第5話

■五話■


 その獣は、雪を引き連れてやってきた。

 吠えた瞬間サラ・グリズリーは立ち上がり、大きく腕を広げる。人間の頭はサラ・グリズリーの足の長さに満たない。十メートル以上はありそうな体躯に、太い手足、鋭い爪。タキは血相を変えて号令をかける。 

「退けええええ!! 掴まったら全滅だ!」

 スイも同時に動きだした。フウをウェザリアに預けて走り出す。

「ウェザー、フウを頼みました」

「ま、待て! あんなもんどうやって……!」

「それ貸して」

 スイはタキの部隊の旗を奪って走る。フウとウェザリアはその場にポツンと取り残されて、慌てて逃げ出す兵士たちの群れから外れた。ウェザリアはフウの頭を撫でて落ち着かせる。スイは全力で走って、サラ・グリズリーのところへ向かっている。その間にも、西側の軍隊が宙を舞う。

「とんだとばっちりだな」

 ザフオルの騎士団とはまだぶつかっていない。ハロルドが率いている彼らは、逃げるわけにはいかないだろう。西軍が壊滅していく様を目の前で見せられている。フウを抱えて歩き出す。どちらにせよ、あちらへ向かわないわけにはいかない。「歩けるようになったら言えよ」そうしたら塀の中へ入って、できるだけ南側へ逃げるのだ。まだアルデインやグースがいれば、一緒に連れて行って貰えるように頼んでみよう。

「どうしよう、ウェザリア様」

「お前がどうこうできる相手じゃねえだろ」

「スイちゃんが」

「うん。スイが行ったよ。だから心配することねえよ」

「いくらスイちゃんだって、あんなの」

「あんまり暗いこと言ってるとここに置いてくぞ」

「だってええええ」

「泣くなよ首席」

「ウェザリア様はあれを近くで見たことないからそんなことが言えるんだああああ」

「今から近くまで行くけどな、同じこと言ってやるからその時謝れよ」

「根に持つ男は嫌われるよ……」

「急に大人しくなるなよ。俺が根に持つわけねえだろ」

「嘘だ。ウェザリア様は絶対初対面でスイちゃんに殴られたこと死ぬまで言うよ」

「それは言うだろ。運命の出会いだぞ」

「根に持つじゃん」

「根に持つとは違えよ」

 いいや。きっと、フウは逃げないだろう。騎士見習いにして、敵国の兵団を見つけて動きを見張るなんて言い出すような女だ。スイに圧倒的な実力差を見せつけられても折れずに練磨していこうと前を向く、ザフオル中、いや、サラ王国中の人間を集めても、ここまでの人間を探すことは難しいだろう。少しの間背中を預けたが、しっかりウェザリアについてきていた。ウェザリアが一度見た、フウはじっとスイの姿を目に焼き付けているようだった。スイはまた一人で行ってしまったけど。

「はは」

「え、壊れた?」

「いや、スイがさっき、俺のことウェザーって呼んだんだ。聞いてただろ」

「ごめん。聞いてなかった」

「聞いておけよ」

 言ってたかな、と首を傾げている。涙は引っ込んだようだ。相変わらず走って向かう先はおぞましい光景が広がっているが、スイは一足先にあそこへ行ったし、ウェザリアもフウもそこへ向かっている。

「走れるか」

「走れます」

「よし、じゃあ走れ」

「あ、まだ言いたいことある」

「なんだよ」

「私、首席じゃなくてスイちゃんの一番弟子だよ」

「自称だろ」

「名乗ったモン勝ちでしょ」

「なら俺は未来の旦那様だ」

「それは同意がいるよ」

「てめえこの野郎」

「わあ、怖ーい」

 フウの頭を小突こうとするとひらりと避けられた。スイの見立て通り、大きな怪我はないようだ。ただ、縛られていたロープの痕と、涙の跡が痛ましくはある。フウは走りながら、しっかり息を吸い込み、そして吐く。

