第16話

通勤電車に揺られた後、会社までの距離をゆっくり歩く。



もちろん、最近私の日常化となりつつある男、海吏と並んで。



「いい? たまたま会ったって設定なんだから、余計な事言っちゃダメだからねっ!」



「別にそんな事までしなくてもいいだろ」



のらりくらりと交わす海吏を睨みつけると、両手を顔の横に上げて降参のポーズを取って「はいはい」と言った。



その顔は何故か楽しそうだ。



突然キョロキョロし始めた海吏が、私の手首を掴んで、少し入り組んだビルとビルの間に誘導する。



何がしたいのか分からず、なすがままになっていると、腰に手を回して引き寄せた。



一瞬、唇に柔らかい感触。



キスをされたのだと気づくのに、少しかかる。



急いで周りを見回すけれど、幸い私達に気づく人はいなかった。



意地の悪い顔でニヤリと笑い、また顔が近づいた。



「海吏っ! ちょっと、待って、もっ……ダメだってばっ……ンんっ……」



海吏とのキスには本当に弱くて、上手く抵抗が出来ない。



「はぁ……やば……んっ、これ、めっちゃ興奮するわ……」



「はっ、っ、やぁっ……んっ、か、りっ……ふっ、んんンっ……」



壁に背をつけた海吏に、腰を固定された状態で抱き寄せられながら、深く口付けられて、海吏のスーツを掴んで抵抗を試みる。



ほとんど意味はないけれど。



キスだけなのに、体の奥が痺れて熱くなる。



さすがに時間が気になった私は、キスから逃れようと、海吏の肩を何度も叩く。



「っん……はぁ……っぁー……はいはい、分かったから暴れんなって」



「こんなとこに連れ込んでまで、こんっ、こんなっ……」



「どんなとこでも、どんな時でも、俺はお前を愛でてたいんだよ」



当たり前みたいな顔で言った。



そんな事言われたら、顔が熱くなる。



心臓が、爆発しそうにうるさい。



通常の道に出て、何事もなかったかのように再び歩き出し、会社が近づいた頃。



「そうだ瑞葵」



海吏に声を掛けられ、隣を見上げる。



小さくチュッと音がしたと思った時には、海吏は先を歩いていた。



「な、な、なな、なっ……」



「隙だらけ。ごちそうさん」



言葉にならない私をよそに、海吏は先に行ってしまった。



信じられない。何処で誰が見ているとも限らないのに。



こんな事ばかりじゃ、心臓がもたない。



ため息をついて、周りを確認しなが歩き出す。



「せーんぱい」



背後から声がし、ハッとして振り向いた。



「い、伊崎……」



「おはようございます、先輩」



爽やかに笑顔を浮かべる伊崎に、少し違和感があったけれど、それより私には気になる事があり、それどころではない。



「伊崎君?」



「はい、何ですか、先輩」



ずっとニコニコしている伊崎に、私は遠慮がちに口を開く。



「……見た?」



「何をですか?」



ニコニコが止まらない伊崎の様子が引っかかりながら、見られていなかった事に安堵する。



しかし、その後の言葉に肝が冷える。



「あ、もしかして、白昼堂々鳴沢先輩とキスしてた事ですか?」



何で伊崎はニコニコしながらそんな事をいうんだろう。



まるで、責められているみたいだ。



「まさか、お二人が付き合ってたなんて、知らなかったなぁ」



「え、あー、えっと……」



「水臭いじゃないですかぁ」



誤解されている。



それもそうか。普通なら、付き合ってるからこそする行為なのだから。



「でも、あんまりお二人がそういう関係なイメージないですよね」



「あの、伊崎、その……私達はそういう関係じゃ……」



「え? まさか、付き合ってないんですか?」



「あー……まぁ……好きだとは言われたけど……恋人とかでは……」



そう言うと、伊崎の顔が驚きの顔に変わり、その後、初めて見る顔に変わる。



「へぇー……先輩は付き合ってもないのに、キスとか出来る人なんだ……。まぁ、さっきのは明らかに鳴沢先輩の方からだったけど、嫌がってはなかったですよね。もしかして、それ以上もしてたりします? たとえば……」



