第13話 ハートブレイク①


 ……バタン。


 姫上さんの家を出て、僕はゆっくりと扉を閉めた。

 熱に浮かされ、苦し気に寝息を立てていた彼女を思い出す。


「……っ」


 拳を握りしめる。

 今の彼女を、一人になどしたくはない。

 しかし、どうしても残ることはできなかった。


『――帰って。お願いだから』


 普段の面倒そうな拒絶とは違う。

 ただ懇願するような、彼女らしからぬ必死な声。

 それに僕は、ただ身を引くしかなかった。


 ……いや。


(……違う……嘘をつくな)


 僕はただ、怯えただけだ。


 彼女の秘めた凄絶な過去。それに僕はたじろいだのだ。

 彼女の抱えた孤独の、深さと暗さ。

 それが怖かった。想像したくもなかった。


 だから、逃げた。

 彼女を気遣ったわけではない。ただ怯えて、僕は逃げ出したのだ。


「……ふ、はは」


 嗤いが込み上げる。なんて無様だ。

 生涯の伴侶だの、運命の相手だの。

 散々好き勝手言っておいて、このザマか。


「……っ!」


 ガンッ! 古びた手すりを蹴り付ける。

 僕らしくもない野蛮な行為。

 だがそうでもしなければ、頭がどうにかなりそうだった。


(……僕に、彼女の気持ちは分からない)


 理屈としては理解できる。

 でも、共感などできるはずもない。

 

 ——なぜなら、僕は恵まれていたのだから。


 優秀で優しい両親。愛らしく明るい妹。

 友人も、好きだと言ってくれる女の子も多くいた。

 僕は常に、愛に囲まれて生きてきた。


 ……だからこそ、分からない。


 親という愛の象徴に、見放された痛み。

 それがどれほどのものかなど。


「……」


 一階に降り、彼女のいる部屋を見上げる。


 今、彼女は何を考えているのだろう。

 僕の作ったおかゆは、全部食べられただろうか。

 

 ……また一人で、泣いていないだろうか。

 

 そんなことを考えると、すぐにでも引き返したくなる。

 いますぐ彼女の部屋に戻って、風邪が治るまで傍にいたい。


 ……そう思うのに、足は全く動かなかった。

 どれだけ力を込めても、彼女の部屋に向かうことができない。

 そのことに歯噛みし、頭を掻きむしり。


 ……やがて僕は、肩を落として、アパートに背を向けた。













「おかえり、お兄ちゃん」

「……ああ、ただいま」


 家に帰ると、妹の愛子が出迎えてくれた。

 いつもと変わらないその笑顔に、思わずほっと息をつく。


「……お兄ちゃん? どうかした?」


 普段と違う様子を察したのか、僕を見て愛子は首を傾げる。

 いや、なんでもない——そう言おうとして、僕はふと思ったことを口にした。


「……なあ、愛子」

「ん? なに?」

「もし明日、僕も、父さんも母さんも、家族全員がいなくなったら、どうする?」


 それは、ほとんど無意識のうちに溢れた問いだった。

 あまりにも不謹慎すぎる問いかけだ。

 そう分かってはいるが、つい問いかけてしまった。


 それを聞いた愛子はポカン、とした後、やがて眦を吊り上げた。


「……なに、それ。意味分かんない」


 短い言葉。だがそこには少なからず、怒気が混ざっていた。

 それに僕は、慌てて言葉を補う。


「いや、すまない。不謹慎なことを言った。ただ、少し気になっただけだ」


 妹を不安にさせるつもりなどなかった。

 そう言うと、しばらく無言でこちらを見ていた愛子は、はぁ、とため息をつき。


「……よく分かんないけど、真面目に答えた方がいいの?」


 仕方ないな、そんな風に腰に手を当て、僕をじっと見る。


「……ああ、できれば、頼む」

「……」


 そう返すと、妹はんー……としばし悩み。


「多分、耐えられないんじゃないかな。お兄ちゃんもお父さんもお母さんもいないって、一人ぼっちじゃん。それで生きれるほど、私強くないし」


 拗ねたようにそういうと、妹はえいっと僕の脛を蹴った。


「……いだっ!」

「妹を不安にさせた罰。なんなのこの質問。何の意味があんの?」

「い、いや……」


 笑って誤魔化しつつ、僕は内心嘆息する。

 耐えられない、か。そうだよな。

 僕だって同じだ。

 妹や、父や母がいなくなれば、きっと生きていけない。


「……ありがとう。少しだけすっきりした」

「いや、お礼言われても……まあいいけど。それで、ご飯は? まだなら作るけど」

「ああ、もらおう」


 そう言って、パタパタと走っていく妹の後を追う。


(……そうだよな)