「ほんとに、怖い」

 そうだな、とは言わないでおいた。


 とんでもない仕事を任された。これであれば、東軍にスイと一緒に飛び込む方が楽だったのではないか。ハロルドは馬上で呆然と目の前で繰り広げられる殺戮を眺めていた。立ち上がると十二メートル程はあるだろうか。赤毛の熊が大気を震わせ吠えている。ビリビリと肌に感じる振動は、これだけ離れていても相当なものだ。西から来た軍隊の人間が、装備ごと、装甲ごと空中に放り投げられている。嘘みたいに投げ出されて、ぐしゃりと地面に落ちるのだ。はじめこそ、周りの兵士がクッションになっていたが、もうそんな暇はない。逃げ惑うのに必死であった。散り散りになって逃げ出すが、逃げ遅れたものは切り裂かれ、熊の赤い毛は更に赤い。

「ハロルドさん、これ」

「何も言うな。僕たちが逃げれば、町に入って来る」

 町に入って、破壊の限りを尽くすのだろう。奴はまず近い人間、目に入る人間を裂いて、壊して、動かなくなったと思ったら次を探す。目は三つ。赤色の、フオルうさぎと同じ目の色だ。もう西軍の兵士はほとんどいない。周りに動くものがいなくなれば、次はこちらへ来るだろう。

「盾で、一発。一発防いで刺す。どうにか奴を止める」

 ハロルドは指示を出しながらそんなことができるだろうかと考える。指示を出されたほうも盾を構えるが、言われたからやっていると言うだけで、どうにかなる保証はない。西軍の連中は銃を使用していたが、皮膚が相当に堅いのか、サラ・グリズリーがダメージを受けていたかどうかはわからない。

「奴がこっちに走って来たら大砲を撃て」

 塀の上の騎士に指示を出すが、常に「本当に?」と誰かに問われている。これはまさしく天罰なのではないか。西から来た連中は運が悪かった。だが、逃げ切れた奴らは運がいい。ザフオル騎士団に逃げ場はない。サラ・グリズリーは突如山の中腹あたりに現れ、木をなぎ倒しながら一直線にザフオルへ向かってきた。

「あ」

 誰かの怯えた声が聞こえる。

 今、サラ・グリズリーの前に取り残された一人の兵士が、サラ・グリズリーの右手に潰されるのが見えた。三つの目玉がこちらを見る。「は、」息が苦しい。まだ遠くにいるのに、目の前にまで迫られたようだ。馬の手綱を握る手が、剣を握る手が、盾を握る手が震える。真っすぐ立つことすら難しい。油断していると一目散に逃げ出しそうになる。体が反っていくのを耐えて、耐えて。

「グオオオオオオオオオ――――!」

 咆哮。体が動かない。声も出ない。四つ足で、サラ・グリズリーが地面を揺らしながら走って来る。「あああ」怖い。ようやくその感情に名前がついた。恐ろしい。あんなもの、人間の力でどうにかなるようなものではない。しかし、ハロルドは耐える。誰かが一人でも叫べば決壊する。みるみる内に近付いてくる。どどどど、どどどど、どどどど、と四つの足が音を立てて。迷わずこちらへやってくる。突進だけで、何人死ぬかわからない。胸が痛い。誰かが剣を手から滑らせる。胸を押さえて、恐怖が限界に到達し。

「伝承よりもだいぶデカイな」

 よく通る、明朗な声がした。ハロルド他、全ての騎士達の前に、サラ王国、王族の紋章の入ったマントを身につけている。剣と、秤と、花の紋様。赤色の国旗と同じ赤色のマントが目の前でひらめく。

 第一王子は胸を張って、サラ・グリズリーが先ほどしていたのと同じように両手を広げる。

「来てみろ、神の獣よ! 第一王子、アルデインが相手をしてやる!」

 どう見ても丸腰だ。

 ハロルドは一瞬全て忘れて手綱を握り直し、叫ぶ。

「動け! 前へ出ろ! 俺たちには!」

 サラ・グリズリーは依然として迫っている。こちらへ来る前に、前に出て、あの人を、この国を、この土地を守らなければならない。「そうだ」アルデインは後ろで騎士が動きだしたことを感じて満足そうに言う。サラ・グリズリーが真っすぐに走りこんで来る。アルデインと、サラ・グリズリーの間に、赤色の何かが滑り込む。北東の国の金色の旗を持った。――スイが、旗の柄の部分でグリズリーの頭を受け止めていた。地面には靴を引き摺った二本の線ができる。

