第13話
2
ハチは、わたしが小6のときにうちにやってきた保護猫だ。
まだほんの小さい仔猫で、母親とはぐれたらしい、近くの文具店の軒先で雨に打たれて震えているところを店のおばあちゃんに拾われて、わたしの家に来た。
わたしはひとりっ子で、かつ、長い間鍵っ子だった。
まだ小さい頃に近所で不審者が出て以来、外遊びを禁止されたわたしは、家でひとり寂しく過ごすことが多くて、ハチが家にきて、一緒に過ごしてくれるようになって、世界が変わった。
外へ行けなくても平気になったし、友だちと遊べなくても少しもさびしくなくなった。
それに、自分で言うのもなんだけど、ハチのためにそれまでよりしっかり者になった。
ハチは友だちであり兄弟であり、家族だったのだ。
――今はもう、手放してしまったけど。
「落ち着いた?」
やわらかい声が降ってきて、わたしは深い感情の海から浮上した。
腫れぼったい目で一度永人くんの顔をうかがい、気まずさに負けてぐっと頭を下げる。
「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
「こっちこそごめん。まさかマルちゃんの猫がいると思わなくて」
「それはだって、言ってないもん。猫カフェに預けてるって……」
また永人くんに気を使わせてしまった心苦しさで、わたしは消えたいほど小さくなる。
今、わたしたちはプレイルームの隅に並んでいた。
取り乱したわたしに店員さんたちはやさしくて、「ここならゆっくりできるよ」と、案内してくれたのだ。
ベンチシートに載せられたモチモチのクッションが最高の座り心地で、わたしの太ももに添うように寝そべっているハチも、すっかりくつろぎモード。
このままだったらたぶんお昼寝し始めるだろう。
でも、さっきまではハチも鳴いていたのだ。
わたしが泣くから。
でも涙が止まったらとたんに頭や身体をすりつけてきて、もう、べったり。
永人くんも目を細めてハチを鉢を見ている。
「ハチってマルちゃん大好きなんだなー」
「うん。仔猫のときから一緒だから」
答えながら、ハチの黒い頭をゆったりなでる。
気持ちよさそうに目を細めるハチは、家にいたときそのまんまだ。
わたしが落ちこんでいるときにはそばに来て、わたしが元気なときには自由気まま。遊ぼうと誘っても気まぐれにしか乗ってくれなくて、おなかが空いたときと外に出たいときだけは全力でアピール。
かわいい子なのだ。
「ハチー」
顔をのぞきこみながら、永人くんがハチの鼻先をなでてくれた。
ハチは少しも嫌がらず、むしろ自分から鼻を寄せて「もっと、もっと」って催促しにいく。
「やば。ハチかわいい」
真顔で感動する永人くんがおかしくて、少し笑ってしまった。
ハチは猫好きな人が分かるのだ。
猫嫌いの人からは逃げるけど、猫好きの人には自分から全力で寄っていく。
そんなところも愛おしい子だった。
「マルちゃん。聞いていい?」
ひとしきりハチをなで回したあと、永人くんが顔をあげた。
やさしい目がわたしを見る。
「なんでハチのこと飼えなくなったの?」
真っ直ぐにそう聞かれて、わたしはぐっとくちびるをかみしめた。
「言いたくなかったらいいよ?」
永人くんはすかさずそう言ってくれたけど、こんなに心配かけているのに黙っているわけにもいかない。
ハチをなでていて気持ちも落ち着いてきたから、ちゃんと話そう。
わたしは一度丁寧に深呼吸して、永人くんの顔を見た。
「実はね、去年の夏に、おばあちゃんが脳梗塞で倒れたんだ」
「そうなの? 大丈夫だった?」
サッと緊張する永人くんに、わたしは小さくうなずいた。
「手術してリハビリして、退院できたよ。だけど、身体にマヒが残って……もともとひとり暮らしだったけど、さすがにもうひとりにできない、ってなって。わたしが高校に入るタイミングで同居することになったんだ」
それが県を超えてまで引っ越すことになった理由。そして、
「新しい家じゃ猫飼えなかったの?」
「うん。おばあちゃん、猫アレルギーだから」
それが、ハチを手放さなくてはいけなかった理由だ。
永人くんが眉をひそめた。
「アレルギーか……けっこう重いの?」
「うん……。わたし、ハチを自分の部屋から絶対に出さないって、猫の毛にも気をつけるって言ったんだけど、お父さんもお母さんもダメって。分かってるの。おばあちゃん、身体が不自由になっちゃったから、万が一ハチが部屋から抜け出したら、おばあちゃんは自分でハチのことさけられない。それでもし具合が悪くなって、たまたまひとりだったら助けも求めるのも簡単じゃない。一緒には住めない。それで、ここで新しい家族を見つけてもらうことになって……」
話しているうちに記憶がよみがえって、胸の中がだんだん黒く塗りつぶされていく。
当時、ハチのことで両親とは何回もケンカした。
ハチを連れて夜の街に飛び出したこともある。
心配した佐緒里が、一緒に両親を説得してくれたこともあった。
でも結局何も変わらなくて、ハチは新しい家族との出会いを求めて、保護活動に力を入れているこの猫カフェに預けられることになった。
ハチのことは誰かが代わりに面倒を見てくれるかもしれないけれど、祖母のことは家族以外の誰も面倒を見てくれない――。
そう言われたら、何も反論できなかったのだ。
でも、わたしの中ではいつまでも消えなかった。
ハチの手触り。あたたかさ。鳴き声。
先っぽだけが白い脚でトコトコ歩く姿。
わたしを見上げるまんまるの目。
わたしは、離れてからもずっとハチのことを想っていた。
「ハチ」
たまらず、ハチを抱きあげてギュっとする。
そう――例えばいきなり見知らぬ土地で生活するようになったり、知ってる人がひとりもいないクラスに放りこまれたりしても、ハチがいたら前向きにがんばれたと思う。
ツラいことがあってもハチに話したら、答えは何もくれなくても解決できた。
でも、ハチはいなくなった。頼れる友だちも。
何もかもなくなって、気力もなくなって、わたしはただ、毎日を死んだように浪費していたのだ。
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