第6話



 一日の始まりにずーんと暗い気持ちになったわたしは、一度も復活することもなく昼休みを迎えた。


 わたしが学校で過ごす一日の中で、一番苦手な時間。

 

 午前の最後の授業が終わってがやがやと賑わう教室では、あちこちで机をよせ合ってお弁当タイムが始まる。


 でもわたしは購買部でパンを買わなきゃいけなくて、スマホと、黒猫の顔の形をした小銭入れを握って、ひとり静かに教室を出た。


 これもよくないんだよなーと、廊下を歩きながらぼんやり思う。


 昼休みにすぐランチできたら、一度勇気を出して、誰かに「一緒に食べていい?」と頼めばいい。それをきっかけに仲良くなれる子ができるかも。


 でも購買部まで行くとなると、行って戻る間にクラスのみんなは昼食を終えているから、ひとりで食べる羽目になる。

 

 なにしろ購買部が激混みなんだよね……。

 

 今日も購買部の前にできた人だかりに、深々とため息をつく。

 

 どうもこの学校では『パンダのおなか』っていう白くてフワフワしたクリームパンが大人気みたいで、昼休みはいつも争奪戦だ。

 売り切れになれば落ちついて買い物ができるんだけど、それまでが長い。


 お弁当があればなーと思っても、母もこの春から新生活で余裕がないし、バス停が学校の目の前だから、途中で店に寄ってくることもできない。


 結局『パンダのおなか』がなくなるのをじっと待つしかないのだ。


「うわ、すごっ」


 今日も購買部で壮絶な戦いが展開されているのを遠巻きに見ていると、後ろでそうつぶやいた人がいた。

 メガネをかけた、背の高い男子だ。

 はじめてこの光景を目にしたらしい、完全に腰が引けてる。

 同じ一年生なのかも。


 なんて、ヒマに乗じてぼんやり眺めていると、ふいにその彼と目が合ってしまった。


 やば! 

 反射的に小銭入れを握りしめ、下を向く。


 ――って、なんでこう対人スキル低いの? ちょっとニコッとするくらいしてもよくない? 今のかなり感じ悪かったよね?


 自分で自分を責めながら小さくなっていると、急にとなりから大きな影が差してきた。

 顔をあげると、さっき目が合った彼がすぐそこにいて、またばちっと視線が重なる。


 ひゃっ――と心の中で悲鳴をあげてまた下を向きそうになったとき、


「ねえ」


 声をかけられた。


「は、はい……?」


 下がりかけた顔をおそるおそる上げると、彼はなぜか食い入るようにわたしを見ている。


 誰? 知ってる人だっけ?


 たちまち焦って、わたしは頭の中の記憶の引き出しを片っ端から開けていった。

 黒いセルフレームのメガネをかけていて、制服をきちんと着ていて。

 女子に騒がれるタイプのイケメンじゃないけど、誰からも好感を持たれそうな人だ。


 クラスメイトではない。と思う。まだ全員の顔と名前が一致してないけど、少なくともうちのクラスにこんなに背の高い人はいない。


 でもわたしはこの学校の人はほぼ全員「はじめまして」のはずだ。

 

 ――って、わたしが一生懸命考えている間にも彼はわたしのことをじろじろと見ている。


 ぎゅうっと、胸の前で小銭入れを握りしめる。

 なんの自慢にもならないけど、わたしは彼氏いない歴が年齢とイコールなのだ。

 男子の目には少しも、ぜんぜん、まったく、慣れてない。

 緊張マックス。手汗がひどい。


「やっぱそうだよね?」

「はい……?」


 意味が分からなくておずおずときき返すと、彼は「やっぱりそうだ!」と顔をほころばせた。


 なにが「やっぱり」なんだろう。怪訝に思いながら見上げると、彼は長い腕を振り上げるように自分を指さして、


「俺だよ、俺。山岡永人。こないだ猫を助けてもらった!」


 その瞬間、わたしはハッと息のかたまりを吸いこんだ。

 

 緊張もなにも全部吹き飛んで、自分でも驚くような大きな声が出る。


「あの――だんごの、飼い主さん⁉」

「そう、そのとおり」


 彼が目元をなごませたその瞬間、猫をだっこした男の子の姿が目の前の彼とぴったり重なった。


 髪も整えられているし、ほおも汚れてないし、今はメガネをかけているけど――間違いない、あのときの彼だ。


 そうと気づいたとき、わたしは大きく口を開いていた。

 そこから、「はは」って、勝手に笑い声が転がっていく。


「びっくりした……同じ学校だったんですね」

「うん。うちの制服着てるじゃんって、実は思ってた。よかった、さっきから『あれ、もしかして』と思ってたんだけど、あのときメガネかけてなかったから、いまいち自信なかったんだ。――でもそれで分かった」


 頭の後ろ側をのぞきこまれて、「それ?」と、反射的に手を伸ばす。

 ハーフアップにした髪の結び目には、いつもどおりヘアアクセをつけている。

 今日のは――あれだ! あの、ビジューの目がついた絶妙にかわいくない猫のバレッタ!


「そのキラキラの猫の目、印象に残ってた」


 彼が笑うと、わたしの心臓が急に駆け足のリズムを刻み始めた。

 だって、あの日のラッキーアイテムがまさかこんなふうに意味を持つなんて思わないから。


「会えてよかったー」


 彼が笑った。


「たぶん一年だろうと思ってたけど、意外に見つかんなくて焦ってた。あ、もしかして先輩? ですか?」


 彼が急に姿勢を正すから、わたしはちょっと笑ってしまった。


「違います。わたしも一年。英文科B組の、野上麻瑠のがみまるです」

「英文科B組の野上麻瑠さん……よし、覚えた。マルちゃんって呼んでいい? 俺も永人でいいから」


 さわやかな笑顔を前に、どきっとしてしまった。さらっと名前を呼ばれたんだもん、仕方ない。


 でもここで黙ったら微妙な空気になる。わたしは、急いで口角をあげた。


「はい。大丈夫です」

「なんで敬語? ふつーにしゃべろうよ」


 彼――永人くんがそう言い、わたしは思わず目の前に手をかざしたくなった。


 あの日も思ったことけど、身なりを整えた彼はやっぱりイケメンって言っていい人で、コミュニケーション能力もものすごく高い。地味でコミュ障なわたしにはまぶしすぎる。

 きっとモテるんだろうな……。

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