麓3
宇都木祥三の自宅は古い木造平屋建てだった。宇都木に続いて多川も家に上がった。家の中は静かだった。玄関を通ると左手に台所があった。テーブルの上に土のついた野菜が置いてあった。右手に座敷があった。日焼けした畳が敷かれた八畳間だった。多川は、宇都木は畳を替えてくれと言うのだろうかと思った。
しかし、違った。
「多川さん。お忙しいところをすみません。実は相談したいことがありまして、どうぞお座りください」
宇都木に言われて居間の座卓についた。
向かいに座った宇都木は、こんな話を始めた。家の修理とは関係のない話だった。
「山荘の玄関に飾ってある木製の雉の看板は、多川さんが作ったと河辺さんから聞きました。あの看板と同じものを作って欲しいのですが?」
「宇都木さん、突然、どうしたんですか? 」
多川は驚いて宇都木の顔を見た。真剣な表情をしていた。
雉の看板とは、二月ほど前に、多川が、山荘の裏の物置小屋に置いてあった板を使って作ったものだった。多川の胸くらいまである高さの板に、彼は鉛筆で雉の絵を描いた。リアルな雉の絵ではなく、デザイン化、あるいは、イラスト化した絵を描いた。実際の雉は、かなり鋭角的な鳥だが、イラスト化して少し愛嬌を持たせた。その後、小型のノコギリを使い、下絵に沿って切り込みを入れた。彼は看板を作るに際して、切り絵を参考にした。まず雉の輪郭に、それから、雉の特徴である尾を表すため、長い切り込みを入れた。羽を表すため、それと、頭と首の部分を表すため、それぞれに切り込みを入れた。目もくり抜いた。切り込みを入れ終わると、素地の木目が透けて見えるように薄くペンキを塗った。赤色のペンキを顔の部分に、青色のペンキを頭と首に塗った。胴体の部分は胸の辺りだけ緑色に塗った。最後に、「雉山山荘」の文字を描き、脚をつけて看板にした。
河辺夫婦に見せた。二人とも、これは良いと喜んだので、早速、山荘の玄関に立てたものだった。多川は、山荘で働くようになってから、玄関に何も装飾がなく、殺風景なことが気になっていた。昨年の夏休みに親子連れが多く訪れた時、特にそのことを感じた。それから、毎日が過ぎる中で、何かできることはないかと考えていたら、ふと物置小屋に置いてある木の板のことを思い出した。そして、雉山を表す意味で、雉の看板を作ろうと思った。多川は祖父の下で修業をしている時、余った材木を使って、よく“工作”をして遊んだ。自分の部屋で使う机と椅子も作った。腕を磨くのに木彫りの鷹や龍を造ったこともあった。だから、看板を作ることは簡単だった。それでも、作ってみて、我ながら、良いものが出来たと思った。今年の夏に山荘を訪れる子どもたちも、喜ぶだろうと考えた。随分気が早いが、彼はそんなことも考えた。
多川はその時のことを思い出していた。すると、宇都木が言った。
「多川さん。すみません。順番が前後してしまいました。登山教室を行う際に使っている山小屋が古くなって修理が必要になっています。その修理を多川さんに依頼したいのです」
「家ではなく山小屋の修理ですか。大丈夫です。やれます。修理に日数がかかる場合、河辺さんに、その間は、山荘のほうの仕事は休ませてもらうようお願いします」
「申し訳ありません。お願いします。そこで、雉の看板のことですが、山小屋を修理する時に、山荘にある看板と同じものを山小屋にも立てて欲しいのです。ということは、その日までに、多川さんに、もう一つ看板を作って欲しいということなんですが?」
「それなら、すぐにできます。それより、あの看板を立てて、子ども達が、そんなに喜びますか? もっと可愛い雉のデザインにしましょうか?」
「いえ。あのままで。せっかく山登りということで勇壮な気持ちになっている子ども達が、子ども向けのデザインで迎えられたとしたら、子ども扱いされていると、ガッカリすると思うんです。ですから、多川さんの大人向けでもあり、同時に、子ども向けでもあるあのデザインがいいのです。これまでにも、何の装飾もない山小屋に、何か登山教室としてのトレードマークのようなものが欲しかったんですが、そういう意味からも見つかりませんでした。だから、山荘の看板を見た時、私も使わせて欲しいと思いました」
多川は、宇都木の話を聞いていて、自分の雉のデザインの意図をよく理解していると感心した。彼が、かつて教師だったから、ということや、今、登山教室をやっているから、ということ以前に、彼自身の感受性が豊かなのだろうと思った。だが、それらのことには触れず、多川は、素直に褒められたことへの感想だけ述べた。
「そんなに高く評価されると恥ずかしいです。軽い気持ちで作っただけですから。ただ、二カ月前に作ったんですが、その時、夏休みに訪れる子ども達が喜ぶだろうと思いました。登山教室の子ども達のことです。つまり、私も子ども達のために作ったのかもしれません」
多川はそう言って宇都木の依頼を快諾した。
「多川さんも、登山教室の子ども達のことを考えてくれていたとは嬉しいです。子どもが好きですか?」
宇都木は笑顔で訊いた。
