第5話
初めてセックスをしたのは、スタントマン養成所の先輩だった。
十八歳で家を飛び出し、都会に出てきて暫くはビジネスホテルで暮らしていた。
法律で十八歳が成人とされたことを、私は感謝した。そうでなければ、二十歳まで後二年、私は保護者の許可なしには、何もできなかった。
けれど、取り敢えず飛び出してきたものの、何をしたいのか、何をしたらいいかわからず、地図を持ってあちこち歩き回った。
そして偶然街でドラマの撮影をしている現場に居合わせ、そこでスタントマンと呼ばれる人達のことを初めて知った。
「どうやったらスタントマンに慣れますか?」
体を動かすのは得意だった。何しろ幼い頃から野山を駆け回り、足腰を鍛えてきた。全ては碧のため。時には影武者として表に立ち、それ以外は常に彼女の側にいて身を護るため、一通りの武術は身につけた。
何の資本もなく、この体だけを武器にするならこれだと思った。
その時現場にいたのが、その先輩だった。
先輩たちが所属するスタントマンの斡旋所は養成所も運営していて、地方から出てきた子たち用に下宿も完備されていた。
六畳の部屋に、二段ベッドを置いての共同生活だった。
同性同士の相部屋だったが、男性も同じ建物に住んでいたため、よく皆で一緒になってご飯を食べたり、お互いの部屋を行き来していた。
下宿で暮らし始めて初めての夏、他の皆はお盆で帰省していて、下宿には私とその先輩だけだった。
先輩は養護施設出身で帰る家もなく、私は家出をして出てきていたから帰らなかった。
若い男女がひとつ屋根の下に二人きり。そういう関係になるのは、自然なことだった。
お互い好意はあっても、恋心は持っていなかったが、初めての私に先輩は優しくしてくれた。
先輩とは、それから何度となく抱き合ったが、その先輩も結婚して、この前女の子も生まれた。
今はもう、彼とはやっていない。き合ったり、セックスしたりする上で、特定の相手がいる男性とはしないという、最低限の倫理は持っていた。
でも立樹は、私がずっと想い続けてきた相手。
碧と夫婦になる前に、せめて思い出が欲しかった。
「翠様、…おやめ…ください」
仕える家の娘をきつく跳ね除けることも出来ず、立樹は手の甲で口元を抑え声を我慢する。
私は立樹のスラックスのファスナーを下ろし、股間に顔を埋めていた。
立樹は必死で抵抗を試みたが、私はやめなかった。
「っ…す、翠さま…やめ…」
「黙って」
ペロリと舌舐めずりして、彼を上目遣いに見る。
頬を赤らめて瞳を潤ませ、はあはあと肩で息をしている。
「考えが浅かったね。私はもう立樹が知っている翠じゃない。私は変わったんだ」
立樹の脚の間に跨り、膝立ちなると上着の裾を持ち上げ、履いていたレギンスを下着ごと膝まで下ろした。
「!!!」
立樹は私の股間を、食い入るように見つめた。
「翠様、それは…」
「若気の至り」
立樹の驚く顔を見て、私はほくそ笑んだ。
「す、翠様、何を! そん、そんなこと…お、お放しください」
「だめ!」
逃げようとする彼の手首を掴んで、引き止める。
「ほら、私を気持ちよくさせてくれたら、言うこと聞いてあげるから」
殆ど脅迫である。つまるところ胡桃沢の者の命令を桐生家の者が拒めるように出来ていない。殺人や死ねといったことな命令できないが、大抵のことは聞き入れるよう、生まれながらに刷り込まれている。
「ああ、そう…そう…立樹…」
「翠様…」
腰が自然と揺れ姿勢を保っていられなくなり、手をついた。窓を開けるボタンに触れたらしく、窓が僅かに開いた。
外気と街の喧騒が車内に入り込む。
「翠様…おやめください。これ以上は…」
立樹はまだ抵抗しようとするが、私は無視した。
「翠様…はあ…やめ…」
「私に帰って来てほしいなら、これくらいの犠牲は必要でしょう」
「翠様…このようなこと…」
「うん、バレたら困るだろうね」
当然のことだ。普通でも結婚する相手になる人の姉妹と性交渉するのは倫理的におかしい。でも私は満足していた。これで自分の初恋に終止符が打てる。
勝手な言い分だ。立樹の意思を無視したものだったが、私の想いは満たされていた。
「ごめんね、立樹。あなたは悪くない。悪いのは全部私」
「いいえ、抗えなかった自分にも責任が…」
居住まいをただし、リュックから取り出したタオルで汚れを拭き取る。車内に設置された空気清浄機がモーター音楽を響かせて、匂い立つ情事の痕跡を消していく。
「翠様…もし子どもが…」
「安全日だし、アフターピル飲むから大丈夫」
「しかし万が一…」
「そうなっても、立樹に責任は取らせない。私だけの子供として自分で判断する」
妊娠の可能性は低い時期だったし、生理不順のため婦人科には定期的に通っていた。
アプリで管理もしている。だから大丈夫だと思う。
「そんな…翠様」
「ここであったことは、一生誰にも話さないから、立樹もそのつもりでいて。はい、忘れました」
パンっと両手を叩いて話を打ち切った。
「ねえ、そろそろアパートに戻してくれない? 殆ど徹夜で眠いのはホントなの」
「……では、約束どおり、帰ってきていただけるのですね?」
我が身を犠牲にした立樹は、しつこく確認する。
「翠様?」
「わかったわよ」
「ありがとうございます」
私の返事を聞いて、心底嬉しそうに彼ははしゃいだ。
それから三十分ほどで、アパートに辿り着いた。
「約束だからね。これが最後で一度は帰る。でも今は撮影中で、終わるのが来週になる」
「わかりました。お待ちしております」
「私が帰るかもって他に人には言わないでくれる? 変に身構えられると帰りづらいから」
「わかりました」
車が着いて、運転手がドアを開ける前に自分から降りた。
「翠様」
立樹も降り立つ。
「なに?」
「翠様との思い出、この立樹、一生忘れはいたしません」
「忘れた方が身のためだと思うけどね」
「いいえ、あれほどの体験は、おそらく二度とできないでしょう」
「それは良かった。トラウマになったら寝覚めが悪いもの」
「ですが…」
なおも立樹は話を続ける。
「翠様には、心から愛しいと思える相手と巡り会えることを願っております。そしてその方と末永く幸せに過ごしていただきたい」
「それは何かの呪いかしら」
「いえ、純粋にそう祈っております。もう少し御自分を大事になさってください」
小姑の小言みたいだった。
「それはどうも」
肩を竦めて受け流す。私の態度から、その忠告を聞く気がないのがわかったのか、それ以上は彼は何も言わなかった。
「では、お帰りをお待ちしております」
そして立樹は再び車に乗って、帰っていった。
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