 分かりきった答えに、僕は頭をかく。

 人は一人では生きていけない。そこまで強くはなれない。

 それが普通で、そうあるべきだ。


 ……それでも、彼女は耐えたのだろう。

 支えを失い、頼れる存在もなく、たった一人で。

 ……同い年の、まだ高校生の女の子が。


「——ちょっとお兄ちゃん。ご飯作るの手伝ってよ!」

「……っ、あ、ああ」


 結局、頭の中には霧がかかったまま。

 僕はただ、せめて彼女の体が、早く元気になることを祈った。




 ——そうして、その二日後。


「おはよ、蒼汰」

「ああ、おはよう」


 朝、聖也の挨拶に軽く手を上げて答える。

 あれから二日。昨日は姫上さんは登校してこなかった。

 きっと大事をとって休んだのだろう。

 今体調はどうなのだろうか。一応メールは送ったが、返信がなかった。


(……回復しているといいが)

 

 正直心配で気が気じゃない。

 本音を言えば今すぐ彼女の元に行きたいくらいだ。

 ガタガタと貧乏ゆすりをする僕。それを不思議そうに見る聖也。

 すると。


「おはよう」


 ……ガタッ!


 一人の女子生徒が教室に入ってきたのを見て、僕は思わず席を立った。


「——あ、姫上さん!」

「姫上さん、大丈夫!? 熱あったんだって? もーそれなら言ってよー!」

「ね、いきなり倒れるから、めっちゃ心配した!」


 クラスの女子たちが、たちまち彼女を取り囲む。

 二日ぶりに見る彼女の顔。

 見ると、二日前よりは生気が戻っていた。


 それを見た僕は、彼女達に続き、姫上さんの傍に行こうとしたが……


「……っ」

「ん? どした蒼汰。二日ぶりの奥さんだぞ?」


 隣に来てそう茶化す雅之にも、今はとても言葉を返せなかった。


(……足が)


 どれだけ命じても、体が前に進まない。

 岩を背負ったように体が重く、彼女の方に行こうとするだけで、不快な汗が出る。


「あれ、蒼汰どうしたの? いつもなら”おはよう! 妻よ!“とか言って突っ込んでくのに」

「な。昨日からなんか変なんだよ、こいつ」


 友人二人から怪訝な目で見られる。

 僕はどうにか彼女の方に行こうとして……やがて諦めて、席に戻った。


「……ほんとにどうした? お前」

「いや……」

「悩みがあるなら、相談乗るけど?」


 次第に心配そうになる二人。

 気持ちはありがたい。

 でも、これは果たして、人に相談できるものなのだろうか。


 僕自身、自分が何に悩んでいるのかも分からないのに。


 クラスメイトに囲まれる彼女の方を見る。


 体調はもうすっかり快復したようで、そこにいるのはいつもの、”姫上さつき“だった。


 だが、僕の目には、まるで彼女が、知らない人間になってしまったかのような違和感があった。


「……そう、だな。いずれ、相談に乗ってもらうかもしれない」

「う、うん」

「またくだらねえことじゃないといいけどな」


 そう言って、二人は席に帰って行く。

 ……本当なら、今すぐに彼女に駆け寄りたい。


 体調のこと、家のこと、彼女自身のこと。

 聞きたいことは山ほどある。

 だがどうしても、体がそれを拒む。


 何を恐れているのかは分からない。でも、怖くてたまらない。

 今彼女と話をすれば、何か大事なものを失ってしまいそうで。


 そう思ったからこそ、今だけは、彼女と話をするつもりはなかった。


 それなのに……




「——水野くん、良かったらお昼、一緒にどう?」




 ……なんで、こんな時に限って、キミはキミらしくいてくれないんだろうな。


 



 



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


【あとがき】


ここまでお読みくださり、ありがとうございました!


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