第7話 兄、ジロー

「ごめんね、春奈ちゃん。こんな朝っぱらから」

「いえいえ、お気になさらず。でもお兄さん、合鍵持ってますよね?」


 無くしたのかなと思ったけれど、マンションのオートロックを通過してここにいるのだから、そういうわけではないはずだ。


「うん、まあ。でもこんな早朝だし、合鍵で上がり込むのもなーって。春奈ちゃんならもう起きてる時間だし、それならチャイム鳴らした方がって思って」

「そんな、気を使わなくていいのに」


 私は扉を大きく開く。


「さぁ、入ってください」

「……」

「どうしたんですか?」

「いや、あの……先に上がってよ。扉は自分で開けるし」

「え? はぁ、わかりました」


 言われた通りに、扉から離れて廊下に上がる。

 お兄さんも続いて入ってきたが、なんだか私から距離をとっているような感じだ。


(お兄さんのことだから、またなんか勘違いしてるんだろうなぁ……)


「あ、シャワー借りていい? 体内時計が半日ずれちゃってて、銭湯が開いてなかったんだよね。夜のつもりで出てきたから」

「どうぞどうぞ。疲れてるだろうし、昨日の残り湯でいいなら沸かしますよ」

「いや、そこまでは」

「だから、気を使わないでくださいって」


 押し問答をしていてもしかたがないから、さっさと浴室に行って追い焚きボタンを押す。


「沸くまでリビングでくつろいでいてください。コーヒーはいりますか?」

「いや、大丈夫。ありがとう」


 二人でリビングに移動する。

 飲みかけのコーヒーをローテーブルにまで持ってきて、向かい合わせに置かれたソファに座った。

 なのにお兄さんはというと……。


「あの……私、くつろいでくださいって言いましたよね?」

「……うん、言われた」

「なんで隅っこで突っ立ってるんですか?」

「いや、それはほら……俺、ダンジョン帰りで汚いし」

「気にしませんよ。ていうか全然汚れてないじゃないですか」

「いや、本当に大丈夫だから」

「大丈夫って言われても……そんなところに立たれてたら、気を使うじゃないですか」


 お兄さんはグッと喉に詰まった様子だ。

 気を使う人は、他人に気を使わせることを極端に嫌うものだ。


「いや、その、それが……」


 お兄さんは顔を赤くする。


「俺、なんか臭いみたいで……」

「臭い?」

「ダンジョンパークで、周りから避けられまくって……」

「ああ。いや、でもそれは……」


 避けられているのは事実だろうけど、それは全く別の理由からだ。


(玄関での微妙な感じも、そういうことか……)


「ちょっと前まで、こんなことなかったのに……ほらやっぱ、俺もいい歳だし、加齢臭とか……」

「いや加齢臭って、お兄さんまだ二十七歳でしょ」

「でも実際、避けられてるし……」

「……」


 それが事実だから厄介だ。

 言葉でいくら言っても無駄だと判断して、私は立ち上がった。

 そのままズンズンとお兄さんに近寄っていく。


「え? ちょ、春奈さん!?」


 お兄さんは後ずさったけれど、最初からリビングの隅に立っていたのだ。

 すぐに壁に背中をぶつけてしまう。

 お兄さんはサイドに逃れようとしたけれど、手を壁についてそれを阻止する。

 逆側は角で、お兄さんに逃げ場はない。


「待って、待ってください、本当に。やめて、近づかないで……」


 お兄さんは真っ青だ。

 本気で臭がられるのが嫌らしい。


 やってることは完全に壁ドンだ。

 私とお兄さんは、身長差がほとんどない。

 お兄さんが小さいのではなく、私がでかいんだけど、とにかく見栄えとしてもそう悪くないはずだ。

 それなのに、お兄さんのリアクションのせいで、甘酸っぱさは皆無だった。

 むしろホラー映画のワンシーンみたいになってしまっている。


(世界最強の男を追い詰める私って……)


