第44話

朝食を食べ終わって協力して片付けをした後、さっそく穂苅君の家へ行く準備をした。彼はすでに外で待っていて、僕は服を着替えたりショルダーバッグに財布と携帯を詰め込んだ。


「すぐ帰ってくるから」


あまり長居せずに帰る予定なので祈さんには留守を頼む。玄関で靴を履いている時、見送ってくれる彼女から言われたのはゆっくりしてきて、でも行ってらっしゃい、でもなく「頑張ってね」だった。


その意味は後々知ることになる。


本日何度目か数えられない大きな欠伸をして自転車を漕いだ。バランスが上手く取れずふらふらする。日差しが強く太陽の光が眩しい。


「目が死んでるんだけど。他の奴がいると眠れないタイプか?」


後ろを付いていく僕を気にして時々振り返ってくれる。食後だから尚更睡魔が襲ってくる。声をかけられないと寝落ちしてしまいそうだ。


「朝、5時に寝ついたんだ」


「マジかよ、それまでずっと起きてたのか」


「君からもらった小説を読んでた」


僕は宣言通り一晩で読み上げた。ページをめくるごとに面白みが増して目が冴えた。読み終わる頃は気づけば早朝で、寝よう寝ようとしても余韻に浸って眠れなかった。そのことを彼に伝えると、「そうかよ」とだけ言った。ちらっと見えた横顔はどこか嬉しそうだった。



彼の家はごく普通の一軒家で、まだ新しいように見えた。建ってからそう年数は過ぎていないみたいだ。


「弟が自分の部屋が欲しいって言ったし、古かったから家を建て直したんだ」


「そうだったんだね」


敷地内に入る。喧嘩の声は聞こえずひっそりと静まり返っていた。四六時中言い争っているわけじゃなさそうだ。


「気をつけろよ、ドアを開けた瞬間物が飛んでくるかもしれない」


「小学の頃ドッジボールは得意だった。逃げるだけは」


穂苅君は先頭に立ち勢いよくドアを開けた。


「ただいまっ」


まだ午前中なのに家の中は暗い。そういえば雨戸が閉められていた。まるで家の中だけ夜中だった。


奥から足音を立てずに一人の女の人がやって来た。髪は結われているけど白髪混じりのボサボサで、顔や体は細くやつれていた。虚ろ気味の瞳がじっとこっちを見る。


「また勝手にどこかへ行っていたの、出かける時は言えって言ったじゃない……」


息を吐いただけの力のないか細い声。蚊の方がまだ活気良く鳴く。


「出かけるって言ったし。親父とやり合って話聞いてなかったんだろ」


この人はどうやら穂苅君の母親らしい。よく見れば似ている。でも想像とはだいぶ違った。


「そちらは?」


「叶崎。歩夢に線香あげに来たんだよ」


母親の瞼がピクリと動いた。歩夢、穂苅君の弟。


母親は警戒した目で僕を見つめた後、スリッパラックからスリッパを取って揃えて「どうぞ」と家にあげてくれた。


「おじゃまします」


上がり框を越えるとたちまちピリッとした空気が肌を刺した。案内されるまま奥へと進むにつれて体が重たくなっていく。前を歩く母親の背中から、とてつもない負の感情か伝わってきた。


「終わったら2階に来いよ」


廊下途中にあった階段で穂苅君は2階へ行ってしまった。母親と同じ空間にいるのをできるだけ避けてるのかもしれない。


薄暗い6畳ほどの和室に着く。立派な仏壇と、上の方には兵隊の格好をした若い男性のモノクロの遺影、若い女性、おばあさん、そして真新しく綺麗に映った男の子の遺影が飾られていた。直感であれが歩夢君だとわかる。穂苅君をそのまま幼くした感じだ。


「暗くしてごめんなさい。明るいのが嫌で」


「いえ、大丈夫です」


「最期に歩夢と別れたのは、夜だったから……」


わざと室内を暗くしているのは、夜を作っていたから。息子と別れた日のまま時間がストップしている。


仏壇の前で正座をして線香に火をつけた。数秒間、合掌して会ったことのない歩夢君を想った。


「ありがとうございます」


「いえ、こちらこそいきなりおじゃましてすいません」


萎れた花のような顔。線香をあげてもらったところで、あの子は帰らない。余計に悲しくなるだけ。そう言いたげな感じだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る