第四章
第17話
授業を受けながら、窓の外に顔を向ける。
少し雲行きが怪しい。
傘は持ってきているから大丈夫だけど、雨は嫌いだ。
雨の日は、特にいい思い出がないから。
小さい頃に、家から締め出される時はだいたい雨で、そのせいで誘拐されそうになった日も雨だった。父親の不倫が発覚したのも雨の日。母がおかしくなり始めたのも雨の日で、そして、姉の機嫌が悪くなる日も、雨だ。
雨の日には、ロクな事がない。
あの冷えきった温もりがひとつも無い家に、帰りたくない。
憂鬱な気持ちが、体中を支配して、ため息が出る。
ギリギリまで図書室にいようと決めて、授業に意識を戻した。
午後の授業も憂鬱に過ぎていき、放課後と共に、足が図書室に向かう。
いつもの廊下。
朝会うのに、ここで会うのは久しぶりな気がする。
真剣に本を読む綺麗な横顔。
最近、こういう時に胸がザワつくのが凄く違和感で、何だか居心地が悪い。
本から目を離し、こちらに向けられた目に捉えられ、ドキリとする。
「よぉ、図書室?」
「あ、うん……」
本を閉じて、立ち上がる。
相変わらず身長が高くて、見下ろされる。
「何ぼーっとしてんの? 行くんだろ?」
「え、あ、うん……」
ぎこちなく返事をすると、手を取られる。
指が絡まる。恋人繋ぎ。
何だか、毎回流されてる気がする。
振りほどけない。
違和感。妙にムズムズする。
本人は呑気に欠伸をしてる。
図書室に着いて、毎回私はなるべく奥の窓際を選んで座る。
目の前に座ると思いきや、隣に座る。
凄く距離が近い。
「本、読まないの? てか、近いんだけど……」
「ん? 照れてんの?」
「ち、違うっ……。そ、そんなに近づかれたら、落ち着かない……」
耳元で囁くように笑う。
また遊ばれていると思い、隣に座る葛城琉玖夜を睨む。
意外に優しい笑顔を浮かべた事に、また胸がザワザワする。
何もなかったかのように、本を広げて読み始めた葛城琉玖夜から目を離して、本を読む事に集中した。
時計の音が、心地よく耳に入ってくる。
その音と一緒に、小さく雨の音がし始めた。
降ってきたかと憂鬱の色が濃くなった頃、隣に座る男が本を閉じて、机に突っ伏す。
「帰る時、起こして」
「え……寝るなら、帰ればいいのに」
「お前まだ帰んねぇだろ?」
一緒に帰るつもりなんだろうか。帰って寝た方が楽だろうし、家の事情もあるだろうに。男の子だから、遅くなっても何か言われたりしないんだろうか。
何か言おうにも、もう眠ってしまったようで、規則正しい寝息を立て始めた。
仕方なく、ギリギリまで本を読む事に意識を戻した。
しかし、時間は止まってくれなくて。ついに帰る時間が来てしまった。
仕方なく隣でスヤスヤ眠る男を起こす為、体に触れる。
「起きて、帰るよ」
「……ん……」
眉が顰められ、長いまつ毛が揺れる。
「……ちゅーしてくれたら、起きる……」
そう呟いて、突っ伏したまま意地の悪い顔で笑う。
「……じゃぁ、私帰るから」
「やっぱ駄目か……残念」
残念そうに見えない笑いを浮かべ、大きく伸びをして立ち上がった。
外へ出ると、やっぱりまだ雨は降っていて、またため息が出る。
カバンに入れていた傘を取り出し、ふと隣を見た。
明らかに傘を持っていない彼は、そのまま進もうとする。
自然に袖を掴んでいた。
「何で当たり前みたいに歩き出すのっ! 私傘、あるから」
傘を開いて、彼も入れるように半分差し出すと、驚いたような顔をする。
「俺が入ったら、お前濡れんじゃん。いいよ、俺は」
そんな事を言われても、濡れてる人を放って自分だけ差すなんて出来るわけがない。
私が引かない事に呆れたような顔をして、傘を私の手から奪った。
