第25話



 すっかり暗くなった道を、かかとを踏んだ靴でひた走った。

 でも友だちのいないわたしには行く当てもなくて、地理に疎いわたしにはひとりで逃げこめるファストフードのありかも分からない。


 結局たどり着いたのは、通学路にあるイチョウ公園。

 

 ゾウのすべり台の前を通って、砂場の前のベンチに座りこんで、暴走しそうな感情を必死で体の中に押し戻す。


 公園には人っ子ひとりいなかった。

 この時間なら当然だ。

 怖いくらい静まり返って、わたしのあらい息継ぎだけが響いている。

 

 足元がひどく暗い。

 遠くにある街灯の光はうすすぎて、心に渦巻く感情がどんどん暗い方に引きずられていく。


「佐緒里……」


 親友の名前を呼んでみたけど、スマホを置いてきたから声も聞けない。


「ハチ」


 いつもよりそっていてくれたあの子も、遠くに行ってしまうかもしれない。


 ダメだわたし。

 このまま真っ黒な世界にのみこまれそう――。


「――マルちゃん?」


 ふいに名前を呼ばれて、全身にまとわりつくような思考がぷつんととぎれた。


「え、どうした? なんかあった?」


 そう言ってわたしの前に回りこんできたのは、わたしのヒーロー。

 永人くん。

 シャツにデニムという格好で、右手にスーパーの袋をさげている。

 

 わたしは、とっさに笑顔を作った。


「ううん、大丈夫」

「大丈夫そうに見えない」


 断言した永人くんは、わたしの前にしゃがみこんで、強引に視界に入ってきた。


「どうした?」

 

 なんでこの人はなんでも分かっちゃうんだろう。

 こんな泥みたいに重たい感情、見せたくないのに。


「いいよ、何でも言って」


 そんなにやさしくささやかれたら、簡単に扉が開いてしまう。


「……ハチが明日の譲渡会に連れていかれる……」


 くちびるの隙間からもれ出すようにそう告げると、一瞬にして永人くんの顔から表情が消えた。


「……なんで」

「お母さんが許可出したんだって。どうしよう。ハチが知らない人にもらわれちゃうかも」

 

 ここまで我慢できていたのに、わたしの目からまた大粒の涙があふれてくる。

 永人くんを困らせるのは分かってるのに、ぜんぜん止まらない。

 目元に押し当てたカーディガンの袖がどんどん重くなっていく。


「……マルちゃん、とりあえずうちに行こ。弟いるけど、気にしなくていいから」

「え……」

「行こ」


 手を取られて、引っ張られた。

 永人くんは立ち上がっただけなのに、わたしの体は簡単に持っていかる。

 びっくりして涙が止まった。

 

 永人くんは、最初はひどい大股で、でも途中で一度振り返ったら、今度はゆっくりわたしを引っぱってくれる。

 熱い手だ。

 ちょっと力が強いんだけど、すごく頼もしくて、つい、わたしも強く握り返してしまう。


 わたしが入って来たところとは反対側から公園を出、右に曲がって細い道を抜け、五分ほど歩いたところにある古いアパートの前で、永人くんはわたしの手を放した。


「ここ」


 そう言って彼がドアを開けたのは、一階の角部屋だ。「ただいま」の声に反応するように奥からドタドタ足音がして、「おかえり」と、永人くんを少し幼くしたような男の子が顔を出す。す


「って、うわ、女子だ。え、兄ちゃんの彼女?」

「違うよ。前に話したじゃん。だんご助けてくれた人」


 ああ、と弟くんが弾けるような笑顔でわたしを見た。


「あのときはありがとうございました! 兄ちゃんから話聞いてマジ感動して……あ、俺、春人(はると)です! 中二です! だんご連れてきます!」

 

