麓2
多川亮一の部屋は山荘の一階の奥にある。元々は客室だった。泊まり客が減ったため、使うことが無くなり、納戸になっていた。多川が住み込みで働くことを希望したため、荷物を片づけて、多川の部屋にした。多川は、村には、アパートもマンションも無いことを知っていたから、山荘で働くことを決めた時、すぐに電話で山荘の主人に相談した。その時、主人の河辺八蔵は、一部屋を多川のために使えるようにしておくと約束したのだった。部屋は六畳の和室だった。納戸に使っていた痕はなく、古いが綺麗な部屋だった。
一年前、彼は営繕係として働くために山荘を訪れた。客間で多川は河辺から、仕事について説明を受けた。その時、問題が発覚した。多川の中では、営繕係とは、壊れたドアを修理する、あるいは、水の流れの悪い洗面台を直す、といった仕事だった。雑務全般といった感じだった。しかし、河辺の認識は違った。彼は、営繕の本来の意味である「建物の建築と修理」の中の修理と捉えていた。そして、多川を、古くて傷んだ箇所の増えた『雉山山荘』の修理をする係として雇ったのだった。営繕という言葉の解釈を巡って二人の間に齟齬があることが分かった。どちらの解釈も間違ってはいない。ただ、この時、慌てたのは、多川より河辺だった。営繕係の仕事内容について具体的に説明しなかった。そのために、多川が、自身の言葉の解釈に基づき証券会社を辞めた可能性が大きいからだった。詳しく訊かなかった多川にも、当然、責任はあった。しかし、現実問題として、仕事の内容が雑務全般ではなく、山荘の修理であることに河辺は慌てた。つまり、大工仕事なのである。雨漏りの修理のために二階建ての山荘の屋根に登り作業をする。あるいは、一部だが壁の塗り替えも考えていた。普通に考えれば、大学を卒業して、昨日までサラリーマンをしていた男にできる仕事ではない。河辺は、以前、山荘で多川と話をした時、彼にここで働かないかと誘った自分を悔いた。
二人の認識が全く違ったことを知った河辺は、客間で向かい合う多川の顔を茫然と見ていた。
すると、多川が河辺に言った。
「山荘の修理ですが、できると思います」
その言葉を聞いて、河辺は、
「本当ですか? これで助かった」
と思わず本音を言った。
多川は河辺を見ながら、素直な人だと思った。河辺八蔵は、八十近い老人のはずだったが、ずっと若く健康的な男だった。自然の中に暮らしているからだろうと思った。それに比べて、まだ三十半ばにもかかわらず、くたびれている自分を多川は顧みた。『過度なストレスと不規則なサラリーマン生活の帰結』。彼は心の中で呟いた。
それから、一年、多川は、『雉山山荘』の修理を営繕係として行っている。雉山山荘は、木造二階建ての建物で、二階に客室が八室。一階も元々は同じように客室があったが、随分前に、日帰り登山客向けに改築して、今は客室はない。その代わりに、広い座敷の食事の間とその隣に休憩用の座敷がある。大きな山荘ではないが、その分、泊まり客が見込めなくなった時に、すぐに日帰り客向けの山荘に改築できたのだった。それから、歳月を経て、再び古びた山荘になり、傷んだ箇所が増えてきた。多川はそれらの箇所を直した。河辺に頼まれ、雨漏りの修理のために二階建ての山荘の屋根に登り作業をした。次に、二階の木製の雨戸が風雪にさらされ朽ちていたため、彼は二階の雨戸を取り替えた。このように彼は山荘の修理を行った。
何故、元会社員の彼に山荘の修理ができるのか? その理由は簡単だった。彼の祖父が、「多川工務店」という工務店を営み、建築から修理まで、住宅に関するあらゆる工事を行っていた。そして、多川は、祖父の跡を継ぐつもりで、中学に入った頃から、ずっと祖父の手伝いをしていたからだった。二親に捨てられたも同然の彼は、どんな状況でも生き残るためには、手に職をつけなければならないと思った。だから、祖父の持つ建築の技術を学ぼうと努力した。結局、祖父母の強い意向で、大学に進学することになり、中途半端な形で終わってしまったが、彼には、山荘を修理するぐらいの技術は十分にあった。ちなみに、祖父母の強い意向とは、「祖父の工務店を継いでも、多川には、常に、両親への悪い噂がつきまとっている。そのため、仕事の依頼が来ない危険がある。施主は縁起を重んじ僅かな悪評も厭う。だから、やめておけ」ということだった。高校二年の時に祖父母から言われ、多川は、慌てて受験勉強を始めた。こんなことになるのなら、いっそのこともっと早く言ってくれれば良かったのにと彼は思った。しかし、祖父母は、懸命に努力する孫が不憫で言い出せなかったのだった。
その日、彼は、二階の屋根の雨どいの修理をしていた。梯子に上って作業をしていた。地上からかなりの高さがあるが、多川は臆することなく作業をしていた。順調に進み作業はほぼ完了していた。その時、梯子に上っている多川に下から声がした。
「多川さん。高いから気をつけてくださいよ」
八蔵の妻の善枝だった。
