第26話
賑やかで、少し荒っぽい言葉遣いに、最初は尻込みしてしまったけれど、だいぶ慣れた。
「唯栞ちゃん、これ吉屋さんとこ持ってって」
「はい」
「唯栞ちゃん、こっち、水ちょーだい」
常連さんが多いこの喫茶店は、最初に来た時に雰囲気がよくて、ひと目で気に入ってしまった。
身一つで現れた私を、何も聞かずに受け入れてくれたこの店のマスター、向井さんは私より十歳年上で、アルバイトの磯井君と二人でこの店をやっている。
イケメンで優しいのに、ずっと彼女がいないのは理由があって、とにかく女運が悪く、さんざんな目にあってきたらしい。
「ちゃーっス」
磯井君が眠そうに現れる。交代の時間だ。
「唯栞〜、おはようさん。今日も可愛いなぁ」
「ありがとう、磯井君も格好いいよ」
しょっちゅうやっているこのやり取りも、もう慣れたものだ。
磯井君は、明るくて今時の若者感漂う、お調子者。ほとんどの日顔を合わせているのに、会う度に私に可愛いを連発する。
ここで働き始めた頃。
「やっば。何この可愛い子っ! むっちゃタイプやねんけどっ! 君、彼氏はっ!? おらんかったら俺と付き合ってや」
と捲し立てられたのだった。
人懐っこい犬みたいで、お洒落でいい男だと思う。
けれど、誰かと付き合うだとか、そういうのはまだ無理だと断ったけれど。
私はまだ、諦め悪く彼を、林田君を好きなままだ。
他のモノを捨てたとしても、この感情だけは、捨てたくなくて、まだ忘れずに持っておきたいから。
磯井君と交代して、住み込みで働かせてもらっているから、喫茶店の二階の借りている部屋へ向かう。
向井さんには感謝してもしきれない。
常連さんにも優しくしてもらって、この街の人は、みんな温かい。
この店で働き始めて数ヶ月。
寒さもマシになった頃、私は近所に買い出しへ出かけていた。
帰り道、ヒラリと舞うピンクの花びらに目がいった。
「あ、桜だ……もう、そんな季節か……」
本当なら、私は三年生になるはずだった。
後悔しているわけじゃない、今のこの環境も気に入っている。
何より、勝手に逃げたのは私だから。
戻ろうなんて、そんな調子のいい事言えるわけない。
「林田君……新しい奴隷とか、見つけちゃったかなぁ……」
自分で言ってモヤッとするとか、笑える。
服についた桜の花びらを指で挟んで、エプロンのポケットに入れた。
店に戻ると、まだ交代ではないのに磯井君がいた。
たまにあるけれど、磯井君がお客さんで来る時がある。今日は友達と一緒らしい。
学ラン姿は珍しい。磯井君は私と同じ歳だ。
「あの、初めまして、俺磯井のダチで安達って言います。ずっと会ってみたかったんスよね」
「いらっしゃい。初めまして、深神唯栞です」
「東京から来たんスか? なんかこう、清楚っちゅーか、唯栞さんのとこだけ空気が澄んでる感じがするわ」
さすが磯井君の友達、変わってる。
というか、面白い。
「あかんで、唯栞は俺が狙ってんやから」
「は? まだお前の彼女ちゃうんやからええやん。唯栞さん、俺の事も彼氏候補に入れてもらえませんか?」
同じ歳だけど、何か、若いな。
ちょっと、しんどい。
「こら二人共、唯栞ちゃん困らせたらあかんやろ。それに、唯栞ちゃんには忘れられへん人がおるし。俺くらい素敵な大人にならな、今のお前等じゃ、無理や」
私にウインクして「な?」と向井さんは笑った。
イケメンの大人の笑顔は、心臓に悪い。
他愛ない話をしながら、ゆっくり流れる時間に身を任せる。
この時間が、凄く大切になり始めている。
「唯栞ちゃん、CLOSEの札出してきて〜」
「は〜い」
日も落ち始め、店を閉める為に外へ出る。
扉にぶら下がった札を、OPENからCLOSEにひっくり返す。
「唯栞」
金縛りにあったようだった。
体が、動かない。
「やっと……見つけた……」
なんで。
「唯栞」
やめて。呼ばないで。
「唯栞……こっちを見ろ」
やめて。そんな声で、呼ばないで。
そんな、包むような声で。
「唯栞」
