第28話


「あ、小川さん」


 固まってしまったわたしの横を、永人くんがすり抜ける。

 明るい表情だ。おばあさんにあいさつしたあと、待ちきれない勢いでわたしの方を振り向く。

 

「マルちゃん。こちら、ハチのこと引き取りたいって言ってる、小川さん。猫飼ったことがあって、うちの学校から近いとこに住んでるんだって」

「えっ」

「小川さん。この子がさっき話していたマルちゃんです」


 続けざまに紹介された瞬間、わたしは棒を通されたように背筋を伸ばした。


「こ、こんにちは! わたし、野上麻瑠といいます。少し前までハチを飼っていました!」


 あいさつするも、小川さんは小さくうなずいただけで、にこりともしてくれなかった。

 小川さんはわたしを見据え、言った。


「彼に聞きましたよ。この猫ちゃんのこと、大事にしていたんですってね」

「はい!」

「じゃあどうして遅刻したの? 大事な日なのに」


 そう聞き返されて、どきりとした。

 小川さんは、また厳しい顔をしている。怒っているのかもしれない。

 とうぜんだ。

 大事にしてたって言いながら、こうして手放そうとしているんだし、今日は寝坊。本当に大事にしてたのかって、疑われても仕方ない。


「あの、マルちゃん、ゆうべ眠れなかったんだと思います。いろいろ考えたと思うし」

「永人くん」


 かばってくれる永人くんをそっと制して、わたしは改めて小川さんの方に向き直った。一瞬目の端にハチを入れ、深呼吸して、心を落ち着ける。

 感情だけで訴えたらダメだって、わたしはもう知っているから。

 わたしは、小川さんの目を見た。


「遅刻したのは、わたしのせいです。夜更かししたし、目覚ましをかけ忘れたので、言い訳できません。わたしが悪かったんです」

「お別れがつらくて眠れなかったの?」

「それもそうですけど……それよりも、これを書いていて」


 わたしは出がけにつかんできたバッグの中から、一冊のノートをとり出した。

 小川さんの視線が一瞬ノートを追いかける。


「それは?」


 たずねられて、わたしはいっきに緊張した。


「あの、これは、ハチのことをまとめたものです。ハチを引き取ってくださる人に渡したくて」


 ハチの性格、くせ。好きなごはんや好きなオモチャ。

 お気に入りのトイレ砂。お風呂に入れるときのコツや、爪を切るときのコツ。

 昼寝するのに好きな場所、夜寝るのに好きな場所。

 そんなことを、ひとつずつノートに書き留めたのだ。


「……見せてもらってもいいかしら?」

「はい」


 ノートを手渡すと、小川さんはゆっくりとページをめくり始めた。


 永人くんが「いつの間に」って顔でわたしを見ている。

 本当は少し前から――ポスターを作り始めたときから考えていたのだ。わたしがハチのためにできること。

 これくらいしか思いつかなかったのが情けないんだけど、ぎりぎり書きあげられてよかった。

 見てもらえてよかった。

 持って帰ってもらえるかは分からないけど、そこに書いたことを、ひとつでも覚えて帰ってもらえたらうれしい。

 ハチのために役立ててもらえたら、本当に本当にありがたい。


 わたしは、いつしか祈るように両手を組み合わせていた。

 試験の結果を待つような気持ちになっている。

 わたしはそんなふうなのに、ケージでハチはのんきにあくびするんだから、なごんでしまう。

 

「……なるほどねえ」


 ふいに小川さんがつぶやいて、わたしはどきっとして顔をあげた。

 視線が重なる。

 じっとわたしを見る目。


 ふと、瞳の色がやさしくなった。


「すばらしいわ」

「え?」


 ノートを閉じた小川さんは、笑顔だ。


「ごめんなさいね、試すようなことを言って。あなたがハチくんをどれほど大事にしていたかは彼に聞いていたんですよ。あなたを待つのも苦じゃなかったし、むしろ会ってみたいと思っていたんです。よかったわ、話ができて。まじめなお嬢さんだって、これを見て確信できた」


 小川さんは興奮したようにそう言って、ふくよかな胸でノートを抱いた。


 わたしはいっときぽかんとして、でも小川さんがハチの顔をのぞきこんで、


「あなた可愛がられてたのねえ」


と、しみじみ言ったとき、わきあがる気持ちをこらえきれなくなった。


「ありがとうございます……」


 つぶやいて、


「ありがとうございます!」


 はっきりと言い直して、でもそれだけじゃ済まなくて、しつこくもう一回「ありがとうございます」とお礼を言った。

 言わずにはいられなかったんだ。

 分かってもらえた。そのことがうれしくて。


「おし」


 隣で永人くんがガッツポーズしている。

 小川さんは「ふふっ」と笑っていた。


 わたしは胸がいっぱいになりながら、あらためて小川さんの方を向いた。


「小川さん。わたし、あの、ご迷惑でなかったら、ときどきハチに会いに行ってもいいですか」

「あ、俺も一緒に。俺もハチと会いたいです!」


 永人くんもあわてて言って、わたしたち二人は同時に「お願いします!」と頭を下げた。

 またふふっと、小川さんは笑った。


「ええ、もちろん。わたしは去年夫を亡くして、今ひとり暮らしなの。ハチくんがうちに来てくれたら寂しくなくなるし、遊びに来てくれるお客さまが増えるのもうれしいわ」


 小川さんはわたしたち二人に目を止めて、ゆったりと言った。


「でもひとつだけお願いがあるの」


 小川さんがふいに表情を引き締めたので、わたしも永人くんも背筋を伸ばす。


「はい、なんですか」

「わたしは見てのとおりおばあちゃんだから、いつ病気をするか分からない。今は大丈夫でも、いずれ介護が必要になるかもしれない」


 一瞬、祖母のことが頭をよぎった。

 ずっと元気でいたのに、たった一日で介護が必要な体になってしまった祖母。「歳をとるとこんなこともあるの」と無理をして笑っていた。

 小川さんもそういうことを考えているのだろう。落ち着いた声でつづけた。


「一時的なお世話なら近所に住んでいる娘たちに頼めるの。でももしもこの先わたしがハチくんのお世話をできなくなったとき、大人になったあなたがまたハチくんと一緒に暮らせたら安心だと思うんだけど」

「……大人になったわたし……?」


 くり返した瞬間、頭の中で新しい地図が開かれたような気がした。

 大人になった自分がいて、そのかたわらにハチがいるーー。

 そんな未来、自分ひとりじゃ絶対に考えつかない。


 わたしは、ふわ……と肩から息をついた。

 永人くんも同じだったみたいだ。耳をくすぐるようなときが聞こえて、わたしは彼を見上げた。

 二人で顔を見合わせて、同時に笑った。


「考えてもみなかった」

「俺も。目からうろこ」

「悪い考えじゃないでしょう?」


 小川さんに問いかけられて、今度は永人くんと一緒に大きくうなずく。


「はい!」

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