第40話

「叶崎君」


本当の名前を知らない女の子は手を止めた。不思議そうな、心配そうな顔で僕を呼ぶ。


「どうして泣いてるの?」


え?


テーブルの上に水滴が落ちた。それは僕の両目から流れ出たもの。まだ頬を伝ってくる。


「ごめんなさい、強く言い過ぎたかな? 違うの、叶崎君のいない世界を生きる意味がないって言いたかっただけで、あって……」


おかしいな、涙なんて二人の葬式の時でさえ出なかったのに。すっかり枯れたものだと思っていたのに。


「いや、祈さんのせいじゃない。何でか泣けてくるんだ」


「叶崎君が泣いたの初めて見た」


「ごめん、食事中に。自分でもわからないけど、幸せな気持ちなんだよ。ありがとう、傍にいてくれて」


二度と来ないつもりだった思い出の場所。母さんの死に顔や辛い顔ばかりが頭にこびり付いていて、あの幸福に満ちた顔がなかなか思い出せなかったのに。


「祈さん、お願いがあるんだけど」


「何?」


「思いっきり笑ってくれない?」


祈さんは躊躇いもなく歯をむき出しにして笑った。口の周りがケチャップで赤く染って、口紅を塗るのに失敗した人みたいで面白かった。


「人の顔みて笑うって失礼じゃない? 泣いてる子どもあやしてるみたい」


祈さんは呆れてから再びナポリタンに集中した。僕もティッシュで涙を拭き取ってから、少ししょっぱくなったナポリタンを食べた。


「私からもお願いがある」


「何?」


「最期の日の0時10分前に、支援センターに連絡をして私の消滅依頼をして」


動きを急にとめたせいでナポリタンがフォークからぼたぼたと皿に落ちた。


「どうして? 僕の命が終われば、祈さんも自然に消えちゃうんじゃ……」


「理由はさっき言った。叶崎君のいない世界を生きる意味がない、それは10分でも1分でも1秒でも同じ。私を知る人がこの世界のどこにもいないんだって孤独感に苦しみながら消えるのも嫌。本来お願いする立場じゃないけど、恩を返したいならそうして。ね?」


「……わかった」


約束はしたが、果たしてその時になって勇気が出るのか。たった一言で祈さんが消える。それは彼女が苦しんで消えないための最善の手段。


その瞬間を脳内でシュミレーションしたら、悲しくなってまた泣いてしまいそうになる。


あと半分のナポリタンの味は、鼻づまりのせいと涙を堪えるのに必死で味が全然わからずに、コーヒーの苦味が喉の奥にいつまでも残っていた。


泣いたといえば、母さんの葬式にいた男性のことを思い出す。家に帰って一応アルバムをひと通り確認しても顔は載っていなかった。名前も連絡先ももちろん知らない。母さんの電話帳や芳名録を見てもどれがあの人なのかわからない。


母さんとそう年齢は変わらなそうだ。考えられる関係性としては、同級生、元同僚、遠い親戚、もしくは恋人。


恋人の線は薄い。母さんみたいな正直な性格は物事を隠すのが不得意だ。恋人なんかできたら浮ついてにやにやしてお洒落もする。そんな風にしたのは一切なかった。


結局手がかりは見つからない。生きているうちにまた会って礼を言いたかった。それに、僕の知らない母さんの一部分を知っているかもしれない人物なのに。

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