第3話



 全力疾走で家に帰って、奥の部屋で「おかえり」と言う祖母の姿も見ないうちに、目的のものだけつかんで家を飛び出す。

 時間が惜しくて自転車を出した。思いっきりペダルを踏みこんで、立ちこぎする。


 もう夕方だ、暗くなってしまう前に解決しないと。


 使命感が、自転車をどんどん加速させていく。


 全身で風を浴び、息を弾ませて公園のとなりの家に戻ると、わたしに気づいた男の子が、安堵の表情で立ちあがった。

 猫はまだ出てきていないようだ。

 わたしは急いで自転車をとめて彼のところに駆け寄った。


「これ使いましょう! マタタビ!」


 ぱっと、彼の表情が晴れた。


「マタタビか! イケそう!」

「はい! 袋開けますね!」


 わたしはまたスカートをさばいて、彼と一緒になってウッドデッキの下をのぞきこんだ。


 本当はマタタビを地面にまいてしまいたかったけど、ここはよその家だ。においが残ってノラ猫が集まるようになったら迷惑になる。ジッパーつきの袋の口を全開にして、でも中身をこぼさないように気をつけて、腕をできるかぎり奥に伸ばす。


 効果はてきめんだった。

 それまで奥で石像と化していた猫が、こちらに向かって首を伸ばしたのだ。

 鼻先がひくひくしているのが、薄暗い中でも見てとれる。


「おお、反応してる反応してる。だんごー。おいで」


 彼がいっそう頭を低くして、それまでより少し高い声で呼びかけると、彼の猫はいよいよおしりを浮かせた。


 よし、いい感じ!


「そうそう、だんご。こっちだ」


 彼が弾んだ声で呼ぶ。

 本当はわたしも呼びかけたいけど、臆病な猫なら知らない人間が声をかけない方がいい。

 わたしはマタタビ係に専念して、心の仲で必死に呼びかけた。

 おいで、おいで、って。


 やがて、猫が慎重な足取りで近づいてきた。

 徐々にその姿もはっきり見えてくる。

 茶トラの大きな猫だ。

 顔も身体もまるまるしていて、毛並みは見るからにフワフワだ。自然と、抱っこしたい、モフモフしたいって、欲求がつきあがってくる。


 でも、油断は禁物。

 猫が警戒したまま近づいてくるから、わたしもまた慎重に、少しずつ手を引く。

 焦ってもダメ。

 のんびりしていてもダメだ。

 彼が捕まえられるところまでおびき寄せないと。


 もどかしいほどゆっくりと、猫がゴールに近づいてくる。


「だんご、おいで」


 彼の切実な声に、なんだか胸が熱くなった。


 さあ、出ておいで!


 わたしの心の祈りが強くなった、そのときだ。

 猫のひくひくするピンク色の鼻と、ピンと伸びた立派なヒゲが、わたしの手に触れた。


 やわらかい感触に、頬がゆるむ。


 よし、と、男の子が声を殺して言った。

 でも、出てきたのはまだ頭だけだ。

 

 わたしはさらにもう少し腕を引いて、マタタビを持つ手を地面すれすれまで下げた。


 すると、猫が完全に空の下に出てきて、わたしの手のすぐ横でごろんと横になる。


 その、次の瞬間、男の子が大きな手で猫の胴体をつかんで、ひょいと肩にかつぐように抱きあげた。


「捕まえたぞ、だんご~」


 ふわふわの脇腹に顔をうずめて彼は笑った。


 さっきはまだ分からなかったけど、この猫は脚とおなかと口の周りだけが白い、茶トラだ。

 びっくりしたように青い目をぎょろぎょろさせているけど、安心もしたんだろう。彼の背中に回した白い前脚で、しがみつくように爪を立てている。


「よかったですね!」

「ありがと! 助かったよ!」


 拍手するわたしに、彼が顔いっぱいで笑ってこたえた。


 相変わらずクモの巣はついているし頬は汚れているんだけど、まぶしい笑顔だ。


「ほら、だんごもありがとうって言いな」


 彼が、肩の上にのった猫の顔をこちらに向けてくる。

 マタタビの袋はもう口を閉めたんだけど、まだにおいが残っているんだろう。ピンクの鼻がひくひくしている。

 かわいい!


 わたしは思わず猫の鼻先に指を伸ばした。これ、はじめましての猫ちゃんへの、ごあいさつの定番だ。


「猫ちゃん、だんごって名前なんですね」

「そう。まるまるして、みたらし団子みたいでしょ」

「みたらし団子……」


 ついふきだしてしまった。確かにちょっと太めの猫ちゃんなんだけど、それでもかわいい。


「よかったね、だんご」


 わたしは全力でモフりたいところをぐっとこらえて、首の横をこちょこちょした。

 やっぱりマタタビのにおいがするのか、だんごがわたしの手に顔をすりつけてくる。


 きゅんとしちゃうなあ。

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