後ろから包まれる感触。懐かしい感覚に、体よりも心が震える。
嫌だ。やめて。その優しい腕で抱きしめられたら、あなたがくれたあの熱い日々を、思い出してしまう。
林田君への想いが、溢れて止まらなくなる。
「や、めて……離しっ……」
「離すわけないだろっ! どれだけ探したと思ってるんだっ……」
こんなに辛そうな声で、取り乱したような必死さを向けられるのは初めてで。
今すぐ抱きしめ返したい。
でも駄目。自分からこの手を離して、腕から逃げたのに。
また戻りたくなる。
「お、ねがっ……はなっ……」
「何がそんなに気に入らない。好きだと言ったのは、お前だろ」
聞こえてたのか。あんな小さな声が。
「言い逃げなんて、させないからな」
後ろから抱きしめられてる腕に、力がこもる。
その腕が、少し震えているように感じる。
「無事で……よかった……」
ここまで来て、なんでこんなに優しいんだろう。
勝手な事をした私を、あなたは求めてくれる。
「好きだ、唯栞……俺のそばにいてくれ……頼むから……突然いなくなるな……」
林田君の口から、好きだと放たれた瞬間、私の気持ちは止まらなくなる。
林田君の腕に手を添えると、少しだけ力が緩んだ。
それを合図に、私は振り返る。
「私、汚れてるよ?」
「お前は、いつだって綺麗だ」
「結構わがままだし」
「いくらでも聞いてやる」
「嫉妬するし、束縛するし」
「俺の方がする」
林田君が、嫉妬とか束縛とか想像つかない。
いつから私に好意を持ってくれていたのか分からないけれど、まさかずっと嫉妬したりしてくれてたのかな。
こんな時に嬉しくなってしまっている自分が、ほんとに嫌になる。
「林田君が思うほど大人しくないし、純粋でもないし、淫乱だし……それにっ……」
「何でもいい。全部好きだ」
涙で視界が滲んで、林田君の顔が上手く見れない。
何から何まで私の全てを包み込む、体も心も大きな人。
甘えたくなって、離れたくなくなる。
「唯栞……戻ってこい。お前の居場所はここだ」
腕を広げて、私を受け入れてくれる。
私に温かい居場所をくれる人は、いつだってあなただった。
躊躇いながら、林田君に少しずつ近づいていく。
この腕の中が、やっぱり好きだ。
痛いくらいに抱きしめられる。それに応えるように、私も回した腕に力を込める。
「もう、離れるな」
「林田君は……私なんかで、いいの?」
小さな声で言った言葉に、林田君は間髪入れずに答える。
「なんかって言うな。お前だから、いいんだろう。ずっと俺の腕の中にいろ。次いなくなったら、捕まえて二度と逃げられないように、監禁するからな」
何気に怖い事をサラリと言ってのける。
「林田君が離れろって言うまで、ずっといる」
「誠だ」
「ま、ま……まこ……まだ、無理……」
恥ずかしさで顔が熱すぎて死にそうだ。
何で無理なんだって顔で、不満を漏らす林田君に、ちょっとムッとしながら口を開く。
「私がどれだけ前から、林田君の事好きだったのか、知らないくせに……」
名前なんて、ハードルが高い。
名前を呼ぶより、好きだと言う方が私には簡単だ。
「唯栞……」
頬を両手で包まれ、上を向かされる。
唇が、近づいていく。
後少し、後少しで唇が触れる瞬間。
ほんとにベタだ。
「唯栞ちゃん、えらい長いこ、と……」
「む、む、むむむむ、むむっ……」
突然の向井さんの登場に、抱きついていた体から離れようとする。
けれど、離してはもらえなくて。
「林田君っ、あの、ちょっと離してっ……」
「駄目だ」
「ちょ、ちょっと唯栞ちゃん、大丈夫っ!?」
これは変な誤解を生む気がする。
「唯栞、誰だ」
「そっちこそ誰や。唯栞ちゃん困っとるやろ。離せや」
険悪な雰囲気になりつつある。これはよくない。
とりあえず向井さんに説明する為、中に入る。
その間にも、林田君の手は私の手を離す事はなかった。
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