第31話

保険の先生は不在中で、手当は山野先生が直々にやってくれた。保健室の棚を漁り穂苅君の両鼻に綿球を突っ込み、僕の唇には絆創膏を貼るという簡単な処置。


「いててて」


先生は湿布を引き出しから取り、カーテン裏で腰に貼り付けた。かなり打ちどころが悪かったらしく、おばあさんみたいに腰を丸めて小刻みに歩く。


「巻き込んですんません」


さすがの穂苅君も反省して深々と頭を下げる。


「下向くと血が出るわよ。これからあの子達がどんな訴えをするかわからない。もし退学になりそうだったらあの動画撮ってた子捕まえて、一方的に暴力ふるわれてるところ証拠にあげるから大丈夫よ」


「おっかねー先生。別にそこまでしなくたっていいし」


「退学になったら小説書く場所なくなっちゃうでしょ?」


「……余計なお世話」


穂苅君は両腕を天井に向かって伸ばし、つま先立ちして背伸びをした。安静にしなくて大丈夫なんだろうか。


「あーあ、調子狂った。せっかく叶崎引っ張り出してきたのに。今日はやる気ねえわ」


パイプ椅子に乗せた鞄を肩にかけて、両鼻に綿球を入れたまま保健室を出ようとする。


「叶崎悪いな、もっかい自転車漕いで帰る。お大事に」


「待ちなさい、用事もないのに早退なんて!」


「先生さよーなら」


全く聞き耳を持たないで間髪入れずドアを閉めて出て行ったので、僕は何も言えずじまいだった。


山野先生は首を振りながらまた溜息をついて壁に寄りかかる。


「衝動的なところが心配だわ。叶崎君は耐えたのに」


「……いえ、僕は本当ならあの二人に殴りかかりたかったし、酷い言葉を言ってやりたかったけど、怖くて何もできませんでした。穂苅君は、冷静に怒りを抑えて、僕達が傷ついた分だけ相手に返したんです」


さっき拾った写真を渡す。山野先生はポケットを確かめて自分が落としたものだとわかった。


「落としてたのね。良かった、あんまり人には見られたくない写真だったから」


「すいません、裏の日付を見てしまいました」


日付は3年前の4月。緊張して顔が強ばっているどこか初々しい。たぶん山野先生が学校に赴任してきた当初の頃に撮ったものだろう。隣には歯をむき出しにして笑う海原先生がいる。


「不安を吹き飛ばすような笑顔でしょ? 私はそれに助けられてきたの。お兄さんみたいだった。人はあっけなく死んでしまうのね」


1年早くこの学校に来た海原先生は、新卒教師で不安だらけの山野先生の面倒をよく見てくれたという。兄のような存在が、別れの言葉を交わさず入院して3日も経たないうちに旅立ってしまった。山野先生は見舞いに行こうとした直前に訃報を耳にしたそうだ。


「女子生徒、海原先生の死を喜んだって?」


「はい。穂苅君は、お前らが死んだ方がせいせいしたって」


「そっか。教師の立場で言ってはいけないけど、私だったら蹴り飛ばしてやったかもしれない」


先生は悔しそうにしてから悲しげに微笑んだ。唇が震えてる。泣くのを堪えているつもりでも、すでに一筋の涙が流れていた。


「先生、これ……」


テーブルの上に置いてあったティッシュボックスを差し出す。


「ああいけない。駄目ね、感情的になっちゃ。ごめんね、叶崎君。どうも胸に穴が開いたみたいでまいったな」


謝られたのは、教師が生徒の前で泣いたからなのか。


大切な人の死を侮辱されたのに立場上耐えるしかないからなのか。


僕の方が悲しみが大きいと思っているからなのか。


もしくはその全部。


「でも、まるで死ぬのがわかってたみたいだった。穂苅君が小説を書いていることも、叶崎君が親戚と暮らすことも、その他の生徒のことも全部私に引き継いだの」


親戚と暮らす、これは祈さんが誤魔化すためについた嘘。海原先生は自分がいなくなった後に生徒が困らないよう、あらかじめ準備をしていたのだ。


「僕のことなら、大丈夫ですから」


「君が大丈夫だとしても、高校卒業までと卒業以降のフォローはちゃんとします。……海原先生も余計なお世話なくらい、卒業生の面倒見てたのよ」


「あんまりお節介だったから、生徒にうざがられてるところは目撃したことあります」


「あそこまでうざくしないから安心しなさい」


山野先生はティッシュで涙を拭いてからまたいつものようにビシッと真面目に戻った。それがおかしくて僕は少し笑ってしまう。


見てよ先生。こんなに先生の意志を受け継いでる人がいるよ。羨ましくて仕方がない。


死後、この世界を眺めることが可能なら、海原先生は僕達を見ているだろうか。死なないでもう少し生きれば良かったと後悔していないだろうか。


ははは、まいったなぁ。


あの困ったように笑う先生の顔が浮かんで、どこからかそんな声が聞こえた気がした。

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