4章 キミとカフェと、涙のお話
第12話
1
土曜日は、あいにくの雨だった。
わたしは水色の傘を握りしめ、待ち合わせの二十分も前にイチョウ公園に着いてしまっていた。
汚れてもいい格好でと言われていたけど、前日の夜に「おしゃれしなよ? 絶対だよ?」と佐緒里から釘を刺されていたので、袖口がふんわりしたパステルオレンジのカットソーにデニムを合わせてみた。
天気が悪いからアウトドアの可能性はないと確信してるけど、いちおう足元はスニーカー。
バッグは小ぶりなフェイクレザーのリュック。
この格好で正解なのかな。
的外れだったらどうしよう。
なんてことを考えながら、どきどき、そわそわ。
一分おきにスマホを見ながら待っていると、約束の時間の五分前に永人くんが姿を見せた。
イチョウ公園でも、わたしが入ってきた入り口とは反対の方からだ。
「マルちゃん。ごめん、待ってた?」
そう言いながら駆け寄ってくる永人くんは、シンプルなファッションだった。白シャツに濃いベージュのカーディガンを羽織って、細身の黒いパンツを合わせているだけ。でも脚が長いからさまになっている。
「マルちゃん?」
ふたたび呼びかけられて、はっとした。
今、完全に見とれてた。
「ご、ごめん。ぼうっとしてて。永人くん、おはよう」
「おはよー。私服かわいいね、マルちゃん」
うわー、いきなりそんな笑顔で褒めるの?
「あ、ありがとう。永人くんも、センスいいね。似合う」
「マジで? よかった」
永人くんの無邪気な笑顔の前で、わたしは得体の知れない何かをごくんとのみこんだ。
さらっと褒めてくれるの、うれしいけど照れる。
そして褒めるのはもっと照れる。
どっちも慣れてないから落ち着かないよ。
行こう、と促されて二人で歩き出したけど、そわそわしすぎてバス停までに何度傘を持ち直したか分からない。
でも、今日も永人くんがいろいろ話しかけてくるから、少しも気づまりじゃなかった。
自分では使ったことのない路線のバスに乗って、十分ほど。
降りたところに見覚えがあるような気がしたけど、なにしろまだ地理に詳しくないので自信がない。
「こっちこっち」
言われるまま、永人くんについていく。
でも、気づいたら置いていかれそうになっていた。
ものめずらしくてわたしがキョロキョロしていたせいでもあるし、そもそも脚の長さが違うせいでもある。
永人くん、歩くのが速いのだ。
わたしもよそ見せずに大股でがんばろうとしたけど、水跳ねに気をつけようとしたらどうしても慎重になって、さらに距離が広がってしまう。
「え、永人くん、待ってー」
たまらず声をあげると、永人くんが振り向き、「うわ」と驚いた。
「ごめん、早かった!」
「ううん。わたしこそ、遅くてごめん」
「いや、俺が悪いよ」
永人くんが大股で水たまりを飛び越えて、わたしはハムスターみたいに脚を動かして、お互い距離を縮め合って、苦笑い。
永人くんが藍色の傘の下ではーっと大げさにため息をついた。
「ホントごめん。女の子に慣れてないの、一瞬でバレるなー」
ぐしゃぐしゃと前髪を握りこむ永人くんを、わたしはきょとんとして見上げる。
「たまたまでしょ?」
「……え?」
「だって、永人くん絶対モテる人だから」
「はあー? モテないって言ったじゃん!」
すごい勢いで否定されたけど、わたしこの前から、永人くんの「自称モテない」はぜんぜん、まったく、これっぽっちも信じてない。
だって永人くんは背も高いしかっこいいし、清潔感もある。
なにより、やさしい。
モテないわけがないのだ。
でも、わたしが納得していないことが分かったのか、永人くんは「ホント、モテないから!」としつこく強調する。
「俺、中学でバスケ部だったんだけどさ。部の決まりで全員丸刈りで、制服は第一ボタンまでしめてないと怒られてさ。チャラチャラしてるヒマがあったら練習しろって言われるし、実際遊んでるヒマないからもうダッサい集団で……あ、丸刈りの俺の姿想像しないでね」
「う、うん……」
一瞬想像しそうになってた。
ちょっとかわいいんじゃないかって思ってしまったけど、心にしまっておこう。気を取り直して歩き出す。
「またバスケ部入ったの?」
「ううん。高校ではやんない。たまにストリートでやれればいいかな。バイトもしたいし、進学したいし」
「進路、もう考えてるんだ?」
「いちおうね。獣医目指してるんだ。簡単じゃないけど」
くるっと傘を回転させながら永人くんは言う。
わたしはひっそりと感心してしまった。
彼の思い描いていることが、具体的だったからだ。
それに引き換え、わたしは――と考えて、思わず足元に目を落とす。
手放した猫のことや、離れ離れになった友だちのこと。新しい環境になじめないこと。
今のことさえ手いっぱいで、先のことなんか考えられない。
永人くん、えらい。
「マルちゃんは? 中学で部活やってた?」
「わたし? わたしは美術部だったよ」
「へー。俺、絵とかすげー苦手。美術部入るの?」
「どうかな。まだあんまり余裕ないし……」
そう言って、苦笑いしたときだった。
わたしは目の前の風景に今度こそはっきりと見覚えがあって、足を止めた。
永人くんがわたしの視線の先を追って、「ああ」と声を明るくする。
「あれあれ。俺が来たかったとこ」
永人くんが見ているのは、猫のシルエットがあしらわれた看板が出ている店だ。
猫カフェ『まひる』。
「マルちゃん、猫に飢えてないかなーと思って。――って……マルちゃん?」
にこにこする永人くんの前を素通りして、わたしはその店の前に立った。
猫のシルエットの看板。
扉の上についたベル。
猫の足跡の形をした玄関マット。
はじめてそれらを見たとき、わたしの視界は涙でゆがんでいて、正直ありのままの形で目に入っていなかったと思う。
でも、分かる。ここは――この店は。
「マルちゃん?」
戸惑う永人くんを置いて、わたしは乱暴に傘をたたんで入り口の取っ手に手をかけた。
頭上でカランコロンと鳴るベル。
ガラスの内扉の向こうには大きな木をイメージしたキャットタワーがあって、三毛猫や白猫、サビやキジトラ……と、いろんな種類の猫が思い思いに過ごしている。
わたしは、店員さんがこちらに気づいて駆け寄るよりも早く、ガラスの内扉を開け放った。
「ハチ!」
呼ぶなり一匹の猫が顔をあげ、しっぽを真っ直ぐ立ててこちらに走ってくる。
全体がまっ黒な中で顔の真ん中とおなかと手足の先だけが白い、ハチワレの猫。
必死にわたしの脚に頭をすりつけてくるかわいい子。
たちまち目頭が熱くなった。
かと思うと自分でも驚いてしまうくらい大きな涙がこぼれて。
「ハチ……ハチ!」
永人くんが硬直しているのに、他のお客さんも注目してるのに、わたしはわたしの大事な猫を抱きあげ、声をあげて大泣きしてしまったのだった。
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