第三話 「……あの野郎」
日も暮れ、空の藍色が一層濃くなっていく。
先程からのぎこちない空気を引きずりつつ、メレクは雨戸を閉め、夜に備える。
準備を終えると、彼は寝室の扉を開いた。
「今夜はここで休んでくれ。爺さんは別でいいか?」
「わしはどこでも構わん」
「いえ、そういうわけには。どうかレオ様がこちらをお使いください」
アティーファの態度からは、レオへの明らかな恐縮の色が滲んでいた。
そんな彼女に、レオは気楽に答える。
「なに、外で寝るより、ここはずっと快適だ。それより寝床を奪って悪いな、メレク殿」
「別にいーよ。それより――」
彼はレオたちの少ない荷物を指差す。
「食料は十分じゃないみたいだな。実は今晩、三人分の食事を用意するほどの蓄えはないんだ」
「今宵の宿を提供してくれるだけでも十分ありがたい。そこまで心配してくれるな」
メレクは椅子に置いた上着を羽織り、銃を手に取り、外に出る準備を整えた。
「罠を仕掛けてあるんだ。運が良ければ鳥の一羽くらいは獲れるかもしれない」
「よしたほうが良い。山に慣れているようだが、流石に危険ではないか」
辺りはすでに暗く、レオは夜の山に入ることに懸念を示した。
「大丈夫だよ。そんなに遠くまでは行かないつもりだし。でも遅くなるようなら先に休んでいてくれ」
メレクは特段の危機感も見せず、そのまま扉を開けて出ていってしまった。
レオはしばらく扉の外の気配を追っていたが、やがて危機が去ったかのように大きく息をついた。
状況は何も好転していないが、気を落ち着けることは必要だった。
そんな彼の足元に、アティーファが膝をつき、恭しく頭を下げる。
「恐れ多くも数々の不敬、どうかお許しください、レオニルド先王陛下」
「待ってくれ。このような状況に巻き込んでしまったのは、わしの至らぬ結果だ。どうか顔を上げてくれ、聖女殿」
レオはアティーファに手を差し伸べ、彼女を立たせると、そっと椅子に座らせた。
彼自身も考え込むようにテーブル向かいに歩き、椅子を引いて腰を下ろす。
先ほどの穏やかな雰囲気から一変し、聖女と呼ばれたアティーファはどこか緊張していた。
「わしの状況は理解しておるのだろう。追われる身のわしに巻き込んでしまった事は心からお詫びする。だが、決して悪しき結果にはせぬつもりだ」
「いいえ、陛下。むしろ私は感謝しているのです。望むことすら許されなかった私の人生で、ようやく得られるかもしれない絶好の機会。私はこれを逃すつもりはございません」
「機会……、あの男のことか。先ほどの占いもそうだが、何やら思うところがありそうだな」
レオは顎に手をやり、「ふむ」と静かに思案に耽った。
「妙だとは思われませんか」
アティーファはそう言うと、部屋の中を見回した。
「これほどの物をたった一人で、しかも木の新しさから判断するに、短期間で仕上げたように見受けられます。それほどの職人なのに、道具らしきものが何も見当たりません」
「……確かに。言われてみれば奇妙だな」
レオは自分では肝が座っている方だと思っていたが、あの謎めいたメレクという青年に対しては警戒を解くことができなかった。
しかし、アティーファはメレクに対してより別の視点から観察しているようだった。
「それに、あの方、火薬の匂いが全くしなかったんです」
「……! 魔力銃か!」
言われて初めて、その奇異さに気付いた。銃士であるにもかかわらず、彼の身体からも銃からも、一切火薬の臭いがしなかったのだ。
レオは、そんな簡単なことにも気づかなかった自分の迂闊さに、背筋が寒くなるのを感じた。
魔力銃。その名の示す通り、魔力で弾丸を打ち出す魔道具である。
これは、あの男が魔力を使えないただの平民ではないことを如実に示していた。
銃というものは、何であれ魔力障壁に対して無力である。
貴族が所持する魔道具は、様々な制約上、防御力を最重視する故に、なおさらその傾向が強い。
そもそも銃は火薬で弾丸を発射すれば事足りるのであって、魔力を使って銃器を使用する必然性がない。
故に、魔力銃なるものは無用の長物であるというのが通念だった。
「しかし、どういうことだ。あの男からは全く魔力が感じられなんだ。どのように誤魔化しても魔力の残滓すら残らぬことなどありえん。そして魔力がないなら魔道具は使えんのだ」
「逆に申せば、魔力が皆無な生き物など存在するでしょうか。小さな虫にすら魔力が宿るというのに」
「では聖女殿は、どのように考えているのだ」
いくら思案を巡らせても、結局のところ何も明確な答えは導き出せない。ただ謎が深まるばかりであった。
「原理はともかく、あの人は魔道具を持っています。呪いの件も含めて、あまりにも特異ではありませんか」
「そうだな」
アティーファは一呼吸おいて、自らの推論を述べ始めた。
「魔力が無い体質、奇妙な呪い。これだけでも何らかの機関の研究対象となり得ませんか」
「うむ。それ故に追われているという筋書きになるわけだな」
レオの言葉に、アティーファは静かに頷いて話を続けた。
「それらは今日昨日に発現したわけではないと思うのです。ならば最近まで、それも彼の言う『女性を発狂させる程の呪い』が問題にならなかったはずがありません」
「匿われていたか、あるいは隠されていたか。いずれにせよ、状況の変化によって裏切られたという話に繋がりそうだな。では、『大切な物を失くす』という話はどうなのだ?」
彼女の眉がピクリと動き、苛立ちを抑えきれずにアティーファはため息をついた。
「彼は『遠い故郷』と言いました。
彼の故郷がどれほどの遠方にあるかは定かではありませんが、逃亡の際に協力者がいたと考えるのが自然です。
世間と隔絶された生活を送っていた場合、路銀や常識の欠如、地理的な知識不足が逃亡の足かせとなるからです。
そして、ここにいない協力者が別行動中なら、その者が囚われている可能性も考慮しました。
そのあたりを突けば、彼に危機感を与えられると思ったのですが……実にふざけた形で誤魔化されましたね」
彼女の頬がピクピクと引きつった。無理に作った笑顔が、かえって彼女の不快感を際立たせていた。
聖女であるアティーファと先代王レオニルドは旧知の仲だったが、彼女がこのような表情を見せるのは初めてだった。
平静を装おうとしているものの、怒りでその穏やかな笑顔が崩れかけていた。
「……あの野郎」
男に間違われたことも含めて、相当腹立たしかったのだろう。
レオはこの言葉は聞かなかったことにしようと心に決めた。
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