「俺たちには、戦いの女神がついている」

 サラ・グリズリーはスイの旗が丁度額の目に食い込んだようだ。「ブオオ」と鳴いて飛び退いた。スイは旗を構え直してサラ・グリズリーの前に立つ。ハロルドは慌ててアルデインを下がらせた。

「なにやってんですか! またグースさんに怒られますよ!」

「よしよし、未来の話ができればもう大丈夫だ」

「呑気なことを」

 雪が降っている。

 サラ・グリズリーは体勢を立て直すと、その威信を示すように、恐怖を印象付けるように立ち上がる。ハロルドの後ろにはザフオルの街。ザフオル騎士団。隣にはこの国の第一王子が不敵な笑みで立っている。

「ここは特等席だ」

 目の前には、スイと、その奥に、ザフオルの民が神と崇める獣がいた。


 スイは大きく息を吐き出して呼吸を整える。体の大きさは敵の十分の一程度。一発体に爪を喰らえば生きてはいられない。サラ・グリズリーはまた吠える。

「まさか、倒すのか? あれを?」

 倒してしまってもいいのか? スイは考える。考えながら、後ろに控える皆にいくらか余裕が戻って来ていることに安堵した。聞き慣れた声もしている。

「てめえ! 無茶苦茶しやがってクソ第一王子が!」

「グース、口が悪いぞ」

「うるせえ! 次やったらミンチにして家畜の餌にしてやる!」

 グースが兵士を押しのけてやってきて、アルデインの胸ぐらを掴む。そのまま前後に揺すっている。

「あ、あの、スイさんが」

「ん? ああ。手は出さなくていい。邪魔になる」

「邪魔になるって、けど」

「手助けが必要なら言ってくる。なにか手伝いたいならそこで待っていろ。戦えない兵は退かせていい。スイが万一負ければ全滅だからな。逃げておくのもアリだろう」

 アルデインは飄々と言う。逃げて良い、と言いながら、アルデインもグースも逃げる気はないようだ。ハロルドが騎士達に「アルデイン様の言った通りに。逃げたいものは今の内に逃げておけ」と伝達した。恐怖に支配されていた騎士団だったが、今は隣り合っているものと顔を見合わせて、それから、スイのすぐ後ろでスイを眺めるアルデインとグースの背中を見た。それから、サラ・グリズリーと対峙するスイを見る。そこから視線は動かなくなる。逃げ出す者はいなかった。

「あんたが逃げなきゃ逃げれるわけねえだろ」

「そんなことはない。ここの騎士団が優秀なのさ」

 スイは、攻撃を避けながら、騎士団から少しでも離れるようにサラ・グリズリーを遠ざけていた。打ち合っては、後ろに下がらせる。二歩踏み込まれたら、三歩分後ろへ押し返す。スイはじっとサラ・グリズリーの体を見る。銃を撃ち込まれた時についたと思われる焦げたような跡はあるが、身体から血が流れているということはない。ダメージと言えるものかは怪しいが、スイが突進を止めた時、ほんの少し苦しむような仕草を見せた。目を狙って刺し貫くことができれば、この生き物を殺すことができるだろう。

 だが。

 スイは考える。

 この生き物を殺してしまっていいのかどうか。

 今まさにこの国はサラ・グリズリーに感謝を捧げる祭をしている。同じようななにかであったとしても、これだけ伝承と同じ見た目であればこれはサラ・グリズリーなのである。ザフオルの地に繁栄をもたらしたとされる生物。スイがフウを伴って研究所へ行った時、研究者の一人はフオルうさぎが乱獲されたことは過去にも何度かあったのだと言った。その度、山から獰猛な獣が降りて来て、ザフオルの街を荒らす。人間は慌ててフオルうさぎを保護しはじめる。平和になるとまた忘れて、繰り返す。どうにか忘れないように祭をするようになっても、やっぱり同じことが起こる。研究者達は本に残るサラ・グリズリーの絵をスイに見せた。「山が、山自身で修復できないくらい荒れたら、人間を処理するしかないでしょう」鮮明に描かれたサラ・グリズリーの絵は危機感を煽るだけのものではない。昔の誰かが、祈りを込めて伝承したのだと研究者は語った。「私達は、サラ・グリズリーはいる、と思っています」何故現れるのか。どういう存在なのか。それはわからない。けれど。「悪いのはいつだって私達だ。違いますか」理解できない現象、想像の及ばない奇跡に、神と、そう名前をつけた。


