第六話 横領聖女
アティーファとレオは小屋を出たメレクの帰りを待つ間、現状を整理し、今後について話し合っていた。
その中で、二人が特に気になったのは、聞いたこともない不可解な呪いのことだった。
「彼の言う呪いは、原理的にありえないのです」
と、アティーファはカップの縁を指でそっとなぞりながら、レオに説明を続けた。
「まず、呪いとは、肉体を巡る魔力の経路を乱し、被術者に何らかの肉体的な不調をもたらす、極めて高度で難解、かつ複雑な手順を要求する技術なのです。しかし、彼の呪いは被術者ではなく、周囲に影響を与えている点が明らかに不自然です。むしろ、彼自身が呪いを撒き散らしているような形態だと言えるでしょう」
「自覚もなしに、そのようなことが可能なのか?」
「いいえ。それは不可能です」
彼女は指先で弄んでいたカップを端に置き、考え込むように両手をテーブルの上で組んだ。
「そもそも、女性だけに発動するといった条件付きの魔術は、原理的に不可能なのです。例えば、二股の水路に水を流す際、条件によって右か左に流れを振り分けたいなら、誰かが意思を持って水門を調整する必要があります」
「男女別に発動するという単純なことでも困難なのか」
「魔術理論では、性別や年齢によって発動条件を変えることはできないとされています。魔力の経路は基本的にただの魔力の流れで、その形、つまり魔力紋は性別などよりも個人差の方がはるかに大きいのです。指紋と同じようなものですね」
結局、アティーファの意見を聞いてみても、結局のところ謎は深まるばかりだった。
教会は呪いの解呪を担当する役割を持っているため、魔術理論の研究も行っている。
その教会の聖女は、いわば呪いのエキスパートだ。
彼女が『不可能』と結論付けたあの呪いは何なのだろうか。
ここで、レオはもう一つ興味深い疑問を投げかけることにした。
「ところで、なぜ聖女殿に対して、あの男の呪いの影響が出なかったのだ」
アティーファは僅かに考え込むような仕草を見せた。
もっとも、レオ自身も明確な答えを期待していたわけではない。
ただ彼女の見解を聞きたいという純粋な好奇心からの問いだった。
「それは単純に、私の聖属性によって中和されただけです。つまり、あの呪いは確かに魔力的なものであり、感覚的にもそれは確かなものでした。あれは魔術であるはずですが、そのようなものが理屈上存在するはずがないのです」
彼女の手の間で、カップに残された茶はとうに冷めきっていた。
空の色が急速に闇に染まっていく中、メレクは呆れたように吐き捨てた。
「んなもん、あるわけがないだろうが。
どこの世界に、そんな複雑な条件分岐ができる魔術があるってんだ」
話せば皆死ぬ――そんな魔術が存在するとすれば、それは世界の在り方すら変えかねない代物だ。
メレクを苦しめる呪いは、女性にのみ影響を及ぼすものだった。
確かに、対象がメレクに向ける『その感情に反応する』という彼自身の見解に従えば、それは条件分岐として不可能とまでは言えないかもしれない。
とはいえ、これまで出会った兵士の中に同性愛者がいたかもしれないが、例外なく男には影響が出なかったのだ。
このことは、この現象が単なる感情への反応ではなく、性別という要素が決定的な条件となっている証左でもある。
そして、性別による条件分岐は魔術理論的に不可能だ。
例えるなら、特定の民族だけを選別して滅ぼすウイルスが実現不可能であるのと同じ理屈である。
ルアイリの言う制約の魔術とは、メレクの呪いよりもはるかに複雑なものだ。
要するに、特定の内容を言ったか言わないかを絶えず判定する『何か』が必要であり、いわば人工知能のようなものを魔術で実現していると言っているようなものだ。
「お前たちが追っているのは爺さんの方だな。
正体は高位貴族か王族か。そんな魔術をでっち上げて、魔術理論の基礎を学ぶ貴族を信じさせる影響力を持つ魔術師なんて、宮廷魔術師くらいなもんだろ」
ルアイリは言っていた。小屋を見ると。
彼がディープな小屋マニアというわけではないのであれば、見たいのは中の人物であるはずだ。
こんな山中で、この時間帯にこの辺りをうろつく人物が、あの二人以外にいるとは考えにくい。
つまり、この男が追っているのがメレクでないとすれば、目的はレオかアティーファ、あるいはその両方ということになる。
仮に小屋の話を管理人の婆さんから聞いたのなら、むしろ追手はメレクに対してだろうが、それだと時間的に無理が生じる。
彼女が小屋を離れてから、まだ三日も経っていないのだ。
それに、あの女、アティーファは明らかに旅を計画していたような格好ではなかった。
考えられるのは、レオが何らかの理由で急遽彼女に同行を求めた、ということだ。
貴族の子息が宮廷魔術師に『制約の魔術』なるものを施術され、王都からここまで辿り着くには、相応の日数を要するはずだ。
一方で、アティーファがレオと同行を始めたのはせいぜい一日か二日前だろう。
仮定として、ルアイリたちが地方貴族の所領に属する騎士団だとすれば、標的がアティーファである可能性も否定はできない。
しかし、そうであるならば、宮廷魔術師レベルの人物が地方に常駐し、さらに何らかの重要人物であるアティーファの出奔を予測して待機していたことになる。
それは少々不自然ではなかろうか。
したがって、ルアイリたちが追っているのは、必然的にレオという結論に至る。
そして、ここまで絞り込めば、彼の正体もまた自ずと見えてくるはずだ。
「……先王レオニルドか」
その言葉に、ルアイリは驚愕に目を見開いた。
現在、行方が知れない先王。それがレオニルドである。
現王は、半ばクーデターともいえる強引さで政権を奪い取ったとされ、レオニルドは幽閉されていると聞く。
かつて先王レオニルドは、英雄と称えられていた。
彼は三十年以上にわたる戦乱の世を、自ら兵を率いて戦った。
だが、その政治的な王の不在が王権を弱体化させ、結果的に内政を高位貴族たちに思うがままにさせてきたのである。
現在の王は、歴代の王とは似ても似つかぬ無能と噂されており、それが逆に、物言わぬ傀儡として都合が良かったと考えられる。
これらを踏まえると、ルアイリたちの目的はレオニルドの捕縛なのだろう。
暗殺が目的なら、わざわざ貴族の子息など起用するはずもない。
むしろ、暗殺者から守るために、レオニルドを保護しようとしている可能性をメレクは考えた。
だが、気掛かりなのは例の『制約』だ。
言えば死ぬ――保護が目的だとすれば、これはあまりにも大げさではないだろうか。
しかし、その大げさな制約によって、目の前の男は死の恐怖に震えている。
流石にメレクも彼が哀れに思えてきた。
「大丈夫だって。そんな呪いなんてあり得ないからさ。……ほらほら、まだ全然死んでないでしょ」
何で俺はこいつを慰めてんだ、そうメレクは思うものの、何だか段々イジメのように思えてきて、やるせない気持ちになってきた。
しかし、メレクの慰めも効果がないのか、ルアイリは恐怖と諦めに生気を失い、震えながらうつむいたままだった。
それはそうと、あの女の正体も割れるというものだ。
先王に付き従い、特徴的な美しい容姿を持ち、初対面でいきなり『魔力障壁を完全に無視して』蹴りを叩き込んでくる、アティーファと名乗る正体を隠そうとすらしない女。
あれが噂の『横領聖女』アティーファか。
メレクはそう結論づけた。
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