「俺のが背高いから、俺が持つ。これでいいだろ。ほら、もっとくっつけ」
肩を引き寄せられ、密着する。
相合傘とは、こんなに引っ付いて歩くものなのか。変に心臓がザワザワする。
帰る時間が妙に長く感じて、無言になる。
元々あまりたくさん話す訳じゃないけれど、雨の音だけが耳に響く。
それでも家には着くわけで。私が送ってもらう形になってしまった。
「傘、そのまま使って。返すのはいつでもいいから」
「悪いな。じゃ、お言葉に甘えて」
そう言って帰るかと思うと、なかなか動こうとしない。
「帰らないの?」
「お前が入ったら帰る。寒いから、早く入れ」
変なところで紳士を出してくる。また明日と言って、家へ入る。
相変わらず真っ暗な部屋。
いつもと違うところは、靴がたくさんあるところだ。
嫌な予感がする。
静かな家に、微かに声がして、姉の部屋からだと察した。
騒いでいるのか、男と女の笑い声がする。
母は自室にいるのが靴を見て分かる。けれど、今の母は父親の事以外に興味が無い。
私の事にも興味はないけれど。
なるべく音を立てず、存在がバレないように靴を脱いで階段を上がる。
もう少しで部屋という時だった。
二階にあるトイレから、誰かが出てくる。
知らない男だ。
私を見つけてニヤリと笑い、近づいてくる。
自室にはまだ少し距離がある。階段に向かった方が近い。私は、ゆっくり後退る。
「君、妹ちゃん? 俺お姉さんの友達。こんにちは」
「こ、こんにちは」
カバンを握りしめる手が震える。
男の歩幅が大きいからか、あと一歩のところで、腕を掴まれてしまう。
「どうしたの? 怯えちゃって……怖がらせちゃったかなぁ……男に免疫ないって聞いてたけど、君あれでしょ? 葛城達に囲われてんでしょ? なら、俺の相手もしてよ」
眼鏡を奪われ、顔を背ける。けれど、すぐに顔を戻される。
「へぇ〜……むっちゃ美人じゃん。隠してんの勿体ないね……」
笑った男に、ゾワリと鳥肌が立つ。
「おい、何してんだ?」
男の後ろから声がかかって、その人が近づいてくる。
「おっ! 何この可愛い子、知り合い?」
「バカ、アイツの妹だよ。ヤバくね?」
「アイツ、ブスで地味って言ってたけど、全然じゃね? めちゃくちゃ美少女じゃん」
最初に現れた男が、葛城琉玖夜の名前を出して、二人がニヤリとした。
掴まれた腕が痛む。
そのまま一番近い私の部屋に、引きずられるように連れていかれる。
「あ、声出したら、人数増えるから。その方がいいなら、泣くなり喚くなりしていいけど」
言われ、声が出なくなる。
二人でも怖いのに、これ以上増えるなんて考えられない。
前の事が頭を過ぎる。
今のこの状況は非常にマズい。逃げ場がない。助けてくれる人もいない。
考えろ。考えなきゃ。このままされるがままなんて、絶対嫌だ。
ベッドへ促され、真ん中辺りに座る。一人は私の前に座り、もう一人は私の背中の方に回る。挟まれた。
「大人しいじゃん。いいね、素直な方が女は可愛いよ」
「そうそ、大人しくしてたら気持ちいいしさ、お互い、ね?」
前にいた男が私の結っていた髪を解いて、私をベッドへ押し倒す。
「やば……超興奮してきた。俺もうギンギン」
「こんな綺麗な子抱けるとか、ヤバすぎ。俺も勃起してきたわ」
耳を塞ぎたくなるような言葉を口にして、二人が息を荒くする。
制服のボタンが外され、ゆっくりはだけて露になる肌。
ヒヤリとする空気が触れ、色んな意味で震えた。
カチャカチャと忙しなくベルトを外す男。今二人が私に触れていないのを確認する。
今が、チャンスかもしれない。
体を起こし、前にいた男を突き飛ばす。後ろの男が伸ばした手を、近くにあったカバンを投げて払い、部屋を出た。