 サラ・グリズリーが右手を振り上げれば、スイはひらりと一撃を躱し、次の一撃に備える。決して注意が騎士団にいかないように、派手に旗を振ってみせる。北東の国の金色の旗が閃いている。まるで舞うように動き続けるスイは、サラ・グリズリーが身を引き、体勢を立て直すタイミングで、サラ・グリズリーの鏡のように息をする。そこでようやく見ているものも息をするが、それでも酸素が足りていない。

 恐怖とは違う緊張感が場を包む。

「泣くなよ、首席」

「だから根に持つ男は嫌われるって」

 ハロルドはハッとして馬から降りる。「ウェザリア様」「よう、無事でなにより」ウェザリアは軽く答えて、すぐにスイへと視線を戻す。フウも同じようにする。ウェザリアから見ても、フウから見ても、スイが苦戦しているようには見えない。しかし彼女はサラ・グリズリーに攻撃しない。

「……スイちゃん、なんで攻撃しないの? 倒そうと思えば倒せそうなのに」

「この国のものは全て宝なんだそうだ。そう言ったやつがいたらしいぜ」

「はははっ」

 アルデインは軽く笑った。「一体誰のことだろうな?」ウェザリアだけでなく、フウも同じようにムッとしている。どれだけ仲良くなっても無駄、そういう響きが隠されもせず乗っているからだ。グースは溜息を吐いている。全員、スイから視線は外れていない。

「何故そんなに得意気なんだ、ですか」

「あいつは俺のものだからに決まっている。スイ・エンサーヴは第一王子、アルデイン・ダン・サラの命でのみ動く。今だって、スイは俺の命令に命を懸けて、全身全霊で守り抜こうとしている」

「なら、スイちゃんにあの化け物を殺せって命令してくれればいいんじゃないの!? スイちゃんこのままじゃ、いつか攻撃喰らって死んじゃうかもしれないんだよ!?」

 相手は、神と呼ばれる獣である。「ふむ」アルデインが冷酷に目を細める。

「そうだな。そうなればあの獣を止められるものはこの国にいない。倒すことができれば神話生物ではなくなってしまうし、それは惜しいが、しかたがない」

 獣よりは民の方が大切だ。止むをえまい。アルデインは言う。

「――スイ」

 スイは返事をしなかったが、声は聞こえているようだった。

「殺していい」


 殺していい。

 スイは頭の中で命令を反芻する。――テンが、アルデインがそう言っている。殺してもいい。それが、国の為になる。であればそうしなければならない。

「スイちゃん!?」

 殺してもいい。

 ――本当に?

 本当にそうだろうか。スイは考える。アルデインは殺してもいい、と言った。だが、自分は? 殺すことを躊躇っている。何故? わからない。殺すことはできるか? きっとできる。自分と同じ赤色の獣が吠える。サラ・グリズリー。この国の名前を貰った生きもの。彼、あるいは彼女のこの怒りは不当なものだろうか。西軍の兵士の死は理不尽に満ちていた。この生き物に恐れおののき、あるいは呪って死んだだろう。

「スイちゃん!」

 フウの声がする。

「スイ、なにをしてる。殺せばいい」

 アルデインの声がする。

 殺せばいい。

 ――殺せばいい?

 スイの動きが僅かに鈍る。サラ・グリズリーが牙をむき、スイが大きく下がる。

「どうして? スイちゃん」


 アルデインは片方の眉を上げて、不機嫌そうに唇を引き結んでる。「殺せ」ともう一度言う為口を開くが、ウェザリアが遮る。

「そうじゃねえだろ」

 フウの肩に手を置いて、腰を曲げる。フウの顔の横で、視線の高さを合わせてスイを見る。

 そうじゃない。

「違えよ、フウ。スイはそんなに単純な女じゃねえんだ。スイが欲しがってる言葉それじゃねえや」

「なに?」

 アルデインの不機嫌そうな声は無視して、ウェザリアは続けた。

「お前、悔しいが俺よりもスイと色んなことを話したろ」

「うん。お風呂も一緒に入った」

「それは初耳だけどな」

 ウェザリアは悔しそうに笑った。


 スイの体にはいくつも傷跡があった。しかし、傷を受けた記憶はないそうで、たぶん記憶がないくらい小さい頃についた傷だろうとスイは言った。戦うのが嫌じゃないのか聞いた。何故戦うのか。聞いた。「この国のものは全て宝だから」確かにスイはそう言われて、その言葉通りに生きていたのだろう。元々は、スイの考えではなかったはずだ。けれど、今のスイにとってはどうか。