多川は、その質問に答えようとして、答えが分からないことに気づいた。彼には遠景なのだった。彼にとって、登山教室に訪れる幸せな親子連れも、笑顔ではしゃぐ子ども達も、全て遠景であって、彼自身とは直接の関わりを持たないものだった。彼は親子の情愛を知らない。罵り合う父と母の姿しか知らない。祖父母の愛情は知っているが、祖父と祖母は、父と母ではない。だから、彼には親子という家族の姿は、遠景にしか見えないのだった。
「多川さん。どうしました?」
宇都木が、じっと多川の顔を見ていた。
「すみません。山小屋に置く看板は、山荘の看板より大きいものになるのかと考えていたら、寸法のことが気になって」
多川は、全くそんなことなど考えていなかったが、慌てて出鱈目を言った。
「寸法は、明日にでも、私がすぐに計りに行って来ます」
「お願いします。それと、早速、山小屋の修理箇所を教えてください。おおよそ、どれくらいの期間がかかるか分かると思うので」
そして、二人は山小屋の修理の打ち合わせをした。
その夜のことだった。多川は山荘の一階の奥の自分の部屋で考えていた。山小屋の修理当日の前に、多川も、一度、山小屋に足を運んで修繕箇所を確認する。だが、昼間の宇都木の説明を聞いて、その必要がないほどだと思った。それくらい、宇都木は、山小屋の状況について詳しく説明した。多川はメモを取りながら、現場の状況が克明に頭に浮かんだほどだった。それだけに宇都木の説明は長かった。しかし、多川が、宇都木の家にいた時間は一時間半だった。一時間半くらいなら、村の家の修理の打ち合わせに行った先で、それくらいの時間を過ごすことがある。但し、その場合は、打ち合わせの大部分が、家の人との世間話で終わる。今日の場合は、その正反対だったのだ。宇都木と多川の間には暗黙の了解があった。仕事以外の話は一切しない。お互いに個人的な話、つまり、身の上話は一切しないという暗黙の了解があった。だから、一時間半の全てが山小屋の修理についてだった。話のボリュームに比して最短の時間で打ち合わせが終わった。
多川亮一は他人と話をすることに特に苦痛は感じない。だが、今日ぐらいタイトな打ち合わせには息の詰まる思いがした。否、息の詰まる思いがした本当の理由は、お互いに身の上話という“地雷”を踏んではならないという緊張感の中で話をしたからだ。実際のところ、多川は、自分の両親の話を宇都木にしても構わないのだが、彼が、それをすると、宇都木も、自らについて語らなければならなくなる。そのため、彼は、今日、仕事の話だけで帰って来た。
畳の上に寝転がっていた多川は、起き上がった。窓を開けて夜空を見た。星が輝いていた。夜空は驚くほど近く、星は手を伸ばせばつかみとることができる気がした。多川は、星空を求めて雉山に来たのだ。昨年の春に雉山を訪れてすぐ、彼は山荘の外に出て満天の星空を眺めた。気の遠くなるほどの感動に襲われた。だが、星空を見上げても、何故か、両親のことは思い出せなかった。それ以降も、同じだった。多川は、雉山を訪れてから、両親のことを思い出せなくなっていた。
星空を見るのは久しぶりだった。そして、この夜、雉山に来て、初めて両親のことを思い出した。この一年、思い出せなくなっていたのが、この夜、思い出せた。昼間、宇都木と二人でいたことが影響したのだと思った。過去を知られることに、多川より、遥かに強い警戒心を抱いていた宇都木祥三を間近で見ていて、多川は思った。この男は自分より、もっと暗い過去を背負っていると。そして、そのことは多川の想像だけではなく、宇都木が村人から長い年月、疎外されている事実によって裏付けられている。その時、多川は、“不幸仲間”を得た気がした。宇都木という暗い過去を持つ仲間の存在を知って、彼は両親のことに向き合う勇気が湧いた。多川亮一は、宇都木祥三の存在を、自分にとっての逆説的な救世主だと考えた。
多川は、この夜、何故、自分が両親のことを思い出せなくなっていたのかがようやく分かった。雉山に来て、両親のことと真剣に向き合うことになった彼は怖くなった。彼はいつもこう考えている。思い出とは、忘却の過程で、少なからず美化されていくものだ。だが、真正面から、対峙した時、思い出は記憶に変わり、容赦なく過去の記憶を現在に蘇らせる。父が母を殴ったこと、母が食器を片っ端から割ったことなどが際限なく蘇る。多川は、それが怖かった。忘れたはずの暗い記憶の塊が襲ってくることが……。そこで、彼は無意識的に両親のことを思い出すのを封印した。そして、一年後の今日、その封印を宇都木が破った。
多川は、雉山に来てから、毎日を健康的に過ごしていた。だが、彼がこの山に来た目的は、健やかに生きることではなかった。彼は、今日、ようやく雉山での本当の日々の始まりを感じた。
今年からゴールデンウィークにも登山教室をすると、宇都木祥三は言った。もう四月に入っていた。雉の看板作り、山小屋の修理を始め、多川も連休の登山教室開催に向けて宇都木の協力をしようと思った。
「父さん、母さん、もうすぐ、あなた達のことを忘れられます」
彼はそう呟くと、窓の外に大きく広がる星空を眺めた。
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