下を見ると、八蔵と並んで善枝が立っていた。善枝も八十前、八蔵と同じで若く健康的だった。
「ちょうど終わったので下ります」
多川が返事をすると、二人とも笑顔で頷いた。
多川は梯子を下りると河辺夫婦に他にすることはないかと尋ねた。
すると、
「山荘のほうは、今日はこれで終わりです。それで、今から、この前、電話があった宇都木さんの家の修理をお願いします」
と八蔵が言った。
多川は、「分かりました」と返事をすると、修理道具だけを持って村の中に向かった。この日は山荘の客は少なかった。こういう日は、多川は、営繕係の仕事が終わると、それで一日の仕事が終わりになった。原則的にはこの労働形態だった。例外は、土日、あるいは、夏休みのような繁忙期で、この時は、多川も山荘の接客を手伝う。配膳を運ぶ、温泉の脱衣所を片づけるなどの仕事をする。だが、その限られた時以外は、多川は仕事が早く終わると時間を持て余した。そこで、村の中で修理の必要な家があれば、自分が修理に行くから、村人にそのことを伝えてくれと河辺に頼んだ。了解した河辺が、村人に伝えたところ、少しずつ依頼が来るようになった。これから行くのは、宇都木祥三という独り暮らしの男の家だった。
すれ違う村の人に挨拶をしながら、多川は、村の中を歩いた。彼は、今、上下鼠色の作業服を着ている。山荘で働き始めた頃は、トレーナーにジーンズ姿だったが、それでは村人から、いつまでも自分が誰なのか認識してもらえないことに気づいた。そこで、彼は、作業服を着るようになった。一転して、村人は彼のことを、「雉山山荘の営繕係」と認識した。すると、彼の名前と顔も自然に覚えた。多川は、その時、属性を表すユニフォームが有する効果を実感した。
雉山の登山客は、村に入って来ることはない。登山客は、村の入り口にある「雉山山荘」に寄る以外は、駅と村との間にある木橋を渡ることはない。駅を降りてすぐ目の前にある登山道を歩いて、山に行く。登山客用の売店は、山のすぐ麓にある。だから、村の中は、村人以外はいないひっそりとした空間だった。同時に、村人以外は入りにくい排他的な空間だった。実際に、多川が、作業服を着たことによって雉山山荘の従業員だと認識された時まで、村人の彼への態度は冷たかった。また、彼の属性を認識すると、驚くほど態度が変わったことにこそ、彼はより村の排他性を感じた。
多川が歩きながら、そんなことを考えているのには、理由があった。宇都木祥三という男は、三十年近い歳月をこの村で生きながら、村人から距離を置かれていた。多川が、そのことに気づいたのは、昨年の夏のことだった。宇都木は、夏休みの間、小中学生を対象に山登りの教室を開いている。長年、開催しており、参加者も多く、雉山の夏の恒例行事になっている。参加している親子連れが、雉山山荘にも休憩に寄る。その関係からも、河辺夫婦と宇都木祥三は親しかった。多川は、昨年の夏、宇都木が山荘に寄った時、初めて話をした。七十前後の気のいい男だった。多川は、その人柄に好感を持った。それ以降、村の家々に修理に行くたびに、宇都木の話をした。すると、何故か、村人が口ごもることに彼は気づいた。露骨に嫌な顔をするものもいた。
疑問に思った多川は、ある時、河辺八蔵に訊いてみた。
「村で宇都木さんの話をすると、嫌がられるんですが、何故ですか?」
河辺は、しばらく考えてから言った。
「宇都木さんは、昔、都会から、この村の小学校で勉強を教えるために引っ越してきた教師だったんです。もう廃校になった分校ですが、教員不足を知って、地域によって教育格差が生まれてはいけないと理想に燃えてやって来たんです」
「立派な人じゃないですか? それが何故、避けられるんですか?」
「立派といえば立派ですね。あるいは、立派すぎたのかもしれません」
河辺の話が分からないので、更に、多川が訊こうとすると、「まあ、世の中、色々ありますよ」と逃げられた。
多川は、修理箱を右手に持ちながら宇都木の家に向かった。途中、すれ違った村人から、
「多川さん。今から、また修理ですか? ご苦労さま」
と笑顔で声をかけられた。
この村はよそ者には酷薄だが、村人には親切だ。そして、村人に準ずるものにも親切だ。それが、自分のような「準村人」ともいうべき人間だ。祖父母の生きた村も同じだった。どこでも同じだ。それなのに、宇都木祥三が、三十年近くも、この村で生活しているにもかかわらず、敬遠されているのだとしたら、その原因は何だろう?
考えている間に、多川は、宇都木の家の前についた。庭の畑を耕す宇都木の姿があった。宇都木は痩せた男だった。しかし、弱々しくはなかった。白髪混じりの短い髪と日に焼けた顔には、彼の意志の強さが感じられた。同時に、そこに疎外されているものの哀しみは感じられなかった。多川は、「雉山山荘の多川です。家の修理に来ました」と宇都木のことなど微塵も考えていなかった振りをして、庭木戸を開けた。
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