第33話

「うわあああああああ!!」


真夜中に飛び起きた僕は、真っ暗な部屋を見てまだ夢の中にいると錯覚する。


血まみれの母さんと、怒り狂った父がいないことでここは現実世界だとわかった。


口の中がひどく乾燥していて、全身が汗でびっしょりだ。巨大で先の尖った氷が頭から突き刺さったみたいな恐怖心。呼吸がうまくできない。


「叶崎君、どうしたの?」


叫び声が一階まで聞こえて祈さんが駆けつけてきた。


「う……はぁ、ふぅ……」


息を吸うのに精一杯で声が出せない。


「待って、目を閉じて、ゆっくり息を吸って……吐いて。急ごうとしないで、楽に」


祈さんは僕の背中をさすってゆっくりと呼吸を促した。


次第に楽になっていく。漠然とした恐怖心も緩やかに溶けていった。


祈さんは僕の頬に触れて視線を合わせる。冷たくて心地良い手。月明かりに照らされた瞳が、真っ直ぐ僕を見つめた。


「落ち着いたね。もう大丈夫…」


気づけば僕は祈さんに手を伸ばし、体を抱き締めていた。


小柄な彼女は両腕の中にすっぽりと包み込まれる。


こんなことをするつもりはなかった。理性などなくて、本能的にそうしないと心が持たないからそうしたんだと思う。


そうしていたのはほんの10秒くらいで、シャンプーの香りがする祈さんの髪の毛がさらりと揺れたことで理性が戻った。


僕は祈さんから素早く距離を離した。


「ご、ごめん。急に変なことして」


「別に、ただの抱擁だよ。気にしないで」


祈さんは気にしていない様子だが、そっぽを向いて耳に髪の毛をかける。ないはずの体温が彼女から感じられたのは、気のせいだろう。


二人してベッドの上で膝を抱えて座り、なぜ叫んだのか理由を言う。まだ祈さんに話していなかった両親のこと、今でも時々悪夢を見て魘されること。彼女は頷きもせず、質問もせず静かに聞いていてくれた。


「父からもらったのは愛情じゃなくて呪いだよ。海原先生が子孫のことを心配していた気持ちがわかる。僕もそう、恋人ができても、子どもがいても、うまく愛せないよ。父と同じく呪いを与えるかもしれない」


耳鳴りがするほどの静寂。祈さんは窓の方に歩いて夜の空を仰いだ。窓を開けると弱い風が入り込んできた。


「祈さんのモデルの子を、将来大切に想うことはできる。でも幸せにはできない。良かったよ、巡り会う前にそのことに気がついて。その子を不幸にするところだった」


「自虐的だね。幸せか不幸かなんて本人にしかわからない。お母さんは、お父さんといた頃が全部不幸だったわけじゃない。幸せな時も少なからずあったんだよ。その少しの幸せのためだけに、巡り会って良かったっておもったんじゃないかな?」


鼻歌を歌いながら台所で三人分の弁当を作る母さんの後ろ姿。


見て見て、今日は卵焼きが綺麗にできたのよ。きっとお父さん喜ぶわね。


三人で暮らしていた時、母さんが笑ったのを覚えているのはそれだけ。あの母さんは、確かに幸せそうだった。


「私は、大人になった叶崎君に会いたいかもね」


「こんな弱っちくてナヨナヨした男に?」


「だって、大人になったら見違えるかもよ。垢抜け? 大学デビューって言うの? かっこよくなるよ、きっと」


「なんだそりゃ、見た目重視じゃん」


成長の叶わない僕が大人になった姿をイメージしてみる。身長が伸びて筋肉もついて、ちょっとは頼りがいがありそうな男。高校を卒業して就職したものの、その仕事は高くない給料でやりたかったものとはだいぶ程遠いものかもしれない。だけど人間関係には恵まれていて、仕事が終われば仲間と酒を飲みに行く。浮ついた話が出てくるだろう。同じ会社のあの子は可愛いとか、どこかにいい子はいないだろうかとか。アルコールと汗の臭いが充満した居酒屋で時間を忘れて騒ぐんだ。


夜遅くに解散した後、独りになれば寂しくて仕方がなくて、家に帰りたくないだろうな。


代わり映えしない日々の中、どこかで必ず祈さんのモデルの子と出会う。そこからどう発展するかはイメージできない。真っ白な未来はまさに今前借りして体験している。


こんなはずじゃ、なかったんだけどな。

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