第2話


「お手伝いしましょうか」


 今まで一度も使ったことのない言葉が、なぜかするりと口からすべり出てきた――直後、ウッドデッキの下の体が跳ねあがり、「ゴン!」とけっこうすごい音がした。


 頭をぶつけたみたいだ。「いってぇ」という悲鳴のあとで、彼はSの字みたいに体をくねらせ悶絶しはじめる。


 ……ああ、わたし、やってしまった。


「ご、ごめんなさい……急に声かけて……」


 申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、急いでウッドデッキの下をのぞきこむ。


 いまいち顔がはっきり見えないけど、やっぱり同年代っぽい。目が合うと彼はハッとして、


「あ、いや……大丈夫、ちょっと驚いて……」


 と、苦笑いしながら今度は慎重にウッドデッキの下からはい出してきた。


 わたしの目の前で、彼は服をはたきながらゆっくり立ちあがる。

 自然とわたしの目線が上向きになった。

 彼が、立つと見上げるくらい大きい人だったからだ。


 ひょっとすると一八〇センチ近くあるかもしれない。すらっとした体型だけど、クラスでも特に小柄な方であるわたしは、この体格差にちょっと緊張してしまう。


 わたしがカバンを抱きしめおどおどしていると、それを察した彼が顔をこわばらせて手を振った。


「あ、俺、怪しいものじゃないです! うちの猫がこの下に入っちゃって。出てこないんです!」

「あ、はい! 大丈夫です! そうかもしれないって思いました!」


 彼があわてて弁解するのにつられて、こっちもものすごく早口になってしまった。

 一瞬おたがい気まずい感じに笑い合う。

 だけど彼の肩から力が抜けたのが分かると、わたしもそれにホッとして、今度はおたがいにゆるく笑い合った。


 いい笑顔をする人だなって、わたしは思った。

 ちゃんとしていればそれなりにイケメンに見えそうなキリッとした顔立ちだけど、目元が優しい。

 今はぐしゃぐしゃの髪にクモの巣が絡んだり、ほおが砂で汚れていたりして、正直不審者以外の何ものでもないけれど、裏を返せば、なりふり構わずペットのためにがんばってたってことだ。

 悪い人ではなさそう。


「あの、この家の人ですか?」


 彼にそうたずねられて、わたしは「いえ」と小さく首を振った。


「ただ通りかかっただけです」

「あ、そうなんですか……。実はこの家、今留守っぽくて。家の人から見たら俺完全に不審者だよなって思ってて……」


 落ち着かない様子で赤い屋根を見上げ、もどかしげに頭をかく彼。


 不審者だって自覚はあったみたいだ。

 でも、だからこそ、同情してしまう。


 わたしは胸に抱きしめていたカバンを肩にかけ直し、彼の顔を見上げた。


「猫ちゃん、家から逃げちゃったんですか?」

「いや、キャリーから。病院の帰りだったんだけど、俺、さっきバランス崩してコケちゃって。キャリーが落ちたときに扉が開いて……」

「びっくりしてあそこに逃げこんじゃったんですね」

「そう。臆病なの、あいつ。だから刺激しちゃダメなのにさ……飼い主失格だ、俺」


 しゃがみこんだ彼が、ため息で顔を洗うように手のひらを頬に押しつける。


 このピンチにけっこう参っているみたいだ。


 気持ちは分かる。

 わたしだったらこの状況にとっくに泣きだしている。


 なんだか他人ごとに思えなくて、わたしはスカートの裾を膝の裏に折りこみ、彼のとなりに寄り添うようにしゃがみこんだ。


「自分を責めることじゃないと思います。身体の大きい猫ちゃんだったら、体重もあるから、よろけることもあると思うし。――あ、やっぱり大きい猫ちゃんじゃないですか」


 ウッドデッキの下をのぞいてみると、かなり引っこんだところに猫特有の光る二つの目が確認できる。

 暗くてはっきりは見えないけど、なかなかのビックシルエットだってことは分かる。キャリーに入れて運ぶにしても、かなり力がいりそうだ。


「猫ちゃん、どれくらいあそこにいるんですか?」


 彼の方を振り向きたずねると、彼はびっくりしたようにあごを引いた。


「あー……今三十分くらいかな」

「三十分!」


 けっこう長い。

 その間彼がひとりで粘ったのなら、そうとうながんばりだ。


「ぜんぜん動かないんですか?」

「うん。本当はエサとかでおびき寄せたいけど、持ってないし。うちに帰ってとってくる間に外に出てきて、他のとこに逃げちゃったらよけい困るし……。しかもこんなときにかぎって家族も誰も捕まらなくて、どうしようかと思ってたところで……」


 お尻のポケットにさしていたスマホを確認し、がっくりと肩を落とす彼。


 わたしは、立ちあがった。


「じゃあ、わたし家からなにか持ってきます!」


 えっ――と、彼が半端に腰を浮かした。目をまんまるにして驚くその顔に、わたしはにこっと笑いかける。


「家、近いので。十分以内には戻ってこられると思います」

「いや、でも。迷惑じゃ……」

「ぜんぜん! 猫ちゃんのためですから。ーーじゃあ!」


 戸惑う彼にそう宣言して、わたしはカバンを脇に抱えこんで家の方向に走り出した。


 人見知りのわたしだけど、そんなこと言っていられる場合じゃない。


 だってわたしは猫が好きだ。

 

 猫とその飼い主が困っているのを見過ごせない。

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