第25話
看護師さんの許可を得た後、僕らは中庭のベンチに腰掛けた。周りにはリハビリをしている人や車椅子に乗ってうたた寝している人がいた。近くに人がいない分、大っぴらにできない話が心置きなくできそうだ。
「何から話せばいいのやら……」
ジュースを夢中で飲む男の子の隣で先生は頭を抱える。僕は正面に棒立ちして先生の言葉の整理がつくまでまった。まるで尋問しているみたいで、申し訳ない気分になる。話を聞いたら、今度は僕がどれだけ先生に感謝しているのかを伝える番だ。
「僕は、教育が仕事の両親の元に生まれたんだ」
父親は大学教授、母親は家庭教師。代々教育者の家庭に生まれた先生は、生まれた瞬間から将来何者になるのか決められていた。
「あんまり勉強は得意じゃなかったね。人に物を教えるなんて以ての外だったよ。頭の良い両親の遺伝子を受け継がなかったんだなぁ。ゴホッ。それよか物を作ったり絵を描いたりする方がよっぽど好きでね、三度の飯とトイレと睡眠と風呂と勉強以外に開いたささやかな時間は美術に専念したもんだ。まぁ、厳しい両親に褒められることは一切なかったけどね。ゴホッゴホッ」
「苦しいですか? 話せって言いましたけど、無理は……」
「いや、聞いてくれ。君に話したいんだ」
ふぅと息を整えて、休み休み自身の過去を語る。
「出来損ないの僕にどうにかしてでも勉強を覚えさせようとした両親は、お互いの教育法が食い違っていって、諍いが耐えなくなった。そのうち母親が蒸発して、父親と二人で暮らした。マンツーマンの地獄みたいな教育が始まったよ」
毎日テストを出されて、百点満点を取らなければ食事抜き。睡眠時間も減らされてひたすら勉強。自由時間を全く与えられず、美術をする時間もなくなってしまった。
やがて、教育に暴言、暴力が加えられるようになる。父親の機嫌を取るために作り笑いをして、今も困ったら笑ってしまう癖がある。
「これだけはわかってほしい、叶崎君や他の教え子には作り笑いをしたことはないよ。本当に、楽しかったから笑ったんだ」
先生の壮絶な過去を聞いて目眩がした。感情移入して自分が体験したみたいになって、吐きそうになる。
「だったら、今が幸せなら終わらせることないじゃないですか」
「穂苅君から聞いただろうけど、僕は肺の病気を患っている。その前に、治療不可能な病気にもなっているんだよ。頭に、爆弾があるんだ。脳動脈瘤と言ってね、いつ破裂するかわからない。ゴホッ。……生命終了支援センターと契約しようがしまいが、命は短いんだ」
あまりのショックで気を失いかける。先生の声が遠い。僕の耳は水の中にいるみたいに周りの音を塞いだ。先生は目の前なのに、随分離れた場所にいる気がした。
それからも先生の声を懸命に聞いた。
「僕が何十年もこれから生きたいと希望すれば、生かしてもらうことはできる。でも生命終了支援センターと契約したからって病気の進行が止まったり治たりするわけじゃない。持病は抱えたまま生きなくちゃいけなくなる。腫瘤が破裂して痛く苦しい思いをして、寝たきりになってまで生き長らえたくはないんだ。どうせ死ぬなら、父親が亡くなった原因である同じ肺の病気を患って、父親の気持ちを知ってから死にたい。相手と同じ立場になれば、相手の気持ちを知れるんじゃないかって思うんだ。親父が最期にどんな思いをしたのか、遺された者に対して何を伝えたかったのか。……軽蔑してくれてかまわないよ。お母さんを亡くしたばかりの叶崎君を二度辛い目にあわせてしまうんだからゴホッ」
「海原さん、ぼくつかれてきた」
深刻な長話に付き合っていた男の子は目を擦って眠そうにしていた。
「……さっき、この子は自分の子じゃないと言っていましたけど、何者なのかわかるんですか?」
「僕は、生涯所帯を持つ気はないんだ。もちろん、こんな頼りない男は結婚できないだろうけどね。僕にはあの厳格な親父の血が流れてる。ゴホッ……子孫ができたらいつかまた親父みたいな性格の子が生まれて、僕みたいに辛い目にあう子が出てくるかもしれない。だから呪いを断ち切るじゃないけど、とても子を持つ気にはなれなかった。だって、可哀想じゃないか。ゴホッ」
先生は男の子の頭をゴツゴツした手で優しく撫でた。男の子は気持ち良さそうに目を細めている。
「でも、反対に親父とは違う、優しい父親になりたい気持ちはあるんだ。子どもの頃から、恵まれない子を引き取って父親になろうって夢があったんだよ。『祈』は将来出会うはずの大切な相手の、初対面の姿だ。この子が僕の実の子なら、赤ん坊の姿じゃないとおかしいだろう?」
「ということは、この子は、養子……」
「自然とそうなるだろうね。僕の推測が、ゴホッ……正しければ」
いつか先生はこの男の子とどこかで出会って親子にやるはずだった。しかし今先生が命を終わらせてしまえば、必然的にこの子は先生の子になれない。
男の子は先生を海原さんと呼んでとても懐いている。本当は、父と呼びたいのだろう。
「1ヶ月、この子と本物の親子のように過ごした。いたずらもされて、夜も起こされて大変だったよ。そんなの全然苦にならなかった。幸せだった」
「本物のこの子に会いましょう! そしたらもっと楽しいですよ。きっと本物のこの子に会うのは近い未来のはずです。……お願いです、先生は、1日でもいいから長く生きてください!」
自分のことを棚に上げているのは承知だ。声を振り絞って懇願する僕の顔はきっと酷いものだっただろう。先生には作り笑いじゃなくて、今にも泣いてしまいそうな困った顔をさせたのだから。
「そっくりそのまま、ゴホッ。君に返すよ。君は、僕に恩を感じているようだけど、恩があるのは僕の方だ。僕の、生徒になってくれた。褒めたことを、前向きにやってくれた。それが……どんなに嬉しかったか。教師になって良かったって、思わせてくれたんだよ」
「また一緒に部活をやりたいって、言ってくれたじゃないですか」
「……ごめん、叶崎君。その気持ちに嘘はない、誓うよ。考えてみて。寿命短い僕がこの子を引き取って、すぐに死んでしまったら、この子は独りぼっちになるかもしれない。その方が、残酷だと思わないかい? 悲しみを与えることがわかっているなら、初めから巡り会わない方が、いいんだよ。でも、君は違う。決して独りじゃない……。ゴホッゴホッゴホッ!」
咳が酷くなり先生は上体を曲げてヒューヒューと呼吸を荒くした。上手く息を吸えなくて肩を激しく上下させている。
僕は急いで近くにいた看護師さんに声をかけた。医療スタッフが何人も駆けつけて先生はすぐにストレッチャーで治療室に運ばれて行った。
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