ジリジリと距離を縮めてくる伊崎に、少し後退る私の腕が掴まれる。



耳元に伊崎の口が近づいた。



「セックス、とか」



「っ!? ゃっ……」



耳たぶを軽く噛まれ、急いで体を引く。



いつもの様に無邪気に笑うのではなく、怪しい笑みを浮かべる、知らない人のような伊崎がそこにいた。



「付き合ってもない男と、キスしたりそれ以上の事が出来るのに、こんな事くらいで赤きくなるとか、ほんと先輩は可愛いっスよね」



道の両端を緑が囲んでいる為、私は再び人気のない場所に連れて行かれる。



こんなに忙しい朝は初めてだ。



「伊崎っ、手、痛いっ……」



掴まれた手が離され、木に背を付けるように立たされる。



「知ってると思いますけど俺、先輩の事好きなんですよ。憧れももちろんあるけど、ちゃんと女として見てます。だから、先輩が鳴沢先輩とそういう事してるの、許せないんスよね……」



「い、伊崎っ……」



頬を指でなぞられ、ビクリと体が固くなる。



「傷つくなぁ……そんなに怯えないで下さいよ。俺だって、可愛い後輩でいたかったのに、先輩が俺を煽るから」



「あ、煽ってなんか……」



「鳴沢先輩と出来るんなら、俺とだって出来ますよね? 相手して下さいよ……先輩」



何を言ってるんだろう。



頭が混乱する。思考が追いつかない。



「ずっと好きだったのに。ねぇ、先輩。俺、いい子にしてたでしょ? なのに、何でよりによって、あの鳴沢先輩なんですか……。ほんと、鳴沢先輩は俺が嫌がる事するの上手いなぁ……俺、あの人が大っ嫌いなんスよ」



伊崎はこれが素なんだろう。ずっとこれを隠して来たんだ。



なのに、私は彼をずっと子供扱いして、苦しめてたのか。



何処か苦しそうな顔で言う伊崎の頬に、ゆっくり触れた。



「伊崎……ごめんね……」



「謝って欲しいわけじゃない。俺は先輩が欲しいんだよ。どうしたら俺の事好きになってくれる? 俺のになってよ、先輩……。先輩が好きなんだ……俺を、好きになって……」



「いさっ……ン、んっ!」



ゆっくり唇が触れたはずなのに、まるで噛み付くみたいな乱暴なキスに、吐息まで飲み込まれていく。



「んんっ! んっ、ぅ、ふっ……ゃめっ……」



必死で伊崎のスーツを掴んで、離そうと試みるけれど、やっぱり男の力には適わなくて、簡単に手を拘束されてしまう。



何度も角度を変えて、深くなるキスに、私は唇が開いた瞬間に噛み付いた。



「って……酷いな、先輩……そんなに鳴沢先輩の方がいいの?」



「はぁはぁ……そういうのじゃないでしょ……こんな、無理やりなんてっ……」



言って、ハッとする。



鳴沢も、最初は突然だった。なのに、お酒が入っていたとはいえ、私は簡単に受け入れた。



伊崎と鳴沢の何が違うのか。



何なら、伊崎の方が好印象だったのに。



「それ、言い訳ですよね。多分先輩は、自分に言い訳してるんですよ。試してみたらいいんじゃないですか? 例えば……戌井先輩とか。キス、してもらったら、鳴沢先輩が特別かどうか分かるんじゃ……」



自然と体が動いていた。



叩いた頬が赤くなって、伊崎が自傷気味に笑う。



「すみません、冗談でも言うべきじゃなかったですね。もうこういうのしないんで、安心して下さい。フラれちゃったし、可愛い後輩に戻りますよ」



いつも通り、可愛い笑顔を浮かべ、伊崎は頭を下げて背を向けた。



今更体が震え始め、その場に座り込む。



震える体を抱きしめる。



涙が溢れ、頭がぐちゃぐちゃだ。

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