鍵が掛かっていなかったのが、本当に救いだった。
階段を掛け下りる間も、後ろに気配があった。判断を誤って、また捕まったら次は逃げられない。
一階の物置になっている部屋に逃げ込む。
昔、私がよく逃げ込んだ場所。ここは他の部屋より少しだけ頑丈に出来ているのを、私は知っている。昔の事なのに、体は覚えているものだと少し苦笑した。
私を探す声がする。
怖くて怖くて、震える指でスマホを手にする。
珍しく制服のポケットに入れていた事に、ホッと安堵した。これがなければ、いつか連れ戻されていたと思うと、ゾっとする。
やっぱり私は、この男しか頼れなくなっていた。
少ない自分の電話帳。誰の番号より一番に手が止まる番号。
その番号しか、私の目には入っていなかった。
焦って落としそうになるのをグッと耐えながら、その番号を押す。
―――プルルルル……。
長く感じる音。こんなにも早く聞きたいなんて思う事がなかった、あの低い声を求める。
『どした?』
短い言葉。なのに、体中に何か分からないものが走り抜ける。
『お前からとか、珍しいじゃん。何かあった? もしもし? おい……』
「助け、て……」
『は?』
「たす……けて……助けてっ……琉玖夜っ……」
自然と出た言葉に驚いたのは、彼だけではなかった。
驚きに見開かれた目から、涙が零れる。口に手を当てる。
『そのまま電話、繋いでろ。すぐ行くから』
優しい言葉で、そう言った彼に、声にならない声を洩らして、私は何度も頷いていた。
扉がノックされる。
「妹ちゃ〜ん。出ておいでよ〜」
「あんまり聞き分けないと、お兄さん達怒っちゃうよ〜」
カタカタと体が震え始める。
怖い。何で私がこんな思いばかりしなければならないのか。
理不尽な事ばかりで、怒りすら湧かなかった。ただ、自分の無力さに呆れてしまう。
自分の為に何かを求めるのも諦めたし、姉と両親の顔色を窺って生きてきた。
それしか生きる術がなかった。
愛人にばかり愛情を向ける父親。父親だけに愛情を向けて、父親の愛情だけを求める母親。唯一の姉は、私に憎しみをぶつける。
私が何をしたんだ。
悔しくて、スマホを握る手に力がこもる。
『美遥。悪い、玄関壊すぞ』
低く響く声。
恐怖を一気に消してしまう不思議な声。
ドアの前が少し騒がしい。
男二人が何かを叫び、何かが壊れる音。二階から数人の足音。
声や悲鳴、色んな音がしていた。けれど、少ししてピタリと音が止む。
『美遥、開けて』
静かだったスマホから、声がする。
安心する。
腰が抜けてしまって、動けない体を引きずって、鍵だけは何とか開ける。
扉が勢いよく開いて、現れた男と目が合った。
そこからは、もう夢中だった。
涙が滲んで、ボロボロと零れる事すら気にならなくて、必死でその男にしがみついた。
「……ほんと、お前は俺を焦らせんのが上手いよ……」
優しく髪を撫で、少し笑いながらそう呟いた。
少し落ち着いた頃、彼の服が濡れているのが分かった。
外は雨。雨の中走って来たのだろうか。
「風邪、引いちゃうね……」
「看病してくれんだろ?」
抱きしめられながら、頭の上から降る声を聞いていた。
「俺ん家、来るか? つか、来いよ。このままじゃ心配で、お前置いてなんて帰れねぇ」
突然の申し出に、彼の顔を見上げる。
鋭い切れ長の目が私を見つめて、頬に指が滑る。
「俺んとこ、来てよ……美遥」
胸が熱くて、心臓がうるさいくらいに高鳴る。
気づいたら頷いて、彼の手を取っていた。
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