「うん、そうだよね。スイちゃんは」

 東軍の人だって、誰一人として殺してはいなかった。綺麗に皆逃げていた。タキが本当に有難そうに、最後にスイの背中を見たのを知っている。殺す必要のないものは、殺すべきではない。感情的になって殴ることはあるけど、自分にできる最大のことを『やりたい』とスイは言った。スイにできる最大のことは、きっと、スイにだってわかっていない。できないと断じるのは、いつだって外側にいる人間だ。

「スイちゃん!」

 フウが叫ぶ。

「できる! 相手はただのでっかい熊だよ! 攻撃だって鈍ってる! その内疲れて家に帰るよ! だから、が――」

 言葉が止まる。これを言ったら、スイは苦しむことになるのかもしれない。スイに死ねというのと同じくらいに重たい言葉の可能性がある。残酷なことだ。けれど、わかっていても言う。スイの欲しがっている言葉は多分これだとわかっている。スイの判断は間違っていない。その方がいいに決まっている。そうして欲しいと、本当は思っている。

「がんばれ! スイちゃん!」

 スイは、サラ・グリズリーを殺さない。

 スイの動きに鋭さが戻る。フウの言葉で迷いが消えた。スイはフウに後押しされる形で、自分の感情に従う道を選ぶ。サラ・グリズリーを山の方向へ押し返す。騎士団が大きくざわついた。フウの言葉は、スイに力を与えたのだ。「がんばれ」情けないとは思う。「いけ」何のための武器かとは思う。「負けるな、スイさん」フウが懸命に声をかけ続けるのを見て、一人、また一人とフウに続く。なにもできていない。かもしれない。けれど信じる。この声は、スイに届く。


「うおおおおおおッ!」

 サラ・グリズリーの咆哮にぶつけるように騎士団員が叫ぶ。熱はどんどん広がって、壁の上からも声がする。スイはさらに、サラ・グリズリーを押し返した。徐々に街から離していく。スイが押し返した分だけ、ウェザリアは前に出た。旗手から旗を奪い取り、スイと、サラ・グリズリーの立ち合いを観察する。

「偉そうなことを言っていて、お前はなにをしている。ウェザリア」

「――スイ・エンサーヴ。それがあいつの名前か」

 そう言えば、タキに名を名乗った時にも、ファミリーネームは言っていなかった。あまり気に入っていないのだろうか。ふ、と笑う。

「また一つ新しいことを知れた」

 あとで理由を聞いてみよう。これが片付いたら、一緒に飯を食う約束もしている。

「お前、なにを」

 旗を構える。スイはあまり、言葉で説明するのが得意じゃない。「やってみるから」と、どんな動きでもしてみせた。だから、スイは指揮官にはなれないのだ。修道会では指揮学の成績が最下位だったそうだ。本を読むのも、半分は人に伝える術を学ぶ為。それでも戦闘時の動きについては「うまく言葉がでない」と申し訳なさそうにしていた。構わない、とウェザリアもフウも言った。見せてくれれば、盗んでみせる。

「よし」

「おい」

 アルデインがウェザリアを止めようと伸ばした手を、グースとフウが止めた。

「スイ」

 それは合図だった。もういける。

 スイからはやはり返事ががないが、ウェザリアにはスイが頷いたように見えた。スイの動きは、フウが声をかけて以降僅かに変化していた。リズムを取る様に体を揺らして、一定の回数の後で動く。誰かになにかを示すような動き方だ。神とは言え、目の前に現れてしまえば骨があり、筋肉がある動物だ。関節の稼働限界はあるし、無理な動きはできやしない。フウが言った通り、サラ・グリズリーの動きは徐々にだが鈍ってきている。「ウェザー」スイが、僅かに体を右にずらす。

