第10話
3
「マルちゃん。大丈夫? 顔色が悪いんじゃない?」
翌朝、身支度を整えて部屋から出てきたわたしに最初に声をかけたのは、祖母だった。
南向きの窓辺でソファに座って、取っ手のついた湯のみでお茶を飲んでいる。
「なに? マル、具合悪いの?」
聞きつけた母が台所から顔を出したけど、
「平気」
わたしは力なく首を振って、居間を素通りして玄関へ。
ウソだ。
本当は平気じゃないし憂うつだし、眠れなかったから身体も重い。学校にも行きたくない。
でも家にもいたくないから、仕方なく制服を着てカバンを持って、ローファーを履き、重い足を引きずりバス停へ向かう。
嫌だと思っても学校をさぼる勇気もないのだ。
わたしって本当にダメな人間だ。
不満だらけなのに、そのどれとも戦えない。
「おはよ」
暗い気持ちを抱えてバス停に立ち、道路向かいを眺めていると、横から声をかけられた。
ハッとして振り向き、目を見開く。
永人くんだったのだ。
「お、おはよう」
昨日の今日ので気まずくて、とっさにうつむいたわたし。
だけど、永人くんはふつうにとなりに並んで、「今日ちょっと寒いね」とシャツの襟を引っぱりながら、灰色の雲が広がる空を見上げた。
「そうだね」
わたしは急いで答える。
黙っちゃうとますます気づまりになるのが分かっているからだ。
むやみにカバンの紐を持ちかえながら、ちらっと永人くんを見上げる。
今日の永人くんはメガネじゃない。コンタクトかな。
どっちにしたってさわやかでかっこいい。
「なに?」
急に永人くんの視線が降ってきて、どきっとする。
わたし、うっかり見つめちゃってたんだ。
あわてて前髪をさわりながら、わたしは言った。
「えっと……永人くん、ここからバスに乗るの? いつも乗ってた?」
「ああ、うん。乗るのはここだけど、いつもは三十分早いやつ使ってる。この時間混んでるの知ってたから、避けてたんだよね」
「あ、そうなんだ……」
ひょっとしたら家も近いのかも。
そんな発見に少しうれしくなると同時に、疑問もわいた。
今日はどうして遅いんだろう。寝坊?
「マルちゃんいるかな、と思って」
永人くんが急にそんなことを言うから、心臓が跳ねた。
「……わ、わたし……?」
「うん。昨日、立ち入ったことききすぎたと思って。ごめん。嫌だったんじゃない?」
顔だけこちらに向けて、眉尻を下げてそう言う永人くん。
わたしは、震えあがるように首を振った。
「永人くんがあやまることじゃないよ。わたし、今年から環境が変わって、ちょっと……なんていうか、気持ちが不安定なだけだから。こっちこそ、ごめんね。感じ悪かったなって、反省してた。ホントにごめんなさい……」
「それこそあやまることじゃなくない? マルちゃん、最近この辺に引っ越してきたよね? 俺んちもバス停から近いけど、今までマルちゃんのこと見たことなかった」
「うん。祖母の家に同居することになって……実はまだ分からないことばっかりで……」
知ってる人はぜんぜんいないし、道も分からない。
買い物するにもどこに行けばいいものが売ってるか分からないから、あとで同じものが安く売っているのを見かけて悔しい思いをすることもたびたびある。
バスに乗り間違えてとんでもないところに行ってしまったこともあった。
極端な話、東西南北もパッと判断できなくて、クラスメイトが自己紹介で必ず言っていた、「○○中学出身です」っていうのも、ぜんぜん分からなかったな……。
「慣れるまでは大変だよなー」
永人くんが言った。わたしの方を向いて、ぴかっと、明かりがつくように彼は笑う。
「なんでも聞いてよ。俺ずっとこの辺に住んでるから。学校のことはまだよく知らないけど、そんなの一年全員そうだと思うから、大丈夫。俺も未だに名前覚えてないクラスメイトとか、いるしね」