 かしこまってそう宣言した春人くんが、奥の部屋に飛んでいく。

 わたしは少し鼻をすすり、笑った。


「弟くんかわいい」

「んーまあ、わりと素直な方かな。たまに生意気だけど。あ、あがって。適当に座って、だんごモフっててよ。これ、冷蔵庫にしまってくるから」

「うん。ありがとう……」

 

 靴をそろえて、そっと部屋に上がらせてもらった。

 三部屋くらいあるのかな。お母さんはまだ帰っていないようで、テレビの置かれた居間にも、続きの台所にも、誰もいなかった。


 立っているのもなんなので茶色いソファの前に腰を下ろすと、すぐに春人くんがだんごを肩に抱えてやってくる。


 人見知りのだんごはちょっと嫌がっているみたい。


「無理しなくていいよ」

「大丈夫です! だんご、ほら、だんごの恩人が来たよ」


 わたしの前でだんごをおろし、まるいお尻を押す春人くん。


「少し待っててください、お茶入れます!」

「あ、お構いなく!」


 あわてて断ったけど、春人くんは「だんごの命の恩人だから!」といい笑顔で言って、たどたどしい手つきながらお茶を出してくれた。


 彼も猫が大好きみたいだ。

 そして、永人くんと同じでちょっと大げさ。

 なんか和んじゃう。


「春人、飯頼んでいい? 親子丼とワカメスープ」

「いーよ」


 春人くんが軽く返事をして、永人くんと入れ替わりに台所に入っていった。

 母子家庭だって言ってたから、ごはんの準備も兄弟でやっているのかも。


「永人くんごめん……忙しいんじゃ……?」

「平気平気。俺も春人も慣れてるし、基本何でもゆるいから、うち」

「でも……ごめん……いつも迷惑かけてばっかりだ、わたし」

「迷惑じゃないよ。大丈夫。な、だんご」


 永人くんの手がだんごの頭をやさしくなでた。

 ハチみたいに自分から催促したりはしないけど、なされるままになでられているだんご。

 

 わたしはおしりの方にそっと手を伸ばす。

 ふわふわだ。

 ハチとは違う感触だけど、あたたかくてやわらかなその手触りに、心の中の淀みがきれいに流される感じがする。


「落ち着いた?」

「うん、ありがとう」

「よかった。猫の癒しパワーすごいよな。さすがだなー、だんご」


 永人くんが大きな手のひらでだんごの頭をなで回す。でも、だんごは動かない。ほっぺたがふくらみぶーってして見える、香箱座りでくつろいでいる。


「しっかし……いきなり譲渡会はキツイな……」


 永人くんがクリーム色の絨毯に目を落とした。

 忘れてはいけない懸念事項を思い出し、わたしは小さくうなずく。


「みんなに申し訳ないよ。あんなにがんばってくれたのに、こんな結末って」

「マルちゃんがあやまることじゃないよ」


 永人くんがまただんごをなでながら言った。

 そうやって、自分の気持ちもコントロールしているみたいだ。


「お母さん、撤回してくれそうにないの?」

「うん……ダメだと思う。お母さん、気が強いから。わたしの言うことなんか全部却下。わたし、引っ越しが決まってからお母さんとケンカばっかり」


 はあ……と、特大のため息がすべり落ちる。


「お父さんは帰り遅いし、そのたびに心配するのはおばあちゃんだよ? おばあちゃんだって大変なのに」

「お母さんも慣れない介護にイライラしてるのかもよ。うちの親も仕事忙しいとイライラするし」

「うん……でも、やっぱり、わたしなのかなって思う。わたしがいつまでもごねるから、うちの中もぎくしゃくしてるのかなって。わたしが全部あきらめたら、うまくいくんだと思う」

