第55話
0時10分前。家に帰った僕達は最後の準備にとりかかる。約束通り生命終了支援センターに祈さんの消滅依頼の電話をしなくちゃいけない。何度も電話番号を押し間違えて、その度躊躇してしまう。電話をかけたくない。
「お願い、かけて」
祈さんに後押しされて、ようやく正しい番号が打てた。コール音が鳴る。
「はい、生命終了支援センターです」
24時間電話対応とは聞いていたけど、こんな真夜中に出ないでほしかった。
「叶崎、颯介です」
「いつもお世話になっております。どうなさいましたか?」
目の前に座る女の子を消してください。一言に含まれた残酷さ。唇が固く閉じて話せない。
「颯介さん? 聞こえますか?」
黙っている僕に電話の相手は返事の催促をする。どうしても言いたくない。彼女が消えるところを見たくない。
並んでソファに座る祈さんは、僕の左拳を両手で優しく包み込んだ。切なそうに微笑んでからゆっくりと頷く。それを合図に僕は口を開く。
「祈の、消滅依頼を、お願いします……!」
言った。言ってしまった。最後の方は声が掠れて出なかったが、電話の相手には意思が伝わったようだ。
「承知致しました。それでは手続きを行います。少々お待ちください。その他ご要件はございますか?」
「いえ、……ありません。失礼します」
小刻みに震えた人差し指で電話を切る。ふっと全身が脱力して、上体を前屈みにさせて頭を抱えた。
「ありがとう、言ってくれて」
祈さんは僕の背をさする。こんな時まで人のことを心配するなんて。僕は罪悪感で息ができないほど辛いのに。
「私が消えたら、叶崎君の部屋のベッドの上を見て。手紙が置いてある」
「……手紙?」
「そう。話すにはたぶん間に合わないところもあるだろうから」
祈さんは立ち上がって縁側の窓を開けた。それからくるりとこちらを振り返って嬉しそうに笑う。先ほどとは打って変わって明るい表情に面食らう。
「最初にさ、私が叶崎君の命のお終いの日を支援センターに連絡したこと、覚えてる?」
「あ、ああ。覚えてるよ」
「お終いの日付を言って?」
「え?」
いきなり何の話だろう。残り時間わずかなのに、よくわからない話をするのはもったいない。
「……6月28日。今日だよ」
「今日か、今の西暦は?」
「2021年。それが?」
次に祈さんは、とんでもない事実を暴露した。
「私が支援センターに伝えた西暦は、2106年6月28日。つまり85年後の今日です。もう日付が変わるから84年後になるけど」
言っている意味がいまいち飲み込めず、口をぽかんと開けるしかなかった。
「あの、どういうことか、よく……」
「叶崎君は、100歳まで生きられるの。私が勝手にそうさせてもらった」
ようやく意味を理解した僕は、祈さんの消滅依頼をしたことを激しく後悔するはめになった。混乱しつつ祈さんに詰め寄る。急に立ったせいで貧血を起こしそうになった。
「何でそんなことを! 初めから、一人で消えるつもりだったの? 僕は、僕は君を消す依頼をしちゃった! 早く取り消さなくちゃ……」
「無理よ」
もう一度支援センターに電話をかけようとすると、祈さんは首を左右に振って止めた。
「どっちにしろ、利用者の希望日時を勝手に変えて伝えたんだもの。これは契約違反に該当する。だから私は消されるの。今頃支援センターはパニックを起こしてるかもね」
「そんなの、だめだ! 待ってて、すぐ電話をかけるから!」
「叶崎君」
水面に雫が一滴落ちて波紋が広がっていくみたいに、いつだってその綺麗で物静かな声は僕の気持ちを穏やかにさせていた。
「私の名前は、
「待って!」
携帯を放り投げ、間もなく消える彼女を掴もうと腕を伸ばした。
でも、遅かった。祈さんは、シャボン玉が割れたみたいにぱっと姿を消し、僕の手は空白を掴んだ。バランスを崩して床に倒れ込む。
壁掛け時計が鳴り、6月28日0時を告げる。16歳の誕生日。命を終えると決めた日。
未来の大切な人の姿をした不思議な存在が目の前で消えたのに、僕は終わらず生きている。悔しくて床を拳で叩いた。
「祈さん、なんでだよ……」
裸足のまま外に飛び出して祈さんを探した。消えたのは錯覚で、もしかしたら近くにいるのかもしれないから。
「祈さん!」
泥や土が付いた足の裏なんか構わず、家の中も探し回った。
幼い時のかくれんぼの記憶が過ぎる。
お母さん、お母さん。どこ?
浴槽の中、クローゼットの中、ベッドの下。
いない。
「祈さん! どこ?」
どこにいるの? お母さん。えー……ん。えー……ん。
そうだ、あの時も、母さんは家の中にいないんじゃないかって思ってた。それでだんだん寂しくなって、わんわん泣いていたらどこからともなく出てきたんだった。
ばあ! お母さん隠れるのうまいんだよ!
子どもみたいに泣いたら、祈さんも出てきてくれるんじゃないだろうか。ふと考えたけど、ありえない。彼女は家どころか、この世界からいなくなったんだから。
意気消沈して自分の部屋に行く。電気をつけて部屋中を探してみてもやっぱりいなかった。ベッドの上には一枚の便箋が置いてある。
祈さんが僕宛てに残した手紙だ。
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