「うん。ありがとう」
わたしはうなずいた。
なんだか胸がいっぱいだった。
今のたった数分で、朝一番から暗くなりかけていた心がきれいに洗われた気がする。
「あ、バス来たね。――うわ、やっぱ激混み。気合い入れて行こう」
「う、うん!」
やって来た緑のバスに、永人くんと一緒に乗りこむ。
わたしが通学に使っているこのバスは、通勤・通学のラッシュとぴったり重なっていて、ギリギリ乗れなくはないけど座るのは絶対に無理、という混み具合だ。
小柄なわたしはいつもカバンを胸に抱きしめて、飛びこむようにバスに乗っている。
でも、今日は永人くんが先に乗ってくれたから、道が開かれているというか。すごく楽だ。
「マルちゃん、大丈夫?」
「う、うん……なんとか」
窮屈な車内で体勢を整えて、ホッと一息。
つり革が遠いし掴まるものがないのが怖いけど、乗れるだけマシだ。
その点、永人くんはつり革の上のバーに手が届いてるからすごい。
うらやましい気持ちで見上げていると、視線に気づいた彼の口元が小さく笑った。
「つかまっていいよ」
「あ、ありがとう」
永人くん、さすがだ。やることもイケメン。
ちょっと反則って思ってしまう。
でも、こういうときってどこをつかめばいいんだろう?
と、迷っていたら、永人くんがさりげなくカバンの端をこっちに向けてくれた。
どうぞ、と言わんばかりに眉が動くから、お礼を言いながらおずおずと手を伸ばす。
心の端がそわそわした。
すごく落ち着かない。
でも、足元はがぜん安定する。
やっぱり、なにかを掴んでいるといないのではぜんぜん違うよ。
いつもは踏ん張るのに必死だけど、今日は窓の外の景色を見る余裕さえある。
二つ目のバス停のところにあるかわいいカフェ。
駄菓子屋さんの軒先で寝そべっている黒猫。
ロボットが逆立ちしてる何かの店の看板……。
はじめて気づくものばかりだ。
そうして窓の方ばかり見ていると、ふと、窓に映った永人くんが何か言いたそうにしているのに気がついた。
「どうしたの?」
声をかけると、永人くんは不意打ちされたみたいに驚いた。
「あ、うん。えっと。マルちゃん、土曜日ヒマ?」
「え?」
「行きたいとこあるんだけど、いつも女の人ばっかりで入りづらいんだよね。つきあってくれないかなーとか、思ってるんだけど……」
やけに早口かと思えば、だんだん尻すぼみになっていく永人くん。
わたしはパチパチと目をまたたかせた。
「それって、どこ? 近く?」
「うーんと、バスで十分くらいの……カフェ?」
なんで疑問形?
不思議に思ったけど、「マルちゃんもたぶん好きだと思う」と先に言われて、聞くタイミングを逃してしまった。
もしかしてSNSとかで人気の店かな?
それか、かわいいスイーツがあるとか。
そういうの好きなのかな。
確かにそういうところはひとりじゃ行きづらいよね。
「いいよ。つきあうよ」
わたしは迷わず請けおった。
昨日悪いことしてしまったぶん、どこかで返したいと思っていたのだ。
「マジで」
永人くんがピンと背筋を伸ばす。
なんでかびっくりした顔だ。
「いいの?」
「うん。なにも予定ないから、大丈夫」
うなずいたら、今度は雲が晴れるような笑顔になる。
「やった! ありがと。あ、じゃあ汚れてもいい服装で来てね」
「え? アウトドア系? 何か準備した方がいい?」
「違う違う。マルちゃんはただついてきてくれるだけでオッケーだから。一緒に癒されよう」
永人くんが、ぱっと明るい笑みを浮かべた。
その笑顔ですでに癒されてしまいそうな自分がいるんだけど、いきなり顔がゆるんでも気持ち悪いから、わたしは懸命に真顔を保って、うんと力強くうなずいた。
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