第五章

第25話

見覚えのある部屋で朝を迎える。



気だるさに、ゆっくり体を起こす。



自分の家の寝室だ。



貴也さんは、いないようだ。



ちゃんと部屋着になっているのは、貴也さんが着替えさせてくれたのだろうか。



時計を見ると、朝の6時だ。



「ちょっと早いけど、支度しよう……」



結局、誤解が解けなかったのか、自分的には言い訳すらさせてもらえなかったなと、途方に暮れる。



リビングに行くと、机には朝食が用意されていて、隣には一枚の紙が置いてある。



〝昨日は無理をさせてすまなかった。大人げなかったと、反省しています

また改めて話をしよう

朝食を作っておいたから、少しでも食べて

じゃ、夜に


貴也〟



律儀だなと、申し訳なさそうな貴也さんの顔を思い浮かべて笑う。



いくら契約でした偽の結婚といえど、やっぱり貴也さんに誠実であるべきだったなと、軽率な行動をした事を反省する。



洗面台でボーッとする頭を覚まし、リビングの椅子に座る。



「いただきます」



用意された朝食を、味わって食べる。



普段しない料理を、貴也さんが私の為に作ってくれたから。



「クスッ、ちょっと焦げてる」



何でも出来る貴也さんでも、出来ない事はあるんだなと、弱点を見つけたみたいな気持ちになって、嬉しさにまた笑う。



どんな感じでキッチンに立ったのか、片付いているキッチンを見る。



「あたふたしたりして……凄く、可愛いんだろうな……」



想像すると、たまらなく愛おしくなる。



食べ終えて片付けると、少し時間が空く。



「会社……どうしよ……」



昨日の事があって、正直気まずくて行きたくない。



だけど、行かなきゃ。



とか何とか言いながら、気だるさが勝ってしまって、何もする気になれなくて、サボってしまった。



昼までゴロゴロして、夕飯の買い物がてらに散歩してみようと思う。



貴也さんと住み始めてから、こんなにゆっくりと散歩をする事なんてなかったから。



優しい風が吹いて、部屋でしか下ろさない髪を揺らす。



「貴也っ、待ってよっ!」



可愛らしい女性の声が、耳と胸を突き刺す。



貴也。今貴也と言った。



まさか、そんなわけない。



そう思いたいのに、私の目に入って来た光景は、そう思わせてはくれなかった。



貴也さんの腕に細い腕を絡ませ、明らかな好意を向けて微笑む、華奢で小柄なフワフワした明るい印象の女性。



悔しいけれど、貴也さんの隣にいても違和感がなく、むしろ彼には彼女のような人がお似合いなのだろう。



自傷気味に笑って、見つからないように、髪で顔を隠すように俯いて踵を返す。



―――ドンッ。



振り返った瞬間、誰かにぶつかったようで、スーツが目に入る。



「すみませんっ……」



「あれ、迪香ちゃん?」



顔を上げると、そこには澤原君がいた。



不思議そうな顔をしていた目が、見開かれる。



「ど、どうしたのっ!?」



「……え?」



彼の言っている意味が分からない。



澤原君の手が、私の頬に触れ、指が目元を撫でるように触れる。



「泣いてるじゃん……何かあった?」



私、泣いてるのか。気づかなかった。



貴也さんに見つからないようにする事に必死で。



「迪香……と、君は……」



しまった。走って逃げるべきだった。



挨拶をする澤原君。



涙を拭って何事もない風を装い、振り返ると先程の女性と一緒に並ぶ貴也さんの姿。



見たくないな。



微かに厳しい顔をしているような気がする貴也さんが、私を目で捉える。



「迪香、今日は仕事じゃなかったの? サボってまで、彼と何を?」



まるで責めるみたいな言い方をされ、この状況に、さすがの私にも不満が生まれる。



「その言い方は酷くありませんか? じゃぁ、逆に聞きますけど、貴方はその方と何を? 腕を組んでまでするお仕事って何なんでしょうね? 自分の事を棚に上げて、私を責めるのは違うのでは?」



腹が立っているから、口が止まらない。



「ああ、自分は女性と仲良く腕を組んでイチャつくのはよくて、私はただの同期といるのも駄目だと? それはどういう理屈なんですか?」



「迪……」



何か言いたそうな貴也さんが、口をパクパクさせているけれど、今の私にはそんな事を気にする余裕なんかなかった。



「そちらの方とご結婚され直しては? こんな可愛げもなくて、つまらない私なんかより、数倍はいいんじゃないですか?」



鼻がツンとして、涙が滲み始める。駄目だ、これ以上話せば本格的に泣いてしまう。



こんな所で泣きたくない。



「澤原君、行くよ」



「えっ!? あ、えと、はいっ!」



貴也さんに背を向け、澤原君に声を掛けて歩き出す。



「迪香っ……」



手首を掴まれた。けれど、自然にその手を振り払う。



「離してっ……。他の女を触った手なんかで、触らないでっ……」



睨みつける目から流れる涙は止まってくれなくて、頬をどんどん濡らしてゆく。



「貴也さんなんか……大っ嫌いっ……」



胸が苦しくなって、子供みたいな言葉をぶつける。



目を見開いて手を離す貴也さんが呆然と立ち尽くすのを無視して、私はその場から逃げ出した。

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