 嗜虐心しぎゃくしんが沸いたけれど、こんな状況をアンリに見られたら一大事いちだいじだ。

 私はお兄さんに顔を近づけ、くんくんと匂いを嗅いでみた。

 お兄さんはぎゅっと目を瞑り、奥歯を噛み締めている。


「うん、やっぱり臭くないですよ」

「……え?」

「もっと長いことダンジョンにいたときも、お兄さんのこと臭いって感じたことないですもん。やっぱり勘違いですよ」

「いや、それは……春奈ちゃんが優しいから、そう言ってくれてるだけで……」

「逆ですって。こういうのはむしろ、正直に言ってあげるのが優しさだと思ってるので」

「え? じゃあ……」

「お兄さんは臭くないです。私が保証します」


 お兄さんの顔がパアッと明るくなる。


(本当に感情表現が豊かだな。子供か、この人は)


 でもその顔は、すぐに曇ってしまった。


「でもじゃあ、どうして俺は避けられてたんだろう……?」

「あー……」


 結局そこに戻ってきてしまうのだ。


「それは、その……単純に嫌われてるんじゃないですか? あはは」

「あ、なるほど……その発想はなかった……確かに、あのダンジョンには結構長く通ってるからなぁ……あはは……」


 冗談っぽく言ったつもりだったが、クリティカルヒットしてしまう。


(ごめんなさい、お兄さん……)


 臭くないことは理解してくれたけれど、結局お兄さんはリビングの隅に佇んだまま動かなかった。


 私は意識的に話題を変える。


「あ、そうだ。Dで見たんですけど」

「D?」

「あ、ダンジョンのことです。SNSの。最近名前が変わったんですよ。商標がどうとかで」


 D(旧ダンジョン)は、冒険者たちが情報交換するために作られたソーシャルメディアだ。

 それが次第に冒険者の垣根を超えて広まり、今ではユーザー数が全世界で二十億人を超えるまでに成長している。

 ダンジョンリンク社が買収したこともあって、とにかくダンジョン関連に特化したプラットフォームだった。


「なんか、お兄さんが潜ってたダンジョンでトラブルがあったみたいじゃないですか。サーカス団からオロチマルが逃げ出したとかで」

「ああ、そうそう。もう話題になってるんだ。早いなぁ。実はあれ、俺もちょっと関わっちゃってさ」

「へぇ、そうなんですね」


 我ながら白々しい声が出た。

 もちろん知っている。

 そもそもこれだけ話題になったのは、お兄さんが関わったせいだ。


「それで、なにがあったんですか?」

「女性がオロチマルに襲われそうになっててさ。咄嗟に助けたんだよ。でも余裕がなくてオロチマルを殺しちゃって……」

「それが?」


 お兄さんがそんな申し訳なさそうな顔をする理由はないと思うのだけど。


「いや、ほら。魔獣っていっても、そのオロチマルはサーカス団の所有物なわけでしょ? だから怒られるんじゃないかって思って……」

「あー」


 人助けをしておいて、そんなふうに考える人なのだ。


(人がいいというか、ネガティブというか……)


「一応弁償のつもりで、高そうな指輪を渡してきたんだけど……」

「なるほどねぇ」


 そういう事情だったのか。


「ふっ。それにしても、オロチマルって……」

「どうしたんですか?」

「いや、誰がメドゥーサにオロチマルなんて名付けたんだろうって思って。きっと日本人だよね。あ、いや、海外人気もすごいから、そうとは限らないのか。なんか悪ノリの感じが、外国の人って感じもするなぁ」