 ウェザリアはそこへ飛び込んだ。

 一層大きな歓声が上がる、厚い、灰色の雲を割らんばかりの声援であった。

 背中をぴたりと合わせて正面に立つ二人は、サラ・グリズリーには一つの生き物に見えたようだ。二人の間を割る様に上から両手を振り下ろす。最小限の動きで避けると、二人同時に前に出る。まるで、真ん中に鏡があるようだ。サラ・グリズリーの腹のあたりに旗の柄を差し込み、振り抜く。サラ・グリズリーは山の方へ下がった。サラ・グリズリーが吠えると、二人は並んで、ずれた呼吸を修正する。僅かに差があった体の揺れをピタリと合わせていく。修正を繰り返す度に徐々にズレがなくなっていった。吐くリズムと吸い込むリズムを合わせて、旗の柄を合わせて攻撃を避けたり、有利な位置からサラ・グリズリーの攻撃を誘導したりする。スイは旗を回して微かに笑った。


 アルデインとグースは、一番近くで二人を見ていた。

 アルデインはスイが戦闘中に笑うのを見て思い切り顔をしかめる。あの表情を引き出しているのが、ウェザリアであるとは絶対に認めたくなかった。あれは、神話の生物と渡り合っている高揚からに違いない、と理由をつける。グースが大きくため息を吐く。

「ひどい顔だぞ、テン」

「それはそうだろう。俺は、スイがあんな風に笑っているのをはじめて見た」

「スイよくわかってないけどな。戦うことが嫌いなわけじゃない」

 グースはスイに喧嘩で勝ったことがないし、スイが負けているところを見た事がない。どんな相手にでも当然のように勝つ。悲しみも喜びもしない。それがよく思われずに苦労していたことも知っている。元々人間が好きで、人懐っこい子供だったのに、人間はスイが嫌いなようで、スイは戦えば戦うほど孤立していった。――その状態を肯定したのが、アルデインだ。それでも生きて、国のためになるようにと声をかけた。もともと、アルデインやグースの及ばないところにいたのに、そんな高尚な言葉を、道を示してしまうから、スイはあんなに遠いところにいて、しばらく帰ってきそうにない。

「今まで誰も、スイに付き合ってやれるやつがいなかっただけだ」

「あいつが、そうだと?」

「どうだか。スイにはまだ余力があるようだからな。ここから先もあるんだろう。いつか振り落とされるかもしれん」

 旗の先端同士をぶつけて最小限の力でサラ・グリズリーの攻撃から逃れ、足を動かし続ける。スイが誘導し、ウェザリアはぴたりとそこへハマる。歓声も耐えず、フウが常に団員を鼓舞している。

「悔しくはないか。兄上殿」

「悔しくはある」

 グースは笑う。サラ・グリズリーと、スイ・エンサーヴ、ウェザリア・レイランス。音もなく風もなく、しんしんと雪が降り続ける中、三つ目の熊に立ち向かい、金と赤の旗を振る。

「だがこれは、いつか神話になるかもしれない風景だ」


 サラ・グリズリーが動きを止めたのは翌日の早朝であった。スイとウェザリアは隣り合って真っすぐに立つ。

 赤毛の熊が背を向けると、振り続けていた雪が止んで、朝日が差す。サラとウェザリアは全く同じ動きで旗を地面に突き刺して、サラ・グリズリーへ頭を下げる。

 サラ・グリズリーが山へ消えていくと、ようやく、騎士団員たちが二人に駆け寄った。

「スイちゃん!」

「スイ」

 騎士達の声が枯れている。スイとウェザリアは、今、何が起きていたんだったか、と少しの間考える。今の状況を思い出すのに数秒かかった。「ああ」そうだったな、と笑うと、先程まで隣で戦っていた男の方を見る。ウェザリアはスイより早く隣を見ていて、スイより早く名前を呼ぶ。

「スイ」

 お互いに向かって、同時に手を伸ばす。

「ウェザー」

 ウェザリアがスイの方へ一歩踏み出すと彼はそのまま前へ倒れた。地面につく前に、スイがウェザリアを支える。寝息が聞こえる。

「ありがとう。一緒に、戦ってくれて」

 スイはウェザリアを強く抱き留めて、そう言った。

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