「――俺はそうは思わない」


 思いがけず強く言い返されて、わたしは顔を上げた。

 永人くんに否定されたのははじめてで、少しショックだった。

 でも、永人くんはわたし攻撃したい感じじゃない。

 ゆっくりとわたしの方を向く。

 いつもまっすぐな永人くんの目が、今日もまっすぐわたしを見る。


「マルちゃんがあきらめなかったから手に入ったものって、あるんじゃないの」

「わたしが、あきらめなかったから……」


 永人くんに言われると、不思議とどんな言葉もすとんと心に落ちてくる。

 わたしは当たり前のように考え始めている。

 もしも早くにハチのことをあきらめてたら――。

 少なくとも、結愛ちゃんや新名さんと話す機会はなかった。

 他のクラスメイトともよそよそしいままで、わたしは完ぺきに孤立していたかもしれない。

 もしもっともっと早くにあきらめていたら、今よりもっと親とケンカしていて、とことんまでひねくれた高校生になって、だんごが逃げ出して困ってる永人くんのこと、見て見ぬふりしたかもしれない。

 そしたら、永人くんがくれたたくさんの大切な言葉も、キラキラした気持ちも、全部なかった。


 そう考えると、少し怖くなってくる。


「……あきらめなくてよかったかも」


 わたしはつぶやいた。口に出したら、もっと確かなものに思えてくる。

 あきらめなくてよかった。

 あきらめなくて、よかったんだ。


 わたしは、はーってため息をついた。


「永人くん、すごい。大事なことたくさん教えてくれる」

「えー? それ言うならマルちゃんの方がすごいって。俺、マルちゃんと知り合ってからうれしいことしかないもん」

「そうなの? そんなにいいことあった?」

「うん。猫カフェ行けてうれしかったし、プレゼントしたハンカチ使ってもらえてうれしいし、猫トークできるのうれしい。あとかっこいいって言われたの最高にうれしくて」

「あああああ、待って、そのへんで勘弁して!」


 わたしは思わずソファの背もたれに顔を伏せた。今の全部わたしが絡んでるやつだ。

 おせじでも恥ずかしい。永人くん、くすくす笑ってるし。


「でも、一番うれしかったのは困ってたときに声かけてもらったことだなー。あのときマルちゃんが声かけてくれなかったら、俺たち今も赤の他人だよ。俺、マルちゃんと知り合えてよかった。マジでありがと。一生感謝する」

「お、おおげさだよ」


 永人くんのべた褒めモードにタジタジになっていると、急に、わたしの頭の中でチカッと光るものがあった。


 永人くんも最初は赤の他人だった――って。

 当たり前のことだけど、すごく大事なことだ。

 

 永人くんだけじゃない。

 新名さんも結愛ちゃんも、もともとはあいさつするだけの関係。でも、今はちがう。


「どうしたの、マルちゃん」


 急に固まったわたしの目を、永人くんがのぞきこんでくる。

 いつもだったらちょっと恥ずかしいとか思うんだけど、今はそれどころじゃない。


「永人くん、わたしすごいことに気づいた」

「え、なに?」

「わたし、身近な人に譲渡できたら面会させてもらえるかもって思ってたけど……ハチが知らない人にもらわれるとしても、会って話せばわたし、その人と知り合いになれるよ」


 永人くんが「あっ」とつぶやく。


「……そっか、そこで面会できるように頼めばいいのか。マルちゃん頭いい!」

「ちがうよ。永人くんが気づかせてくれたんだよ。カラに閉じこもったままのわたしだったら、考えつかなかった」


 新しい可能性に、胸がふるえる。

 もうのんびり座っていられない。


「わたし、明日会場に行ってみる。場所とか、すぐ調べなきゃ。スマホは――家に置いてる。あの、わたし、帰るね」


 希望を見つけたとたんやる気をとりもどす単純なわたし。

 でも永人くんはそんなわたしに本当に本当にやさしくて、


「猫の毛ついてたらおばあちゃん大変でしょ。これ使って」


 って、最後にコロコロクリーナーを貸してくれた。

 

 本当に素敵な人だって、わたしはあらためて思った。

 永人くんに出会えてよかった。

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