第23話
2
あごを伝う水滴をぬぐいながら、永人くんが少し先にある階段に向かった。
体育館の脇の入り口につながるたった三段の階段だ。
永人くんに一番上の段をポンポン叩かれて、わたしはおずおずと座る。
なんでだろう。
永人くんとしゃべるなんてもう特別なことではないはずなのに、ひどく緊張してしまう。
「さっきの試合でハチに何かあるってことはないから、安心して」
わたしの右隣に座るなり、永人くんは言った。
感情を押し殺したような声と、かたくなな表情に、揺らいでいた心がすっと引き締まる。
「ハチのことでああなったんじゃないの?」
「なった。けど、それは最初だけ。倉内が猫飼ってもいいって言うから、詳しく話すつもりだった」
「倉内くんが? ぜんぜんそんな感じしなかったけど」
ポスターを見ても「いいね」とか「目立つね」としか言っていなかった人だ。
永人くんがはっと短く笑った。
「あいつ本気じゃないよ。ハチのこと引き取る代わりに俺にバスケ部入れって言うくらいだから」
「え……なにそれ!」
「ていのいい言い訳ってやつ。俺、もともと倉内からバスケ部に勧誘されてたんだ。あいつ、となりの中学のバスケ部で、前から知ってて。でも断ってた。あ、もちろん今回も断ったよ。それとこれとは関係ないじゃんって」
「うん、それはぜんぜん関係ないよ!」
わたしは力いっぱい訴えた。
――進学したいから部活はやらない。
永人くんの意志は前に聞いていたから、その交換条件はわたしも受け入れられない。
「永人くん、それちゃんと断ったんだよね? そんなばかな条件のんでないよね?」
「うん。でもあいつ……俺がバスケ部入らないなら、代わりにマルちゃんにバスケ部のマネージャーしてもらうとか言い出して」
「はあ?」
頭から抜けるような声が出てしまった。
「わたし? ……なんで?」
びっくりして聞き返したら、永人くんはなぜか立てた片膝にあごを埋めるようにして、
「…………なんだかんだで勝負することになった」
「なんだかんだ?」
ずいぶん乱暴に省略された気がするけど、永人くんはムスッとしていて、それ以上話したくなさそうだ。
いずれにしても、倉内くんが青春しようとか言ってたのは、こういうことみたい。
そして永人くんは勝手なことを言う倉内くんに腹を立てていたのだろう。
さっきの試合は、いちおうスポーツって手段だったけど、実際は白黒つけるためのケンカみたいなものだったのだ。
変な話。
わたしはマネージャーなんかやらないし、そもそもルールもよく知らないんだから、役に立つわけない。
やっぱり倉内くんってよく分からない人。
「でも意外だったな。永人くんでも熱くなっちゃうことあるんだね」
めずらしく不機嫌な顔を見てみたくて、わたしは少しだけ永人くんの方に身を乗り出した。
すぐに視線がよそに逃げていく。
気まずいのかな。
でも、怒ってるときにニコニコされても怖いだけだ。怒っていいのに。
わたしが元に戻るように姿勢を正すと、ぐっと山なりになっていた永人くんのくちびるが、ほんの少しだけ開かれた。
「……だって、あいつが『マルちゃん押しに弱そうだから頼みこんだら聞いてくれそう』とか言うから」
「え……?」
「あーもう、ごめん。ふつうにムカつくよな、よく知らないやつにそんな言われたら。俺のせいだ。俺がたまにマルちゃんのこと話してたから」
半分濡れた髪をがしがしとかき乱す永人くんに、わたしは「……あ……うん……」とあいまいにうなずいた。
べつに、よく知らない人に軽く見られて傷ついたというわけじゃない。
倉内くんはわたしがいつもうじうじ悩んでいることを聞いたから、気弱なやつと思っただけだ。これも身から出た錆。仕方がないと思う。
そんなことよりも。
たぶん――いや、絶対にそう。
永人くんは、わたしのために怒ってくれた――。
「ごめん。もうマルちゃんのことは話さない。あいつが何か言ってきても聞かなくていいからね」
永人くんは真っ直ぐにわたしを見、めずらしく強い口調でそう言った。
わたしがうなずいたのを確認すると、勢いつけて腰を上げ、また手洗い場で顔を洗い始める。
わたしは、そんな永人くんを見つめながら、預かったままのブレザーを強く握りしめる。
とくとくと鳴る胸から、ひどく場違いな感情があふれていたからだ。
うれしい。すごく、うれしいって。
心の中がキラキラしている。
永人くんはずっと不機嫌そうにしているのに。
まだ怒ってくれているのに。
キラキラがあふれて止まらない。
「あの――永人くん。さっき、バスケしてるとき、かっこよかったよ」
気づいたら、わたしはそんなことを口走っていた。
永人くんがぴたりと動きを止めて、顔中から水を垂らしてこっちを見る。
驚いた顔。
「あ!」とわたしは言葉を重ねた。
「今までも何回も思ってたよ? 思ってたけど、種類というか、レベルというか、次元というか、なんかぜんぜん違って、かっこよかった!」
言いきってしまってから、気づいた。
永人くん、完全に面食らってる。
あごの先から水滴が落ちてハッと我に返り、ザーザーと水が出っぱなしの蛇口をあわててしめて、あっちを向いてしまう。
「て――照れるじゃん。せっかく顔洗ったのに、汗出る」
「ご、ごめん! 変なこと言っちゃった」
「変なこと」
「あああ、ちがくて、ウソじゃないよ! ホントのことだよ!」
テンション上がりすぎてどこかおかしくなったのかもしれない。
わたしはひとりで大混乱して、また永人くんに「だから汗出るって」と言わせてしまった。
ああ、失敗した。なんか失敗した。
「ごめん……なんかごめん……」
「あやまることじゃないし」
しゅんとしていると、本当に汗がにじんできたのか、永人くんが手の甲で口元を拭った。
お互いにうつむき加減で、一瞬目が合う。
手の陰で、彼のくちびるがほんのちょっと笑った。
「うれしいからもっと言って」
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