星空の下の物語
三上芳紀(みかみよしき)
麓
多川亮一が山荘で働くようになって一年になる。以前は証券会社に勤めていた。彼は都会での生活に疲れ、あるいは、マネーゲームに明け暮れる日々に疲れ、この山に移り住んだのではなかった。但し、都会で暮らす中で、彼の中に渇望が生じたことを考えると、前者は、彼が山に移り住んだことに全く関係がないわけではなかった。多川は、満天の星空が見たかった。そして、星の見える夜は、いつでも夜空を見上げたかった。
多川は、今年で三十五歳になる。彼の両親はどこにいるのか分からない。彼が子どもの頃に離婚した。彼は父方の祖父母の家に預けられた。一時的なものかと思っていたら、成人するまで祖父母に育てられた。多川は、その間、彼の両親が、どこで何をしているかを祖父母から、大まかにだが教えてもらっていた。特に父は祖父母にとって、一人息子だった。何をしているのかが心配で色々と調べていた。但し、何故、父あるいは母が、自分を迎えに来ないのかは教えてくれなかった。だが、多川はその理由を知っていた。二人には、それぞれに愛人がいた。父も母も、多川に対して不用心だった。子どもが気づくはずがないと彼のいる前で携帯電話を使って愛人と話をした。分からないわけがなかった。離婚した後、愛人と新しい生活を送るのに多川の存在は、父にも母にも邪魔だった。押しつけ合いの結果、多川は祖父母の家に預けられたのだった。
祖父母の元に預けられてから、静かな毎日を送れるようになった。父と母は、毎日、口喧嘩をしていた。二人の喧嘩に内容など無かった。憎しみのぶつけ合い。それだけだった。
数年前に、祖父と祖母が立て続けに病気で死んだ。彼は一人になった。父は祖父、祖母どちらの葬式にも現れなかった。そのことは、多川を失望させた。その頃、父と母がどこにいて何をしているか多川は知らなかった。親戚づき合いもない彼は天涯孤独の身になった。
彼は二十代の終わりに恋をした。結婚を考えた。でも諦めた。両親が離婚したことは、引け目には感じなかった。それより、祖父母の家に捨てられるように預けられた事実と、その理由を恋人に伝えることができなかった。恋人は幸せな家庭に育った幸せな女性だった。伝えても、理解できなかっただろうし、彼女には背負いきれない重い事実だと思った。つまり、「私の夫は子どもより愛人との生活を優先した両親に捨てられた人です」という事実を背負えるかということだった。長い年月を経て、辛い事実を背負うことに、多川自身は慣れてしまっていた。でも、だからこそ、彼には分かった。彼女には、あまりにも重すぎる。そして、そのことで、彼女が辛い思いをするのを想像すると、彼は諦めるのが最善の選択だと思った。
それ以来、仕事に打ち込んできた。しかし、何か大事なことをしないまま日々が過ぎている気がした。そして、その思いは、日増しに強くなっていった。仕事から帰って、当時、住んでいたワンルームマンションの部屋の窓を開けると、夜空は見えず、代わりに、同じようなマンションのベランダが見えた。多川の部屋より少し高いところのベランダで煙草を吸っている男がいた。暗がりの中に煙草の燃える小さな赤い火が見えた。背後から部屋の灯りが男を照らしていた。男の顔は見えなかった。甲高い女の声が部屋の中からすると、男は、返事をして戻っていった。いつもその繰り返しだった。昨年の三月の初めのことだった。夜、多川は、男が吸う煙草の赤い火を見ていて涙が止まらなくなった。自分でもどうしようもなかった。何故、泣いているのか彼は考えた。星空が見えないからだと気づいた。それから、祖父母の家から見えた星空のことを思い出していることに気づいた。幸せな思い出なんて一つもないのに無性に懐かしくなった。仕事を辞めて帰ろうと思った。だが、考えた。祖父母と暮らしたあの村に帰るのには、未だあらゆる記憶が鮮明すぎて、かえって、傷つくばかりになる。村には会いたくない人だって多くいる。もっと何もかもが風化して、無害化されてからしか、帰ることはできない。
多川は、そのことに気づいて、以前から、山歩きに訪れている山に移り住むことにした。言わば、故郷の代わりだった。彼はそれほどに澄んだ星空を見ることを渇望していたのだ。もちろん、星空を眺めるのが、真の目的ではない。多川の真の目的は、自分を捨てた両親を忘れるためだった。祖父母の家に預けられてから、ずっと星空を眺めながら、両親のことを思っていた。捨てられたことへの憎しみよりも、いつか迎えに来てくれるという願いが強かった。その願いは裏切られ続け、いつからか、人生そのものへの諦めになっていた。今、振り返れば、結婚を諦めたこともそうだった。あの時、それが恋人への優しさだと自分では思っていた。でも、彼女は本当にそんなことを望んでいたのだろうか? 多川は全てが分からなくなった。彼は、ずっと心の中に棲む両親のことを忘れようと思った。愛憎入り混じる両親への思いを全て忘れない限り、本当の多川亮一の気持ちが分からないと思ったからだった。忘れるためには、一度、しっかりと両親への思いと向き合わなければならない。そのために、彼は会社を辞めて山に移り住むことにした。故郷の代わりの山の麓の村に住み、忙しく日々が過ぎる会社では向き合えない自分の心と向き合おうと決めた。
移り住んだ山は雉山といった。低い山だから、日帰りの登山客が多く、彼が、今、働いている山荘も、泊まり客より、日帰りの客を中心にして営まれている。具体的には、温泉が湧いているから、温泉の入浴と食事を提供することだった。宿泊は、当然、これに宿泊のサービスが加わる。そして、彼が、この山に移り住もうと思った時、すぐにこの山荘に連絡したのには理由があった。毎年、春と秋に多川は、山歩きに来た。山歩きが終わると、山荘で温泉に入り、食事を取った。それから、しばらく休憩をした。一昨年の秋のことだった。彼は山荘の主人と少し話をした。
「訪れる度に思いますが、ここはいい山荘です」
「ありがとうございます。建物が古くなってきたから、直さないといけないんですが。ただ、建物は直せば、まだ使えますが、働き手がいないんです。みんな、村の年寄りばかりです。力仕事ができないし、この先のことを考えると頭が痛い。多川さん。どうですか、思い切って、ここで働きませんか?」
その時の主人の目が冗談を言っているようには見えなかったことを多川は覚えていた。
山荘の名前は、『雉山山荘』といった。山荘の主人に連絡を取り、営繕係として雇う意思があることを確認すると、多川は証券会社を辞めて、すぐに雉山に移り住んだ。
多川の住んでいた街から雉山までは電車を乗り継いで三時間くらいだった。電車を降りて駅から少し歩けば山荘に着く。山荘は山の麓の村の中にある。村の名前も雉山村だった。駅から村の間に古い木の橋が架かっている。橋を渡ると小さな集落がある。山荘は集落の入り口にあたる場所にあった。
木造二階建ての古い建物だった。それほど大きくはない。入り口のところに、『雉山山荘』という看板が掲げられていた。多川亮一は、一年前の春、木橋を渡り、『雉山山荘』に向かった。彼の心の中に棲む両親の影と決別するため。そして、混じり気のない本当の自分の心に出逢うため、彼は木橋を渡ったのだった。
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