんが夫の宇都木さんを非難することは分かります。但し、それは、夫婦間の問題であって、周囲の人間は、もう少し公平に当事者を見るべきだと思います。だからこそ、河辺さんに訊きたいのですが、常基さんの死が原因で、以後二十年もの間、村の人は宇都木さんを敬遠しているんですか?」

河辺八蔵は、多川の問いに深く頷いた。

「私もそのことをお話ししたかったんです。宇都木さんが、この村に訪れたのは、三十年近く前のことでした。分校に新しく先生が来てくれるということで、皆、喜びました。実際に、宇都木さんが現れると、明るくて優しい人柄に子ども達は、すぐに宇都木さんに懐きました。宇都木さんもまだ若かった。教師というより、優しいお兄さんという感じでした。でも、都会育ちで神経質なところのある伊江子さんは、村人と馴染めませんでした。常基君も、腺病質な子どもで、村の子ども達と仲良くなれませんでした。村のものは、いつ頃からか、伊江子さんと常基君のことを無視するようになりました。二人はこの村には存在しない、そのほうが、村人にとって都合がいいから。そんな風に二人を疎外していきました。そして、宇都木さんも、自分の家族が、疎外されていることに気づいていました。でも、黙認していました。村で生き生きと生活する自分にとって、村を嫌悪する伊江子さんと常基君の存在は、宇都木さんにとっても、都合が悪かったからです。だから、宇都木さんと村人は、心の底で繋がっていました。それが、常基君の死で露呈した形になったのです。あの時、常基君は、高校二年生でした。高校二年生の若者の死は、宇都木さんと村人の関係を炙り出しました。心の底で繋がっていたことが、何を意味するのか? 宇都木さんと村人は、伊江子さんと常基君を疎外し、孤立させていた「共犯関係」にあったのです。常基君の葬儀が終わると、伊江子さんは、すぐに村を去りました。宇都木さんとも離婚しました。彼女の立場で考えれば当然だと思います。だが、宇都木さんは、その後も、雉山村に残りました。我々は理解できませんでした。宇都木さんにとっても、もはや雉山村は、暗い出来事、暗い思い出しかない場所でした。普通ならば、逃げるように村を離れるはずでした。そして、私たち村人も、そうして欲しかったのです。何故なら、宇都木さんが村にいる限り、我々村人も、伊江子さんと常基君を除け者にしたこと。そして、そのことが、もしかしたら、常基君を自殺に追い込んだのではないかという思いに悩まされ続けなければなりません。だから、宇都木さんに『さっさとこの村を出て行ってくれ』と言うものまでいました」

多川は呟いた。

「恐ろしく身勝手だ。宇都木さんも、村の人たちも」

河辺はうなだれた。

多川は、その様子を見て慌てて言った。

「でも、河辺さんは、宇都木さんと仲良くしていますよね」

「分校が廃校になってから、宇都木さんが、農業の傍ら登山教室を始めました。私は、村の中で、直接、山の観光に携わっている数少ない人間ですから、どうしても、関わらないわけにはいきませんでした。そのうちに、昔のようにつき合えるようになりました。でも、その前は、私も、宇都木さんに早く村から出て行って欲しいと思っていたんです」

「河辺さんにまで、そう思われていたということは、宇都木さんは、本当に孤立無援の状態だったわけですね。僕が宇都木さんの立場だったとしたら、やはり、すぐに村を出ます。でも、宇都木さんは、今も村で生活しています。登山教室は恒例行事にまでなっている。僕には、宇都木さんが村に骨を埋める気でいるようにさえ思えますが? 河辺さん。宇都木さんは、何故、雉山村を離れようとしないのですか?」

「私にも分かりません。つき合いが長くなり、私も、宇都木さんと仲良くなりました。その分、気になることも増えました。でも、仲良くなると、かえって、訊けないことも増えました」

「僕でできることがあれば、やってみます。つき合いの浅い僕だからこそ訊けることもあるかもしれません」

「多川さん。ありがとう」


梅雨の開けた七月の空は晴れた日が続いている。日の光は、山小屋の前にいる多川亮一にも容赦なく降り注いでいた。宇都木祥三は、明日からの登山教室の準備のために、車で街に降りていた。多川は、ふと以前に、河辺八蔵が、山荘で働かないかと誘った本当の理由は、宇都木が何を考えているのか。それを自分の代わりに調べさせるためだったのかもしれないと思った。もちろん、思い過ごしだった。だが、結果的に、そうなっている気もした。

多川は考えるのをやめた。そして、目の前にある雉の看板を真っ直ぐに立て直すと、山道を降りて山荘に帰った。


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