さようならの準備
第47話
6月25日 金曜日。
死が迫ってからわかったことは、金を使って高い買い物をしたり、外国に行ってバカンスをしたり、かつて夢見た贅沢に憧れがなかったこと。ただ普通に学校に行って勉強をして、友達と話したり部活をしたり、何の変哲もない高校生として生きるのが僕の希望だ。
その普通の日々が1週間過ぎたのが、とても幸せだった。放課後に穂苅君カップルと僕達で約束通りカラオケをしたりだとか、ボーリングをしたりだとか、焼肉を食べたりだとか、穏やかで楽しい毎日だった。それも今日で終わり。
部活帰り。二度と通ることのない登下校道を噛み締めながら穂苅君と進んで行く。自転車に乗って風を切る心地良さもこれで最後。
「まだ絵描かないのかよ」
部活に復帰してからまだ一枚も絵を描けずにいた。筆を握っても描きたいものが浮かばない。真っ白なキャンバスが冷たい雪のように感じてしまって、指先が震える。絵を殺そうとした僕を恨んでいる気がした。だから絵が描けない、描くのを許されないんじゃないかと自責の念にやられた。
ついに今日まで描けなかった。生涯あと1枚は何らかの絵を遺したかったのに。美術品は作家が死んだら価値が高騰するのはよく聞く話で、飛躍した妄想をすれば僕も百年後あたり売れるかもしれない。もちろんこんな馬鹿な妄想は誰にも話さず自分の中だけにしまっておく。考えるだけなら自由だろう。
「なかなか良いイメージが浮かばなくてね」
「俺なんか新しい作品を新人賞応募したぞ」
「もう新作書いたの? 見せてよ」
「入選して書籍化したら見せてやるよ」
「大賞は確実だね。おめでとう」
「気がはえぇな」
「賞金は山分けしようね」
「賞金目当てかよ」
住宅街の坂道を息切れしながらのぼる。すれ違う人は仕事を終えてくたくたになった男の人や犬を散歩するおばさん。会話をしたことはないけど、何回も見た顔達。母さんと二人で暮らした街に、声に出さずさよならと挨拶をした。
先の方に親子らしき影が見える。近づくにつれてその人の顔が認識できる。最初は気づかなかったが、山野先生だ。向こうも僕達に気づいて声をかけてくれた。
「あら、部活帰り?」
「なあんだ、誰かと思ったら先生か。ワンピースなんか着てるから別人かと思った。スーツよりましっすね」
「ありのままが綺麗ってことね、ありがとう」
二人のやりとりを他所に、僕は先生と手を繋いでいる男の子の方に注目した。頭の中は大混乱していた。
「そういや先生って結婚してたんでしたっけ? ……どっかで見た気がする」
穂苅君も男の子の存在を気にした。
「ああ、この子は……」
僕はこの子と会ったことがある。正しくは、この子をモデルにした、アンドロイドと。
「はじめまして。かわいひなたです」
男の子、ひなた君は頭を下げて丁寧な挨拶をする。前に見た光景と同じだ。先生は咳払い1つして説明した。
「こほん、この子は私の実の子ではないの。養子にもらうのよ」
山野先生曰く、ひなた君の両親は二人とも早くに亡くなって親族もいないので児童養護施設で暮らしていた。学校がない日はボランティアをしに施設へ顔を出していた山野先生は、陽向君と出会って不思議と運命的なものを感じたそうだ。
「本当は海原先生が春からボランティアに行くわけだったんだけどね。体調を悪くされたから私が代わりに行っていたのが今も継続してるってこと」
時間をかけて信頼関係が築いていって、周りからも親子みたいだと茶化されることも多かったらしい。次第にお互いが親子の関係になれたらと望むようになったと先生は言った。
「それじゃあ、もし海原が生きていたら同じく養子にしていたかもしれませんね。三人が家族だったらすごく素敵だと思います」
「何変なこと言うの。私と海原先生が夫婦役なんて、絶対お断り」
からかったつもりはなかったが、山野先生は顔を真っ赤にして怒りを顕にした。
こんな偶然、あるんだ。
僕は思う。血の繋がりはないけど、三人は立派な家族だ。生きていれば海原先生は父親として、山野先生は母親としてこの子を必ず幸せにする。
現に、ひなた君は二人の傍にいる時、とても安堵した表情をしている。愛されて守られていることがちゃんとわかっているから。
僕は中腰になってひなた君と目線を同じ高さにして尋ねた。
「ひなた君」
「はい」
「君は知らないけど、僕の尊敬する人も君のことを想っているんだよ。これから楽しいことがたくさん待ってる。幸せにね」
ひなた君はきょとんとしたが、希望に満ち溢れた笑顔になり「はい」と元気に返事をした。アンドロイドに向けた憎しみはその瞬間に消え失せた。
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