第30話

とある学校から一人の教師がいなくなって、永遠に戻らなくなってもなんら問題なく世界は回り続ける。すれ違う生徒は皆友達とお喋りをして楽しげに笑っていた。まるで海原先生の存在そのものを忘れてしまっているかのように。忘れる以前に、元々先生のことなどこれっぽっちも想っていないのかもしれなかった。


近い将来、僕がいなくなった世界を仮に見ている気分になる。同様に皆変わらず笑っているんだろう。


穂苅君の仲間の輪に半分ほど加わりながら廊下を歩いた。僕の知らない流行ファッションの話や、誰々が可愛いとかとてもついていけない話題を繰り出している。正直つまらなかった。今日1日こうして控えめにただくっついて歩くのはごめんだ。かと言って自分から出した話題に彼らが喜んで乗ってくれるかもわからない。だから黙っているしかない。穂苅君と二人でのんびりしたいところだけど、彼には彼の居場所がある。教室に着いたら後は身を引こう。またチャンスがあれば話をすればいい。


「てかさー、海ゴリラが死んだのびっくりだよね」


たった今すれ違った二人の女子の会話がふと耳についた。


「あー、海原ね、いつも息荒くしてて気持ち悪かったじゃん? スカート短か過ぎるとか言って顔赤くして笑ってるのマジ引いた」


「死んでいなくなってせいせいしたよねー」


「うわ! そこまで言う? ひどーい」


「だって本当のことだもーん」


心臓が、強く掴まれた感覚に襲われる。全身へ一気に血液が送られて、どんどん体温が上昇していく。これが怒りの感情であると気がついたのは、口の中に鉄の味が広がったから。あまりの怒りで無意識に唇を噛んで出血していたのだ。


悪気のない、鳥のさえずりのような女子の笑い声をこれほど醜いと思ったことはない。お前らが先生の何を知っている。あんなに情熱を持っていて、人のことばかり心配して、自分の弱さをしっかり受け止めて、精一杯生きていた先生を笑うな。


立ち止まって二人の女子を振り返り睨みつける僕の脇を風が通り抜けた。ワイシャツを着た背中と茶髪の後頭部が視界に入る。


「おい、ブス。俺はお前らが死んだ方がせいせいしたよ。くせえ香水嗅がずに済むし、汚ねえ顔と太い足見なくて済んだからな」


穂苅君は先生の悪口を言った女子二人に暴言を吐いた。女子はびっくりして自分達より背丈がはるかにある穂苅君を見上げる。


「はぁ!? 今なんつった? いきなり何なの?」


「ブスの上に記憶力もねえのかよ。こんな価値ねえ奴よか、かっこよくて頭がいい海原先生の方が生きててほしかったなぁ」


「んだとこらぁ!」


女子二人はみるみる顔が真っ赤になり般若のような顔に豹変する。かなり頭にきていて穂苅君をキーキー猿みたいに罵倒しながら二人がかりで思いっきり叩いたり蹴ったりした。目撃している他の生徒は面白がって動画を撮り始めたり唖然としていたり。その内騒動を聞きつけて一番近くにいた山野先生が血相変えてやって来る。


「何やってるの!」


見物客をかき分けてようやく辿り着いた山野先生は女子二人を押さえ込もうとする。女子はまだヒステリックに暴れていて、その拍子に山野先生の頬を肘で殴った。先生は尻もちをついて腰を痛がった。まさに修羅場だ。


穂苅君の仲間三人が盾となり、女子二人をどうにか宥めている内に他の教師も駆けつけて、女子二人を早々にどこかへと連行する。


嵐のような騒動は去り、見物客も散らばって行った。残されたのは僕と穂苅君と仲間三人と山野先生。先生は腰を手で押えながら立ち上がる。他の教師はヒステリック女子の対応でいっぱいいっぱいで、先生が床に座り込んでいたことに気づけなかったようだ。


「痴話喧嘩か何かだったのかしら?」


低音で静かに発した声にはふつふつとした怒りが含まれているのがわかる。


「はっ、誰があんなブスと」


「お黙りなさい。原因は知らないけど、女の子泣かせるなんて恥ずかしくないの?」


「泣いた方が被害者だって決めつける思考の方が恥ずかしいんじゃないすか?」


風神雷神の如く睨み合いになる。そうこうしていると朝礼開始のチャイムが鳴り、仲間三人は痺れを切らして「俺達先に教室行ってるからごゆっくり」と、そそくさと去って行った。


僕は目の当たりにした光景を正直に話して穂苅君の弁護をする。


「あの、山野先生。穂苅君は海原先生の悪口を言った女子に、怒っただけなんです。ちょっと言葉がきつかったかもしれませんけど、海原先生を死んで良かったって、言ったあの人達の方が最悪です。それに手を出したのは向こうで、穂苅君は一度も手を出していません」


突然、穂苅君は前かがみになり自分の鼻を手で押さえた。指の隙間から血が流れている。女子は連行される際に上履きを脱いで彼に投げつけていた。それがちょうど鼻に当たって鼻血が出たようだ。


山野先生が僕の話を信じてくれたかはわからないけど、諦めたように溜息をついて乱れた髪の毛を結い直す。


「……保健室に行かなきゃね。叶崎君も口から血が出てるから一緒に来なさい。朝礼は始まってるし、担任には後で説明しておくから」


「いえ、僕は、自分で噛んだだけで……。それよりも先生」


「いいから来なさい」


僕らは顔を見合わせる。無意味な抵抗はやめて、強制的に保健室へ連れて行かれた。


僕は山野先生に落し物を渡すタイミングを見つけられず、手を後ろに隠し持ったままだった。


尻もちをついた時、スーツのポケットから落ちたもの。ひらひらと舞って僕の足元に届いた1枚の写真には、海原先生と山野先生が二人仲良く学校を背景に写っていた。人に見られたくないものかもしれないと考慮して、穂苅君にはばれないようにこっそり渡そうと思う。

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