「え?」

「ん? なに?」

「いや……」


 名付けの親は、もちろんお兄さんだ。

 過去の配信で、メドゥーサそっくりの魔物を見つけて、


「あ、これなんだっけ! 知ってる! オロチマルじゃなくて……えっと……オロチマルじゃなくて!」


 結局、メドゥーサの名前を思い出すことができず、ずっとオロチマルと呼び続けていた。

 数時間後に思い出した時には、もう時すでに遅し。

 オロチマルが正式名称として定着してしまった。


(お兄さん、自分の名前が好きじゃないって言ってたけど……お兄さんのネーミングセンスも大概だよなぁ。もしかしてネーミングセンスって遺伝するのかな? あとさっきオロチマルのこと、魔獣って言ってたよね……オロチマル食べるんだ、お兄さん……)


 さすが、一部界隈で「ゲテモノ喰いのジロー」と呼ばれているだけのことはある。

 なんか色々と思うところがあったけれど、言わぬが花だろう。


「どうしたの?」

「いえ……とにかく、大事おおごとにならなくてよかったですね」

「本当にね。すぐに助けに入ったから大丈夫だと思うけど、怪我人とかいないといいな」

「あ」


 怪我人というワードで思い出した。


「そういえばお兄さん、この間の配信でポーションの話してたじゃないですか」

「ああ、うん。見てくれてたんだ」

「夜中だったんで、見たのはアーカイブですけどね」

「あれって何人くらいが見てるものなの?」

「え? あー……まあ、平均で十二とか、十三とか……」

「そんなに!? 意外と多いな……マックスは?」

「……百とか」

「えぇ!?」


 嘘は言っていない。

 嘘は言っていない。

 ただ単位が万というだけの話だ。


「まあ、マックスの話ですから」

「でも百人って……なんか緊張するな……」

「あはは……」

「あ、ごめん、話の腰を折っちゃって。それで、ポーションがなんだって?」

「よかったら配信で言ってたポーションのレシピ、教えてくれませんか?」

「もちろんいいよ。材料が多から、紙に書いたほうがいいよね」

「お願いします」


 お兄さんは紙にポーションのレシピを書いていく。

 言っていた通り、手軽に手に入る材料ばかりだ。

 手順がやや複雑だけれど、それも大したことはない。


(これで本当に、お兄さんがいう通りの効能があるんだとしたら……何十億……いや何百億ってお金になるかも……)


「どうしたの?」

「あ、いえ。このレシピ、どうしましょう」

「どうって?」

「無料で公開するか、それとも製薬会社なんかに売っちゃうとか」

「あ、そのレシピって、そんななんだ。まあでも、普通に公開しちゃっていいんじゃない?」

「でもこれ、結構なお金になると思いますよ」

「う〜ん。でもポーションは命に関わることだし、みんなが手軽に手に入れられたほうがいいから」


 何百億ですよ、と教えたら、どんな反応をするだろう。


(……きっと驚きはするけど、やっぱり大して迷うことなく、同じ選択をするんだろうな)


 そこまで長い付き合いではないけれど、そういい切れる程度には、私はお兄さんを信頼している。


 お兄さんは本当に無欲な人なのだ。

 ダンジョン配信者には国から補助金が出ると嘘をついて(もちろんそんな補助金はない)、お兄さんには毎月まとまったお金を渡している。

 でもお兄さんは最低限しか手元におかず、残りは全部募金してしまうのだ。

 世界中を転々としている時に、色々なものを見たからと。


 俺よりお金を必要としている人たちがいる。

 俺はキャンプさえできれば幸せだから。

 そうお兄さんは言っていた。


 配信の収益の大半は、お兄さん名義の口座に入れてあった。

 でもそれを知ったら、やっぱりお兄さんは全部募金してしまうのだろう。

 かなりの額だけど、それでもためらいなく。

 お兄さんはそういう人なのだ。


「でもそっか。そのレシピって、そんな役立つものだったんだ……だったらもっと早く……ありがとう、春奈ちゃん」

「なんでお兄さんがお礼を言うんですか」

「え? いや、なんとなく」

「あはは」


 その時だ。

 寝室の扉がバーン! と勢いよく開いて、パジャマ姿のアンリが飛び出してきた。


「グッモーニン! エブリワン!」

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